こんなにも真摯に、誰かと向き合ったのはいつぶりだろう。
 間近にいる入谷の真剣な顔は、俺が浮かべているであろう表情の、きっと鏡写しだ。


 言いたいこと、言わなくてはいけないこと。それらを頭の中で整理しつつ、相手の喉元あたりを見ながら言葉を継いでいく。
 自分自身の話。これまで誰にも言ってこなかった事実。俺が本当は心底冷たい人間なのだと知ったら、入谷は自分と関わりを持ちたくなくなるかもしれない。それでも、伝えるべきだ。

「付き合ってほしいと言った手前、矛盾していると思われるかもしれませんが……俺は誰かを大切にできない人間なんです。――少なくとも、最近まで自分のことをそう思っていました」

 冷ややかな視線を残して去っていった女性たち。未だ胸の底に沈殿している彼女らの言葉。
 この歳になって自分語りとは気恥ずかしいが、入谷は黙したまま、続きを促すように適度に小さく頷く。静かに耳を傾けていてくれるのが、何よりありがたかった。

「過去に女性と付き合っていたこともあったんですが、結局よく分からなかったんですよね。好きとか、相手を特別大切にするとか。例えばコンビニの店員さん相手にだって、ある程度は愛想よくするじゃないですか。俺は一事が万事、そんな感じでした。一人だけを特別扱いするのがどうしてもできなくて、それで相手とすれ違って、酷い別れ方になって……」

 腿の上の拳に我知らず力がこもる。欠落だと思っている自身の性質を口にするのは、決意しても苦いものだった。
 水を向けるように入谷が口を開く。

「でも、最近までということは……僕には特別な感情がある、ということですか?」

 彼の切れ長の目を見る。目線をしっかり合わせながら、深く首肯した。

「きっと、そういうことなんだと思います。俺はあなたに好意を持っています」

 断言すると、いつも余裕のある目が不規則に揺れる。

「それは――かなり、熱烈な台詞を仰っていると感じるのですが」
「熱烈……いやでも、事実ですから」

 入谷に触れられるたびに体が熱くなる。それを抜きにしても、孤独を感じたときに声を聞きたくなったり、隣で眠ることに落ち着きを感じたりする。相手を好ましいと感じていなければあり得ない距離感。何とも思っていない相手と距離を詰めたいなんて思わない、そういう人間だと自分が何より理解している。
 好意は確かだが、それでも懸念は残っている。
 ただ、と顎を引いて続けた。

「また発言が矛盾するようですが、この気持ちが恋愛感情なのかどうか判断がつかなくて。自分で付き合ってほしいと言い出しておきながら曖昧ですみません。こういう気持ちになるのは初めてでして。自分でも名前を付けられない感情が、あなたに対して生まれているんです」
「橘さん、それはちょっと……あまりにも……」

 無意識のうちに勢いこんで口調も熱っぽく早口になっていた。相手は俺からふいと顔を逸らす。あまりの勢いに呆れさせてしまっただろうか。黒髪のあわいから覗く耳はうっすら赤く染まっている。

「すみません。話を聞いてとお願いしておいて、自分でも気持ちが分からないなんて。でも返事をしてもらう前に、正直に話しておきたかったんです。あなたとの関係を大切にしたいから」

 トランプで手の内のカードを全て明かすのに似た気分だった。入谷はいま、俺の本当に近い姿を知っただろう。後は彼の返事に委ねられている。
 こちらに向き直った入谷はなおも目を伏せたままだ。何かを抑えようとするみたいに、両掌を俺の方に差し向けている。

「橘さんのお気持ちは分かりました。よく分かりました。それ以上続けられると心臓がどうにかなってしまいそうです」
「心臓が……? 大丈夫ですか」
「大丈夫ですかって、あなたの言葉が原因なんですけどね。まあ、それはいいです。――橘さん。今度は僕の話も聞いて頂けますか。話というか、告解を」
「入谷さんの?」

 思わず目をぱちぱちと瞬かせてしまう。彼からの話とは何だろう。こちらに当然否やはないが、告解とはなんだか穏やかではない。
 身をかなり乗り出してしまっていたのに思い至り、身を引いてソファにしっかり座ってから返事をする。

「それは、はい。もちろん」

 首肯を受け、おほん、と仕切り直すように入谷が咳払いした。なんとなく、緊張感が漂ってくる。
 青年は薄い唇を舌で湿らせてから、始めた。

「あなたが腹を割ってお話しして下さったので、僕も隠していたことをお伝えします。言ったところで、幻滅されるだけかもしれませんが」
 幻滅?「……なんでしょう」
「橘さんもお気づきだったと思いますが、僕はあなたに『好きだ』と言っておきながら、それ以上のことは申しませんでした。あなたがストレート――異性愛者だと分かっていたから、恋人になりたいだなんて高望みだと思っていたんです。あなたの心を端(はな)から諦めていた僕は、あなたをなんとか体で繋ぎ留められないか。そう考えました」
「……! それは」

 告げられた心の内。少なからず衝撃もあったが、そう言われると腑に落ちる点も多い。事ある毎にセックスまで誘導しようとしていた入谷の、あの陶然とした表情。余裕ある態度の裏で、彼は本当は何を考えていたのか。
 目が伏せられ、視線の先で長い指が組まれる。

「初めてあなたと出会った夜から、僕はあなたのことばかり考えるようになりました。心が手に入らないのなら、橘さんの体だけでもいい。それが本音でした」
「……」
「気持ちいいことをし続けていれば、少なくともその間は僕から離れないでいてくれるのではないか、と短絡的に思ったわけです。最後まで持ち込めば、僕から離れられないようになるのではないか、とも。そんな後ろ暗い気持ちを抱えて僕は、毎回あなたと会っていたんですよ」

 入谷は顔を上げ、俺の目をまっすぐ見てくる。その瞳の奥にちらつくのは、罪悪感だろうか。自己嫌悪だろうか。

「思い返せばそれらはすべて、極めて不誠実な行動でした。あなたが離れていくのが怖くても、僕は気持ちを誠実に打ち明けるべきだった。あなたのように」

 いつも纏(まと)っている軽やかな風を自ら剥ぎ取った入谷の声は、どこまでも真剣でまっすぐで。矢のごとくこちらの心へ飛びこんでくる言葉に俺は気圧(けお)された。彼が怖いと思っていたなんて分からなかった。全然、分からなかった。
 俺に据えられた、見慣れた瞳の深い黒色。それは見慣れぬ濡れたような光を放っている。

「……僕と初めてお会いしたときの事、覚えておられますか?」

 急に飛んだ話題にも、もちろんと返す。
 偶然訪れたギャラリー。静謐な風景写真で熱くなる体。熱く濡れた舌の蠢き。忘れたくてもあんな強烈な体験、忘れられるものではない。忘れたいなんて考えてもいないけれど。
 件(くだん)の青年写真家はふ、とひとつ息を吐く。

「以前僕は、生き物をうまく撮ってあげられないと言いましたね。写真――この場合はポートレートと言った方がいいですが、それは大抵の場合、被写体の良さを引き出すものです。けれど僕の写真は、完全に自己表現の手段となってしまう。風景写真を通して、僕という個人を表現しているんです。自分の分身と言い換えてもいい。だから、僕の写真を見て感じていたあなたの姿に、僕が心惹かれるのは必然でした。生身の僕よりも真に僕らしいものを見て興奮していたあなたは、胸を衝(つ)くくらい可愛らしかった。だから手に入れたくなってしまったんです」

 実に熱っぽく言う。あまりの温度にこちらの頬が熱くなるほどだ。彼の好意の源泉を聞いたのは初めてだった。何が琴線に触れたのか不明だったが、そういうわけがあったのか。

「そう、だったんですか。いや、俺は可愛くはないと思うけど」

 やんわり否定すると、入谷は口元を緩ませた。そこに浮くのは、どこか空虚な笑み。

「お分かりになったでしょう? 僕は利己的で打算的で、そのうえ浅ましい人間です。恋人に、というお話はもちろん嬉しいです。でも、僕にはあなたの熱意を受け入れる資格がありません。前言を撤回なさりたくなったんじゃありませんか?」

 こんなに近くにいるのに距離を感じ、寂しいな、と思う。積極的なようでいて、実際はずっと一歩引いて俺と接触していたわけだ。それは、この瞬間も変わらない。
 だが相手は見誤っている。打算を打ち明けられたくらいで、今の自分は意を翻(ひるがえ)すような人間ではないのだ。
 すぐそば、腿の上で握られていた入谷の拳を、手を伸ばして掌で包み込む。自分から彼の手を取ったのはこれが初めてかもしれない。はっと身を固くするのが伝わってくる。
 いつもより努めてゆっくりと話す。

「そんなこと、しませんよ。資格がないとも思わない。だって、もう好きになってしまったから。俺の気持ちは変わりません」
「……」
「後は、入谷さん……紫音くんの返事次第です」

 顔を覗きこむと、束(つか)の間瞳が戸惑うように揺れる。

「いいんでしょうか。こんな僕でも」
「もちろんです。そんな君を好きになったんだから。というか、紫音くん以外の他の誰でも駄目なので」

 切れ長の瞳が見開かれる。いつもの余裕が失せたその表情が、俺の目には少し愛らしく映っていることを、彼には知らせない方がいいだろう。
 そっと、入谷の手の上にある俺の指先に、もう片方の彼の掌が覆い被さってくる。さらりとした、少し冷ややかな温度が心地好い。

「ありがとうございます。とても、嬉しいです」
「じゃあ」
「はい。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」

 お互い顔を見合わせて、ふふっと微笑を交わした。これで俺たちはついに、晴れて恋人同士というわけだ。あまりにこそばゆく慣れない雰囲気に、もじもじとしそうになる。
 俺の掌を、入谷が不意に持ち上げた。そのまま口元まで運んでいって、指先に唇を落とす。洋画でしか見ないような仕草も実に様(さま)になっていて息を飲む。黒髪のあわいから垣間見える、伏せられた睫毛と引き結ばれた口元に、心臓のあたりがざわりと波打った。
 騎士そのものの口づけを終えた入谷が、眉尻を下げてこちらを見つめる。

「柾之さん。改めて謝らせて下さい。あなたを体で繋ぎ止めようとしていたこと、それを黙っていたこと、申し訳ありませんでした」
「謝らなくていいですって。別に、気にしてませんから」

 それは嘘偽らざる本音だったのだが、相手は少しだけ眉をひそめ、

「僕が気にします」
「まあその、なんだ」思わず苦笑しながら頬を掻く。「結果的に上手くいったんだし、結果オーライってことでいいんじゃないですか」
「……そう言って頂けると、少し心が軽くなりますが。本当にそれでよろしいんですか?」
「いいですよ。もう全部、水に流して下さい」
「……やっぱりあなたは、お人好しです。そういうところも好きですが」

 入谷が自然な笑みを浮かべると、部屋にはしばし沈黙が満ちた。
 触れ合ったままだった指がおもむろにほどかれる。彼は一旦立ちあがってテーブルを迂回し、俺の隣に腰を下ろした。近い。太腿が密着して、そこから相手の体温がじんわりと伝わってくる。
 やおら周囲の空気が緊張感を孕む。張り詰めた空気に背を押されるように横を見れば、長い睫毛に縁取られた入谷の澄んだ瞳と目線がかち合った。
 ばちり、と音が出なかったのが不思議なほどに熱い視線。その奥に宿る、炎に似た期待の気配。
 俺でも分かる。これは、キスする流れだと。
 どちらともなく腕が伸びて、互いの顎に添えられる。まさに今、気持ちが通じた相手のなめらかな肌に触れているのだ。気持ちの高まりに従い、唇を重ね合わせた。口づけははじめ表層をなぞるように、徐々に粘膜の境目をなくすように深まっていく。
 互いの奥深くまで求め、与え合う。ややあって焦れったそうに入谷が膝に乗ってきた。脚に感じる重量感がそのまま想いの重さにも感じられる。
 彼の腕は俺の頭の後ろに、俺の腕は入谷の腰に。腕も脚も絡んだ体勢でのキスは、これまでのどこか激しく急いたそれと違って、何かを与え合うような、二人で分かち合うような、緩やかでねちっこく息の長いキスになる。
 まだまだ、足りない。入谷が足りない。
 甘く感じる舌を味わいながら、跨がっている体の表面を腰から腿へと辿り、パジャマの裾から両手を差し入れる。体のぴくりとした震えが、触れ合った脚からダイレクトに伝わる。脇腹の凹凸をなぞり上げ、親指の腹で胸の頂点を刺激すると、至近にある肩が跳ねた。
 相手の鼻から漏れ出る吐息は、もう甘く爛れてとろけきっている。俺の呼吸もきっと、同じ温度だ。

「んっ、ふ……。んぅ……」

 熱に浮かされたあえかな声が鼓膜を震わせる。ぷっくりと形を主張した胸の尖りを指先で挟み、弾き、指の腹で撫で、捏(こ)ねて、愛撫する。下半身には既に辛いくらいの熱が溜まっていた。相手もそうだといいなとぼんやり思う。
 この先を予想して、無意識のうちに腰が揺れる。入谷の腰から下も誘うようにゆらゆら上下左右に揺らめいていて、布を隔ててセックスしているみたいだった。
 ――そうだ、セックスはこれが初めてなのだから、ベッドへ移動してちゃんとしたい。
 口を離してそう切り出すか切り出さないかのうちに。

 突然、入谷の上体がぱっと離れた。

 え、と間抜けな声が漏れそうになる。ジェットコースターの頂点で、いきなり虚空に放り出されたみたいに、没入感が一瞬で霧散した。
「ああ、いけない」彼の視線は壁掛け時計の方を向く。「そろそろ取材の準備をしなければなりません」
「あ、えっと」状況から置いてきぼりを食らって呆けてしまう。取材、準備。そういえば、午後からの予定がそうだと先刻聞いたような。じゃあまさか、ここでお預け? そんなことって。
 眉を下とす目の前の表情はばつが悪そうでもあり、どこかいたずらっぽくもあり。つまり、目の前にいるのは完全にいつもの入谷であった。

「すみません、柾之さん。そういうことで、よろしいですか」
「それは、ええ……はい。もちろん」

 よろしくない。などと俺に言う権利はない。膝から降りててきぱきと行動し始めた入谷は、もう本来の調子を取り戻していた。確かな実績に裏打ちされた自信や余裕に満ちた彼の立ち居振舞いは、美しく眩しい。唐突な中断で宙ぶらりんになった体の熱(ほとぼ)りは、阿呆みたいに彼の様子を眺めやる俺の中から、潮が引くのに似たスピードで遠退(とおの)いていった。
 パジャマのボタンに手をかけた格好の入谷が、何かを思いついたように振り返って、内心少しぎくりとする。

「時に柾之さん、今夜は何かご予定はありますか」
「今夜? いえ、特にありませんが……」
「でしたら、そのまま空けておいて頂けますか。場所はまだ確約できませんが、夕食をご一緒できたらと思います。決まったら後ほどご連絡しますので」
「……分かりました。連絡、お待ちしてます」

 肯(うけが)うと、家主は満足そうな微笑を残してリビングから出ていった。
 俺はしばらくそのままソファの上で色々なものを噛み締めていた。あの口振りからすると、おそらく食事は店で摂るのだろう。恋人になってから初めての外食。そう考えると面映(おもは)ゆく全身がむずむずするが、心が弾むような期待も同時に感じる。
 それにしても、去り際に見せたほほえみから想像するに、彼はまた何かを企(くわだ)てていそうだった。先ほどはしおらしい姿を見せていたけれど、関係が一段深まっても俺はやはり、入谷に翻弄され続ける運命らしい。それもまた、悪くはないだろう。
 彼の企みは吝(やぶさ)かではないどころか、むしろ楽しみですらある――なんて呑気に構えていたら、華麗な体さばきで軽々と足を掬われそうだけれど。
 なるべくお手柔らかにしてほしいものだ、と思いつつ、自分も着替えるためにソファから腰を浮かせた。
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