入谷のオフィスを辞し、一日ぶりに自宅へ向かう。道路の端に昨夜の雨の名残は残っていたが、空は気持ちのよい秋晴れだった。涼しさと秋の匂いを含んだ微風が頬に心地好い。
 土曜の中途半端な時間の電車はそれなりに空いていた。車内はカップルや友達同士、家族連れがほとんどで、自分のようなスーツ姿の人間は数えるほどだ。周りからどう見られているのかは、努めて考えないことにする。
 席の端に腰かけ、人心地ついたところで私用のスマホの画面を何気なく見、何件か着信が入っているのに気づく。相手の名前を確認した途端に嫌な予感が脳裏を走った。変な胸騒ぎを覚えつつ、自宅の最寄り駅へと滑りこんだ電車から急いで飛び降りる。
 マンションの自室まで小走りで向かうと、果たしてドアの前には着信の相手がいて、インターホンを鳴らしまくっていた。やめてくれ、恥ずかしい。
 俺の足音に気づいたらしい人影がこちらを振り向く。

「あ、まーくん。電話にも出ないし家にもいなさそうだからどうしたのかと思った」

 我が姉のつぼみはあっけらかんと宣(のたま)う。不在だと察しているのなら呼び鈴連打をしないでほしい。

「そっちこそ突然なに? また旦那……義兄さんと喧嘩?」
「違うってえ、さすがにこんな短期間で喧嘩はしないよ。こっち方面の友達と会うからさ、まーくんにも手土産のお裾分けをと思って。はい」

 落ち着いた色合いのワンピースを着た姉が紙袋を差し出してくる。そんなことでわざわざ押しかけるなよ、とぼやきながらもそれを受け取る。中身は何だろう、おそらく食べ物だが。
 そこで俺をまともに正面から見たらしいつぼみが、顔や全身をまじまじと見つめてきた。頭から足先まで三度くらい往復しただろうか、はたと何かに気づいた面持ちになる。ああ、まずい。厄介なことになったぞ。
 なにせ休日の昼日中だというのに、今の格好は僅かによれたスーツ、顔面の下半分には無精髭と来ている。何か察するのに十分な情報量を、俺自身が発してしまっているのだから。
 つぼみがぱっちりした目を、猫みたいににんまりと笑ませる。

「ていうかまーくん、朝帰りなの? へえ〜そう〜」

 頬がひきつる。身内に一番晒したくない姿を思いきり提示してしまい、忸怩たる気持ちになった。肉親のしたり顔なんて見られたものではない。別に、と弁解する自分の声は思ったより拗ねた響きになった。

「そういうんじゃなくて……飲み会の後に友達の家に泊まっただけだから」
「ふーん、じゃあそういうことにしといてあげよっかな」

 つぼみはにまにま品のない笑みを貼りつけたまま。納得していないのが丸分かりだ。
 今しがたの言い訳は全然的外れというわけでもない。飲み会があったのは事実だし、入谷とは昨夜の時点ではまだ恋人ではなかった。でも、友達という言葉が咄嗟に口を突いて出たとき、心が確かにつきりと痛んだ。本当は彼のことをただの友達だなんて説明したくはないのだ。心の中で手を合わせて詫びる。
 ひととおり弟をからかった姉は満足したようで、そのまま回れ右をする。

「じゃあね、まーくん。たまには実家に顔出しなさいよ、そんなに遠くないんだし。うちのだってまーくんとお酒飲みたがってるよ」

 実家か。最後に帰ったのはいつだったか。両親も親戚付き合いも煩わしくて、もう一年以上帰省していない。気分が上向いていたのに、深いため息が出そうになる。

「だったら母さんたちに、結婚の話題とか出すなってつぼみから言っといてくれよ。そしたら帰ってもいいから」
「結婚だってそんなに悪いものじゃないよ」

 諫められるかと思ったのに、つぼみのその返答は存外穏やかで真面目な調子だった。
 別に悪いものだと思っているわけじゃない。時たま喧嘩しながらも、人生を一緒に積み上げている姉夫婦の姿は好ましいと思える。
 ただ、入谷と気持ちを打ち明け合ったこのタイミングで、結婚の話を聞かされてはどうしても気持ちが濁る。

「……まあ、どうしても嫌ってわけじゃないから。そのうち顔出すよ」
「はいよー、期待しないで待ってるから。またね」

 つぼみは無造作に掌を振り、さっさと踵を返した。
 その後ろ姿を少しだけ見送って自室に入ると、見慣れた光景がどことなく違ったものに見えた。おそらく、変わったのは自分の心境だ。
 上着をハンガーにかけ、いつものようにふわふわ泳いでいるクラゲたちに餌をやる。流されてばっかりで呑気なもんだな、と当てつけみたいに考えている自分に苦笑する。流れに逆らうのを決めたのは俺自身だというのに。
 シャツとスラックス姿のまま、体に馴れきった己のベッドに身を投げ出す。昨日から色々なことがあって、嬉しいのと同時に少々気疲れがあるのかもしれない。髭も剃らねば、夜は入谷と会うのだから身綺麗にせねば、と思うのだがなかなか体が動かない。
 瞼を閉じているうちに、いつしか寝落ちしてしまったようだ。覚醒の瞬間、起き抜けに遅刻を察知したときの嫌な予感が脳裏を走る。掛け布団の上に放り出されていたスマホを確認すると、午後三時過ぎ。昼食も摂らずに眠りこけてしまったが、入谷からの連絡はまだ入っていなかったため、ひとまず胸を撫で下ろす。今のうちに髭を剃って軽く何か食べておこう。
 姉に押しつけられた袋の中身を確認するとやはり食べ物で、さくさくとした軽い食感とナッツの豊かな香りが特徴の焼き菓子だった。変な時間にがっつり食べるのも躊躇われるし、腹ごしらえに丁度いいかもしれない。ほろほろ崩れるそれを半分ばかり食べ終わった頃、待ちかねていたメッセージが届いた。寝過ごさないで本当に良かった、と冷や汗が滲む気持ちでスマホに表示された文面を読む。

 "ご連絡が遅くなってすみません。
 こちらのレストランを予約しました。"

 その下にリンクが載せられている。タップして確認してみると、なんとなく耳馴染みのあるホテルの最上階に位置するレストランだった。

 "待ち合わせは18時半に現地集合でと考えております。
 こちらで大丈夫という場合でも、都合が悪くなった場合でも、お返事を頂ければと思います。
 どうぞよろしくお願いします。"

 まるでビジネスメールめいた文章に思わず笑みがこぼれる。入谷らしいと言えばそうだが、彼の丁寧な口調が砕けたのを殆ど聞いた覚えがない。これからもっと親しくなったら、あの丁寧さが崩れることはあるのだろうか。

『ほら、触って僕に見せて。柾之』

 不意に、いつか彼に命令口調で呼び捨てにされたのが耳に甦り、背中と腰のあたりがぞくりとする。あのときの入谷がもしまた顔を出したら――体が熱くなりそうで、慌てて想像を断ち切る。考えるべき事柄は他に色々とあるのだから。
 問題ない、楽しみにしている旨を返信してから、さて、とリビングの椅子の上で腕を組む。目下一番の懸念は服装である。
 検索して見た会場の雰囲気から察するに、それほど厳しいドレスコードがありそうな感じではなかったが、あまりにラフな格好で乗り込むわけにもいかないだろう。決して豊富とは言えない手持ちの服を引っ張り出して検討した結果、ノーカラージャケットに薄手のハイネックニットを合わせることにする。
 ジャケットは抑えた艶のあるネイビー、ハイネックは黒、パンツはダーツの入ったダークグレーだ。無難も無難だが、入谷の隣に立つのだから彼に恥をかかせないことを最優先にすべきだろう。
 髪型はいつものままでいいのかとか、服に変な匂いが染みついていないかとか、靴の表面を磨いておかないととか、気にかける点が無数に出てきて忙(せわ)しない。結局、余裕を持って家を出るはずが、どこかで迷ったら遅刻しかねない時刻になってしまった。最後に玄関の鏡で全身をチェックしてから出発する。
 日が落ちた後の夜気はからりと乾燥して冷たい。乗った電車は着々とホテルに近づきつつあり、手すりを持つ手にぐっと力がこもる。特別に誂えられた空間へと向かうときの、言い知れない高揚感と幾ばくかの不安。こんな気持ちになったのは何年ぶりだろう。気持ちが不安定に揺れ動くのを、社会人になってからは特に厭わしく思ってきたはずだった。しかし今はほどよい緊張感がかえって快いものに感じる。
 向かう先にいるのが、入谷だからだろう。
 現地にはほぼ約束の時間ちょうどに到着した。先方の性格を考えると既に到着しているはずだ。スマホを見るとやはり、十分ほど前に"ラウンジでお待ちしていますね"との連絡が入っている。
 手入れが行き届きライトアップされた庭や洗練されたホテルの外観、瀟洒なエントランスを堪能する暇もないまま、急ぎ足で入り口のホールから地続きのラウンジへ向かい、かの人の姿を探す。
 居心地良さそうなそちらへつかつかと近づいていくと、並べられた布張りのソファからすっと立ち上がった影があった。見ると、それが入谷である。彼の格好を認めて、俺の脚は無意識のうちに動きを止めた。

「……お待たせして、申し訳ない」
「いえ。ぴったり約束の時間ですから、どうかお気になさらず」

 如才ないほほえみがいつもより眩しく見え、目が離せなくなった。いつもふわふわしている黒髪は整髪料でまとめられ、すっきりとした額が照明の下に晒されている。服装は紫紺色の上着とベストにスラックス、ぴしりと隙のないスリーピースだ。艶のある生地には全体的にうっすらとダマスク柄が浮いている。そこに黒シャツを合わせ、柔らかなクリーム色の細めのネクタイをきっちり首元まで締めていた。小脇に抱えているクラッチバッグは艶消しの黒のシンプルなものだ。
 頭から爪先まで格調高い統一感をまとった立ち姿は、まるで絵画から抜け出てきた絵姿そのもの。街の猥雑さから隔絶されたホテルのラウンジにあってなお、周囲に放たれる美しさはほとんど別次元で、くらくらと眩暈がするようだった。
 この人と俺が付き合っているのか。急に現実が信じがたい気持ちになり、生唾を飲み込む。
 言葉を失った俺を不審に思ったか、深い色の視線がこちらの上から下まで舐めるように往復する。

「す、すみません。もっとちゃんとした格好で来るべきでしたね」
「そんなことはないですよ。柾之さんも格好いいです。僕は少し気合いを入れすぎたかも」

 くすりと笑い声を漏らす彼は、いつになく蠱惑的だ。よくそんな歯の浮くような台詞をさらりと口にできるものだと思う。心臓の早鐘が落ち着かない。今からこんな調子では途中でどうにかなってしまうんじゃないか。

「それでは、行きましょうか」

 甘く囁いた入谷の腕が腰に回ってきてぎくりとする。反射的に相手を見れば、いたずらっ子にも似た微笑が口元にある。ちょっと、と何か言う前に、腕はわずかな感触を残してすぐに離れていった。
 自意識過剰かもしれないが、エレベーターホールに向かう我々の背中に、居合わせた人々の視線が突き刺さっている気がする。あの二人はどういう関係なんだろう、という無言の問い。
 片や普通の会社勤めのサラリーマンで、片や海外にも名の売れたフォトグラファー。初見でも雰囲気の差は一目瞭然だろう。一体何がどうしてこうなったのか、来し方を思うと自分でも混乱しそうになる。
 レストランはホテルの最上階だ。金属を多用した重厚な造りのエレベーターに乗ったのは俺たち二人だけだった。重々しい扉が閉まった途端、隣にいる入谷が両手で顔面(かおおもて)を覆い、はああと深く嘆息したものだからぎょっとしてしまう。

「ど、どうかしました?」
「黒のハイネックなんて破壊力が強すぎます。お召しになるなら事前に仰って頂きませんと……心臓が持ちません」
「そんなに……?」
「あなたは僕にとても好かれている、という自覚をお持ちになった方がよろしいでしょう」
「ええと……善処します」

 大真面目に告げられた言葉に頬が緩む。以前は何を考えているのか推し量れない部分が多かった入谷だが、名前のある関係になってからは俺への気持ちを隠さなくなったと感じる。ハイネックの破壊力とやらはよく分からないが、何でもない顔の裏でそんなことを思っていたなんて。なんだ、彼も俺と同じじゃないか、とほっこりした気分になった。
 階数表示が順調に昇っていく中、入谷が身をすり寄せてくる。

「ここでキスしてもいいですか」
「えっ」しみじみしていたところへとんでもない要求が来た。狼狽もあらわに天井の隅あたりに視線をやる。「でも、その、エレベーターって監視カメラがあるんじゃ」
「僕は誰に見られても構いません」

 動揺する俺に迫る双眸の、炯々(けいけい)とした輝き。まるで獲物を前にした肉食獣のようだ。その目がちらりと上方に振られ、

「この角度なら、おそらく見えませんから」

 囁かれて有無を言わさず唇を奪われる。その行動は衝動的なのか理性的なのか、分からない。口では難色を示していても体は正直なもので、口づけされると目の奥あたり、脳に近い場所が一気に燃え上がるみたいに熱くなる。俺はこんなシチュエーションで興奮する人間じゃなかった、はずなのに。
 別の生き物にも思える指先が、上着とハイネックのあいだに侵入してくる。カメラに隠れた場所で指が蠢き、背中から腰にかけてをまさぐった。腰椎の周りが痺れ、そこから砕けそうになる気配を感じ、慌てて脚に力をこめる。
 いよいよ最上階は目前だ。このままの体勢でドアが開いてしまったらどうなるのだろう。秘め事をカメラの死角に隠匿したのも水泡に帰し、居合わせた人皆に痴態を晒すことになったら。
 思考が熱に冒されぼうっとしてきたタイミングで、入谷の体が離れる。

「さて、これ以上は危険ですね」
「あ……」
「まったく物足りないですが、これは前菜ということにしておきましょうか。ね? 柾之さん」

 俺の目を覗きこみながら、濡れた唇を舌先でぺろりと舐める。その仕草も、ほんの一時(いっとき)の閉鎖空間も、この先の長い夜の気配も、何もかもが淫靡だった。
 チン、とレトロな音を響かせ、エレベーターが停止する。入谷が俺から離れてから、ほんの数秒後の出来事だった。


 到着したレストランはスペースを広々と使っていて、華美すぎず、落ち着いた大人のための空間といった印象だった。暖色の照明は輝度を絞ってあり、他の客の顔立ちをさりげなく隠している。高い天井まで届くガラス窓からは、藍色の帳の中へ光を放つビル群が整列しているのが見えた。都市の夜景なんてただの景観としか思っていなかったのに、なぜだろう、こうして眺めるととても美しく価値のあるものに思える。
 席へつきながら、俺の心はどこなくざわざわと浮き足立っていた。案内してくれたギャルソンが、同行者を見てわずかに目を瞠るのに気づいてしまったからだ。場数を踏んだ百戦錬磨のホテルのギャルソンが、少しでも顔色を変えるなんてよほどの事態だろう。やはり客観的に見ても、今宵の入谷の美しさは群を抜いているのだ。
 平常心、平常心、と念じながら渡されたメニュー表に目を通す。ディナーのコースは前菜やメインの選択肢がそれぞれいくつかあるプリフィックススタイルだった。パンの籠を運んできたギャルソンにお互い要望を伝える。籠の中の何種類かのパンから、食欲をそそるバターと香ばしい小麦の匂いが立ち昇ってきた。
 テーブルの上には本物の火がついたキャンドルがあり、白いテーブルクロスの上に炎の影がゆらめいている。ちらちらとした光に照らされる入谷の姿と相対しながら、まずはスパークリングワインで乾杯という流れになった。

「では、改めて今後ともよろしくお願いします、ということで。乾杯」
「乾杯」

 アルコールは納会以来で、つまりあれからたった一日しか経っていない。己の心境も、我々の関係も、何もかもが塗り替えられてしまった。その事実に驚きつつ、芳醇だがさっぱりとした口当たりを味わう。

「それにしても、すごく素敵なところなので驚きました。よく当日で予約取れましたね」
「そういうのは野暮というものですよ、柾之さん」

 苦笑しながら肩を竦める入谷に指摘され、初っ端から要らないことを言ってしまったと頬が熱を持つ。

「……ですよね、すみません」
「いえ、そんな。意外と当日はキャンセルが出がちなので、いくつか当たってみたんです。予約が取れる確約はできないので、昼間は曖昧な伝え方になってしまいましたが」
「ありがとうございます、わざわざ……」

 前菜の皿が来る。彩り鮮やかな種々の野菜に、白身魚のカルパッチョが合わさっていた。初めて味わうような深みのあるソースがかかっている。白い皿の余白がソースで飾られているのも洒落ていて、目にも楽しい。
 ただ、俺は料理よりもむしろ入谷の食べる姿に意識を奪われていた。背筋がぴんと伸び、ナイフとフォークを繰る動作も淀みなく流麗で、何かのお手本を見ているよう。フォークが口元に運ばれるたびに、白い歯と赤い舌先がちらりと覗く。
 視線の熱さに勘づいたか、相手がふっと目線を上げる。

「どうかしましたか? あまり食が進んでおられないようですね。お口に合わなかったでしょうか」
「あ、いや……紫音くんの所作が綺麗だから、見とれてしまって」

 ぽうっとしていたせいか、恥ずかしい本音がほろりと漏れる。入谷は呆れるでもなく、少し照れた顔で蕾がほころぶみたいにはにかんだ。

「また、そんなことを。酔うにはまだ早いのでは?」
「そうですね……。お酒じゃなくて、紫音くんに酔ったのかも」

 相手が目を見開いて、それで自分が何を言ったのか遅れて自覚する。素面(しらふ)では出てきそうもない台詞に我が事ながら驚いた。ナイフを置いた右手で恥じ入るように口元を覆い、顔を逸らす入谷の白皙の頬は、ほの暗い照明の中でもはっきり分かるほど赤らんでいる。

「な……突然何を言い出すのですか。驚かせないで下さい……」

 常になく語尾がすぼまっていく。その一連の様子は可愛らしかった。そっと心の中のフォトギャラリーに想像上の写真を収める。胸がさざめくのに温かくもなる、こんな気持ちは初めてだ。
 その後すぐに入谷は調子を持ち直し、次のパスタの皿が運ばれてくる頃には完璧で余裕のある振舞いを取り戻していたが。
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