入谷は優雅な仕草で俺を室内に招き入れる。怒るどころか、柔和なほほえみを崩さないまま。

「ご迷惑だなんて。あなたが来てくれるのなら、僕はいつでも歓迎ですから」
「入谷さん……」
「飲み会だったのですね? お酒の匂いがします。そんなに急がずとも僕は逃げませんのに。……おや、髪が濡れているじゃありませんか」

 少々お待ち下さい、とリビングで棒立ちになったままの俺を残し、入谷は奥からタオルを取って戻ってくる。そのままいとけない子供にするように、正面に立って俺の頭をわしゃわしゃと拭くものだから、面映(おもは)ゆくて苦笑いが湧いてきてしまう。

「自分で、できますから」
「そうですか? でもそのままでは体が冷えてしまうでしょう。ひとまずシャワーを浴びてはいかがですか? 積もる話は、その後ということで」
「……そうします」
「着替えも僕ので良ければ用意しますので。下着も橘さんが置いていったものをお出ししますね」

 時間も距離も隔たっていたのが幻であったみたいに、入谷はすらすらと淀みなく言葉を紡ぐ。そこまでしてもらっていい立場ではない俺は恐縮するばかりだ。

「すみません、急に来たのに何から何まで」
「気にしないで下さい。僕はあれこれと他人の世話を焼くのが好きな性分なんです」

 慈愛めいた視線で見られ、自分の方が年上なのに幼くなった気分になる。彼には格好のつかない姿ばかり見せてしまっている。
 スーツをかけるハンガーを借りてから、脱衣場で湿ったシャツやスラックスを脱いで風呂場に入った。自覚しないうちに全身が冷えていたようで、熱い湯が体にも心にも沁みる。こそこそと背後のガラス戸、の向こうにある脱衣場を窺うが、今夜は入谷がやってくる気配はない――当然といえば当然だが。
 ランドリーラックに着替えとして用意されていたのは、入谷と色違いの紺色のパジャマだった。うっすら光沢のある柔らかな生地、これはシルクではなかろうか。普段適当なスウェットやTシャツで寝ている自分が袖を通すのも憚《はばか》られるが、これ以外に乾いた服がないのだから仕方ない。
 そろりとリビングに戻ると、カーディガンを羽織った入谷が急須と茶碗でお茶の用意をしていた。香ばしい匂い。ほうじ茶だ。
 青年はちらりと俺を見たあと、ぷいと顔を背けて二、三秒ぷるぷると背中を震わせた。もしかして笑われている? 確かに俺にはシルクの服など不相応だろうから、ちぐはぐで似合ってはいないだろう。
 お茶を受け取ってソファに座らせてもらう。入谷はいつもの冷静な調子を取り戻して、「あなたから連絡を頂くとは思いませんでした」となめらかな声で切り出す。

「いや……本当にすみません。アルコールが入っててどうかしてました」
「いえ、驚きはしましたけど嬉しかったですよ。まさかあんなに熱烈な台詞を聞くことになるとは思いませんでしたが。声を聞きたかった、だなんて」
「あれは、その……」

 相手の声にはからかうような響きが混じっていて、自分の大胆さに時間差で居たたまれなくなり、気まずさで顔がじわりと熱を持つ。だが、本心から出た発言なので否定もできない。
 対する入谷は、話題を振っておきながらほのかに頬を朱に染めていた。

「あなたにそんなに赤くなられると、僕まで照れてしまいます……」
「……申し訳ない」
「いえ……」

 互いに続ける言葉を失ってしまい、茶を啜る音だけが部屋に響く。その沈黙もどこか心地好く感じているのは、俺だけなんだろうか。

「……そういえば、入谷さんはいつ帰国されたんですか」
「ああ、それが」入谷はやや面白がるように口元を弓形(ゆみなり)にした。「ちょうど昨日帰ってきたところなんですよ。まだ荷物の整理なりでばたばたしていましたので、ご連絡するのを延ばしていました。思えばすごいタイミングでしたね」
「そんな時にすみません、時差ボケとかもまだ残ってますよね」

 そんなことは、と否定しかけた入谷が折しも、くぁ、と小さくあくびをこぼした。浮き上がってきたそれをこらえる暇もなかったらしい、無防備な姿が可愛らしく映り、心臓がどくりと強く脈打つ。
 壁にかかっているアナログ時計を見れば、もうすぐ日付が変わるところだ。酒の影響か、俺もだんだん眠たくなってきている。

「……すみません、お見苦しいところを。やはりまだ体内時計が治りきっていないようです。橘さん、今夜は泊まっていかれるのでしょう?」

 それは問いかけではなく、意思の確認だった。
 この家へ走りながら、顔を見たらすぐ帰ろうと考えていた。しかしシャワーを借りパジャマに着替え腰を落ち着けたいま、いやこれから帰ります、とは言えそうもない。
 ――それは理屈っぽい言い訳で、玄関に現れた入谷の寝間着姿を見た瞬間から、俺はこの夜を彼と一緒に過ごすつもりになっていたのだと思う。
 勢いだけで突っ走り、後先を考慮していなかったのは事実だ。茶碗を置いて頭(こうべ)を垂れる。

「すみません、一晩だけお世話になります。寝るのはソファでも床でもどこでもいいので」
「ソファでも床でも? 一緒にベッドで寝ればいいでしょう」
「えっ」

 相手はきょとんとして小首を傾げている。
 それは……まずくないだろうか。何度もそういうことをした相手と一緒の寝床なんて――想像しただけで脈拍が忙しなくテンポを上げる。

「い、いや……でも、それは」
「どこでもいいならベッドでもいいでしょう? セミダブルですから狭くはないかと」
「広さは特に、心配していないのですが」

 しどろもどろに答えていると、入谷はああ、と得心したように微笑した。

「大丈夫、何もしませんから」

 どこか距離を感じる笑みを向けられ、ちくりと刺されたような痛みが走る。
 どちらかというとその台詞は俺が言うものではないだろうか。とはいえ、そこまで言われては寝所を共にするほかない。俺はぐっと覚悟を固めた。
 ちなみに寝る前に新品の歯ブラシも貰ってしまった。まさに至れり尽くせりだ。
 今夜は入谷のベッドで共寝をする。現実感がなくて足元がふわふわした。明かりを落とした寝室に招かれ、とうとうベッドに入る段階に至ると、独特の緊張感が総身を覆っていく。

「……お邪魔します」
「ふふ、どうぞ」

 先にベッドの片側に寝そべっている入谷の傍らにおずおずと潜りこむ。
 寝台は同じくらいの体格の男二人が悠々と横並びになれるだけのスペースがあった。身を横たえると、寝具にもほのかにお香の匂いが移っているのが分かる。こんな状況で眠れるのかと数分前は胸が騒いでいたが、隣に入谷がいることに妙な安心感を抱き始めていた。
 入谷は既に瞳を閉じている。俺も重くなった瞼を下ろして入眠を待っていると、もぞもぞと毛布がの衣擦れがして、入谷の手がそうっと指に絡んできた。
 目を開けて首をひねる。そこには遠いものを見つめるような入谷の濡れた双眸があった。

「何もしないって、言ったじゃないですか……」
「これくらいは許して下さい。せっかく初めて一緒に眠るんですから」

 俺たちはベッドに寝転んだまま掌を重ねて見つめ合う。
 初めて。確かにそうだ。それがこんなに穏やかな形で我々に訪れるなんて、想像もしていなかった――表面上の平穏、という但し書きつきではあるものの。
 触れられた肌のどこかから、とく、とく、とやや速い拍動が伝わる。そのリズムの持ち主は果たしてどちらだったのか。

「おやすみなさい、柾之さん」
「……おやすみ、紫音くん」

 俺たちはとうとう完全に両目を閉じた。
 朝になったら入谷と話をしなければいけない。自分の中の思いを、きちんと形ある言葉にするのだ。
 隣に体温があることで、染み入るほど安心する夜もあるのだと、俺はその日に初めて知った。


 瞼の向こうに光を感じる。かと思うと、いつもと異なる肌触りや匂いが、知覚に飛び込んでくる。ここは――そうだ、昨夜は入谷の家に泊まらせてもらったのだっけ。
 意識が徐々に輪郭を明瞭にしていく。ややあって目を開くと、横たわったまま深い色の瞳でこちらを凝視する家主と目がばっちり合った。
 ひ、とかすれ気味の自分の喉から言葉にならない悲鳴が漏れる。

「な、何してるんですか」
「あなたの寝顔を視姦していただけですよ」
「なんですかそれ……」

 視姦て。昨晩からのしっとりした雰囲気の中でも、やはり入谷は入谷だ。
 目の前の青年は寝乱れた髪が額(ひたい)や頬にかかっていて、かつその顔がカーテン越しのまろやかな朝日に照らされているのがやけに色っぽい。雨雲は夜のうちに去ったようだ。
 出し抜けに彼の手が伸びてきて、俺の顎をさわさわと触る。

「わ、じょりじょりですね」という声はなぜか嬉しげだった。
 毎朝剃っているのだから己にとっては当然の現象なのだが、そういえば入谷の顎や口回りはつるりとしている。

「そりゃ、勝手に伸びますから。……入谷さんはつるつるなんですね」
「そうですね、髭は三日に一度程度剃れば充分です」
「へええ、羨ましいなあ……」

 心の底から感嘆を漏らしてしまう。同じ男なのにこれほど違うのか。
 入谷はさて、といった風にむくりと身を起こす。その拍子にパジャマの深い襟ぐりから胸元が覗き、見てはいけないものを見てしまったかのような罪悪感に襲われる。

「僕は朝食の用意をしますね。橘さん、お嫌いなものやアレルギーはありますか?」
「いえ、特には」
「そうですか、分かりました。もうしばらく寝ていても大丈夫ですし、洗面所やタオルも自由に使って下さって構いませんので」
「……ありがとうございます」

 家主が寝室を出ていく後ろ姿を何とはなしに見つめた後、上半身を起こして部屋を見回してみる。朝の陽射しに照らされた部屋はどこまでも健康的で、かつてここでいかがわしい行為をしたことが今は信じがたい。
 リビングへ出て時計を見ると9時を回っている。寝たのは0時過ぎだからずいぶんたっぷり寝てしまった。そのおかげで脳は台風一過の空ほどにすっきりしている。
 キッチンで作業している入谷に「何か手伝いましょうか」と声をかけるもやんわりと断られた。顔を洗って歯を磨き、またリビングに舞い戻って仕事用の携帯をチェックするが急用の連絡はない。私用のスマートフォンでニュースサイトをざっとチェックしているうち、じゅうじゅうという音とともに、甘さと香ばしさが混じった美味しそうな薫りが漂ってきた。ぐう、と意図せず腹が鳴る。

「お待たせしました」

 入谷が運んできたトレイには皿とマグカップがふたつずつ。皿にはトーストよりずっと黄味が強い食パンが二等分されて乗っている。
 フレンチトーストだ。
 卵の優しい甘い香りと、こんがりとした焦げ目。表面には粉砂糖さえ振ってある。目にも鼻にも美味しそうだ。思わずごくりと唾を飲みこんでしまう。

「お口に合えばいいのですが。フレンチトースト、お嫌いじゃないですか?」
「ええまあ……多分。すみません、あまりちゃんと食べた記憶がないもので」
「では、これが橘さんの初めてのフレンチトーストの記憶になるんですね。光栄です」

 冗談めかして入谷が言う。
 家主が一人がけのソファに座り、やや距離がある状態でいただきます、と揃って軽く手を合わせる。どうやって食べるのか、とちらと入谷を窺うと、躊躇なくフォークを刺してそのまま齧っていた。それでいいのか、とほっとして自分も湯気の立つそれを頬張ってみる。
 外側はかりっとしていて、中はふわふわかつしっとりしている。卵の旨味、牛乳の風味、バターの香りが順に鼻を抜けていく。思わず笑いが口元に浮いてくるほどに美味しかった。

「美味いですね、これ」
「それは良かった。飲み物も冷めないうちにどうぞ」

 にこやかに促され、ドット柄のマグカップを手に取る。
 カップの中身はホットミルクだった。表面に粉っぽいものが浮いているのできな粉かなと思ったらシナモンだそうだ。独特の甘い芳香があるシナモンミルクと、甘さ控えめのフレンチトーストの相性は抜群に良かった。

「入谷さん、いつも朝からこんなにお洒落なものを食べてるんですか?」
「いえ、今日はたまたまです。お洒落と言ってもこれは、パンを夜のうちに卵液に放り込んでおけば朝は焼くだけなので。簡単ですよ」
「へえ〜、そうなんですか……」
「いつもはもっと簡単にトーストとバナナとかです」
「あ、バナナは俺も毎朝食いますよ」
「ふふ。似た者同士ですね」

 朗らかな微笑を交わしながら朝食を食べ進める。
 どこまでも和やかな空気感に包まれてはいるが、俺には――俺たちには、遠巻きにして触れずにいる話題がある。
 言及しないで自然と避けていた中心に、俺は今から、正面切って踏み込もうとしているのだ。
 食後すぐに食器を片付け終えた入谷に、「今日は休日ですか?」と訊くと、相手は俺の顔色から何か察したようだった。

「午後から取材が入っていますが、まだ時間はありますよ」
「そうですか……入谷さん。折り入ってお話ししたいことがあるので、少しお時間を頂けないでしょうか」

 居ずまいを正して申し入れると、ただでさえ姿勢のいい入谷の背がぴしりと伸びた。
 入谷は一人掛けのソファ、俺は二人掛けのソファに再び腰を下ろす。90度角度のついた距離感で、笑みの失せた入谷の顔を見つめる。腿の上で握りこんだ掌がじっとり湿ってきて、自分が思ったより緊張していることに気づく。位置が隣だったり、正面だったりしたらもっと気後れしていただろう。
 怖じ気づく前に、踏み込んだ。

「お話というのは、俺たちの関係性についてです。俺は……入谷さんとの名前のつかない関係をやめたいと思っています。曖昧なのは、嫌なんです」

 語尾まで強く言い切る。言葉に、形にしてしまった。緊張が続き指先が小刻みに震えているが、これが偽らざる本心だ。入谷との爛れた関係を終わらせる。昨日、疾走しながら出した結論だった。
 対する入谷は、ふ、と淡く笑んだ。結末を知っている映画を観る時のような、寂しい笑みだった。

「そうですよね。最初から分かってはいたのです。こんな胡乱な関係、長続きしないと」
「ええ、だから」勢いこんで言葉を重ねる。「俺たち、ちゃんと――付き合えませんか」

 その時の入谷の表情は初めて見るものだった。目を見開き、時間が止まったかのように全身を硬直させている。動揺、困惑、驚き。見たことはないが、鳩が豆鉄砲を食らった顔という表現が脳裏を過った。
 そのままたっぷり十秒は経っただろうか。入谷は長い睫毛をぱちぱちさせ、ええと……、と言葉を探す。

「……橘さん」
「はい」
「齟齬があるかもしれないので確認したいのですが、それは……僕と恋人になりたい、という意味で受け取ってよろしいんですか?」
「そうです」

 大きく頷き返すと、またもや入谷は絶句してしまった。いつも余裕のある態度は鳴りを潜め、視線もうろうろと左右に泳ぎ、頬は紅潮して目に見えて焦っている。彼にそんな顔をさせることに罪悪感があったが、俺も引くわけにいかなかった。

「その……僕は」
「返事は少し、待って頂けませんか」申し訳なさを覚えながら相手を遮る。「その前に聞いてほしい話がありまして」
「話……ですか?」相手が目を瞬かせる。
「すみません、これは俺のわがままでしかないんですが。返事を貰う前に、俺自身について話したいんです。それを聞いてから可否を判断してもらえないかと……お許し頂ける、でしょうか」

 まだ混乱しているだろう入谷はそれでも、こくりと深く首肯してくれた。
 彼の忍耐強さに感謝しながら、俺は口を開く。
- 18/30 -

back


(C)Spur Spiegel


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -