「いやなに、そう畏まった話じゃないから、リラックスして聞いてくれ。時に橘くん、君はまだ身を固める予定はないのかな?」
「身を固める……ですか?」
「橘くんはまだ独身だろう? E社の専務のお嬢さん、確か君と同じ年頃だったなと思ってね。もし決まった相手がいないならどうだろう、紹介してもらうってのは」

 何かと思えばまたその手合いか。視界の端が暗くなっていく。足元の床ががらがらと音をたてて崩れていくような錯覚に陥る。
 部長はまだ目の前で何かを喋り続けていた。知りたいなんて微塵も思っていない、他人の個人情報。俺はどこでも、そんなことを聞かされ訊かれなくてはならないのか。そもそも相手がパートナーを欲しているかも分からないのに。
 黒々とした感情を部長の前でぶちまけるなんて愚は犯せない。辛うじて喉の奥から声を押し出す。

「いえ……今のところ、そういうことは考えていませんので」
「そうかね? まあ、君と望月くんは将来の営業部を背負って立つ人材だと私は思っとるからね! そのためには守るべき家庭があった方が仕事に身が入るだろう?」
「それは」人によるのではないだろうか。
「まあまあ、もし気が向いたらいつでも声をかけてくれよ。下半期もよろしく頼むね。おおい、鈴木くん!」

 口を差し挟む間もなく、どうやら俺への話はこれで終わったらしい。
 失礼します、と誰にともなく頭を下げて席を立つ。先刻のテーブルに戻る気にもならず、ふらふらと足先が向かったのはトイレだった。
 好意、ではあるのだろう。女性陣や望月、部長の言葉もすべて。彼らが差し出した好意の形を、その形のまま受けとめる体勢が俺にはないだけで。
 彼らなりの好意を好意と受け取れない、それは欠陥だろうか。彼らが善人なら俺は悪人なのだろうか。
 どうしてみんな、そんなに他人に興味があるのだろう。俺のことなど、同僚というラベルが貼られたロボット程度に捉えてくれたら楽なのに。
 ――そう思うのは、周囲に対する己の視線の裏返しだ、と不意に自覚してぞっとする。脇腹に音なく差し込まれたナイフのように、不完全さを如実に突きつけられた気分だった。
 胃の底がむかむかする。このままだと吐きそうだ。同じ会社の付き合いだというのに、常葉とのサシ飲みとは雲泥の差だ。
 トイレのドアを開くと、そこにはちょうどハンカチで手を拭いている望月がいた。お、と同期の片眉が上がる。

「なんだお前、顔色悪いぞ。珍しく酔った? 大丈夫か?」
「平気。……たぶん」
「無理すんなよー。そういや営業部長の話って結局何だったん?」

 望月はこのまま立ち話を続けるつもりらしい。水を向けられ、お見合いめいたことを勧められたと説明する。
 相手は納得したように何度か頷いてみせた。

「へー、なるほどな。一回会ってみたら? 噂によるとご令嬢は美人らしいですよお。センセイのお眼鏡に敵うかは分からんけど」
「……なんでお前に指示されなきゃいけないんだ」
「いや指示じゃなくてアドバイスな? なんか機嫌悪いぞお前、何かあったのか? らしくないぜ」
「ちょっと、疲れてるだけだから」

 自分らしくないのは自覚している。ほとんど無意識のうちに眉間を指で揉んだ。体を重たくさせるこの疲労感の中には、確実に望月が原因のものも何割かあるが、言ったところでこいつに伝わりはしないだろう。

「疲れてるならさあ、一発すっきりさせに行くか?」
「? すっきりって?」
「抜きだよ抜き、決まってんじゃん」

 望月は爽やかな営業スマイルのままそんなことを言い放つ。台詞と表情とのどぎつい乖離にくらくらしそうになる。店のトイレで一体何を言い出すのか。

「どうせお前のことだから店知らないだろ? 紹介するよ、俺もそろそろ行きたかったところだからさ」
「お前なあ……。子供の自慢した直後の口でよくそんなこと言えるな」

 舌の根も乾かないうちからとはこのことだ。ストレートすぎる物言いにこちらは気持ちも血の気も引いているのだが、相手はまるっきりきょとんとしている。わざととぼけているわけでもないらしい。

「何怒ってんだよ。いいだろ、不倫してるわけでもあるまいし。嫁さんはいま子供優先だから相手してもらえないけどさー、溜まるもんは溜まるからな」
「……」
「そんな睨むなって。平日は確かにほとんど何もできてないけど、これでも土日は家族サービスしてるんだぜ? 時々お店行くくらいどうってことないだろ」

 眩暈を起こしそうになり、床にぐっと足を押しつけ意識して立つ。土日に何かしたからといって風俗通いはチャラになるのか。それに家族相手にサービスという言葉を使うのもどうなんだ? ふつふつと疑問が沸き上がってくるが、家族どころか恋人もいない身では発言の根拠に欠ける気がして、何も言い返せない。

「それにな」望月はとっておきの秘密を開示するように声をひそめ、甘い印象を与える顔をこちらに寄せる。「女の子に口でしてもらってるときに左手で髪撫でるとほら、結婚指輪が目に入るだろ? そん時いけないことしてる気持ちになってめちゃめちゃイイんだよな。既婚者も悪くないぜ?」
「うえ……それ人生で聞きたくなかった情報ナンバーワンなんだけど」

 吐き気が促進される話を聞かされて最悪な気分になる。この下衆め、と声に出さずに罵った。
 さっきある意味頼りになると一瞬でも思ったことを撤回したい。望月にも自分にも腹が立つ。

「え〜? 親の夜の営みの話聞くより全然いいだろ」
「どっちも同じくらい嫌だよ!」
「そうかねえ。じゃあ誰に話せっていうのよ。こういう話を常葉にすると『それセクハラっスよ』って言われんだぜ。男同士なんだし別にいいだろって」
「そもそも誰かに言うな、そんな話。ここはお前ん家(ち)じゃないんだから。それに俺相手だってそれはセクハラだからな」
「え? そうなん?」

 望月はやや垂れ気味の目をぱちくりさせる。肉だと思って食べていたものが実は大豆ミートだったと聞かされたような、純粋な驚き顔だった。

「そりゃ初耳だわ、みんな潔癖なんですねえ。今度から気をつけるわー」

 その調子のいい言葉もどれほど信頼できるか分からない。なにせ酔いが回った頭から出てきているのだから。これほど強く注意しても、個々人の性格が潔癖だから、という認識に落ち着く望月の思考回路に暗澹とさせられる。それでも彼のような性格をしていた方が、結局世渡りには有利なのだ。
 望月はようやく体をドアへ向けた。

「ま、お前だってたまには他人(ひと)にしてもらうのもいいだろ。そっちのが気持ちいいしな。その気になったらいつでも声かけろよ、紹介するから」
「だからそういうのをやめろって……」

 困った同僚は俺の言葉尻を待たず出ていった。
 あいつはもしかして、ところ構わずあんなことを言いふらしているのだろうか? だとしたらぞっとする。
 俺はよろよろと個室に入り、服をそのままに便座に腰かけた。一人の空間はやはり落ち着くし、大人数はいつになっても苦手だ。賑やかな大きい空間には自分の座るべき席などないと思い知らされるから。マスの中では、俺の異端で異質な部分が炙り出されてしまう。
 にしても、たまには他人にしてもらうのもいいだろ、か。望月だって、俺が得意先の責任者である男性に、手や口でしてもらっているなんて想像もしていないはずだ。
 入谷紫音。無性に、彼に会いたい気持ちが胸を突く。
 会えなくてもいい。彼の穏やかでなめらかな声が、俺の名を呼ぶのを聴きたい。いま入谷はどこにいるのだろう。まだヨーロッパか、もう帰ってきているのか。
 俺は衝動的にスマートフォンを取り出し、トーク画面を呼び出して文字を打ち込んでいた。

 "いま何してますか"

 指は迷いなく送信ボタンをタップする。彼がヨーロッパにいるなら向こうは何時だろう。そんなことをぼんやり考えていると、既読はすぐについた。1分と経っていない。

 "どうかされました?"

 早々と返ってきた文面に、心臓の周りがじわりと熱を持つ。ああ、これは――短い文章でも分かる、入谷の言葉だ。

 "あなたに会いたい"

 そう打ち込みかけてから、すんでのところで理性を取り戻し、入力した文字を消去する。少し冷静になれ、自分。いまなんと送ろうとした? 相手がどこにいるかも分からないのに、迷惑以外の何物でもないだろう。
 突然、手の中の端末が震えだした。振動と共に着信画面が表れ、びっくりしすぎて取り落としそうになる。表示された名は、入谷紫音。
「も、もしもし」焦りながら通話状態にすると、スピーカーの向こうの声は硬く切迫していた。

「橘さん、いかがされました? 緊急事態かと思いまして電話を。通報が必要ですか? 救急、または警察」
「い、いや、違います」性急な声の調子に慌てる。勘違いさせてしまったようだ。「紛らわしくてすみません。ただ、その……急に入谷さんの声が聞きたくなって。それだけです」

 スピーカー越しに息を飲む気配がする。それではっと正気に返った。俺は何をほざいているんだ。酔って声が聞きたくなるなんて、まるでカップルじゃないか。
 俄に羞恥が襲ってきて頬が熱を持つ。ひと月前、あんな別れ方をしたのにこの人は何を言っているんだ、と不審がられているに違いない。

「ええ、と。それだけです。突然失礼しました、それでは」
「お待ち下さい。橘さん、今からこちらにいらっしゃいませんか。……あなたさえ良ければ」

 通話を切ろうとしたところを遮られ、さらに予想外なことを言われて目を瞬かせる。
 ――来い、と。言わなかったか、今。

「え……入谷さん、いまどこにいらっしゃるんですか?」
「日本の自宅に戻ってきていますよ。どうなさいますか? こちらから迎えに行くのは難しいのですが、来て頂く分にはまったく問題ありません」
「日本に……」

 スマートフォンを握る手に力が入る。今夜、入谷に会える。俺がすぐに向かえば、1時間もかからないうちに。
 先刻はよろめいていた両脚にエネルギーが漲ってくる。勢いよく立ち上がり、あれこれ考える前に「これから行きます」と強く宣言していた。

「ええ、お待ちしていますね」

 軽やかな響きが胸に満ちる。顔は見えないが、入谷が柔らかくほほえんでいるだろうことが、俺には不思議と確信できた。
 ドアを開けるのももどかしく、ホールとトイレを繋ぐ短い廊下へ身を躍らせたところで、前からやって来る人影とぶつかりそうになった。
「すみませ……」相手の顔を見れば、目を見開いた常葉がそこにいる。「ごめん、常葉くん」
「いえ……」と言いながら、勘の鋭い後輩は俺の急いた様子を見て、色々と察するところがあったようだ。

「橘さん、行くところができたんスね?」
「……うん」
「じゃあ、みんなには俺から伝えときますよ。店の会計のところに先に行ってて下さい、俺が橘さんの鞄取ってきますんで」

 常葉はきりりと引き締まった表情で簡潔に伝えてくる。どうしてそこまでしてくれるのか、と尋ねる暇はなさそうだ。後輩に甘えるのも情けないが、会を抜け出すことを自分の口からあの面々に説明せずに済むと思うとほっとする。会費は事前に会社内で集めていたからその点は安心だ。
 店の出口付近で鞄を受け取り、相手の目をしっかり見て言う。

「常葉くん、ありがとうね」
「別にいいっスよ。今度コーヒーでも奢ってくれれば」
「そのくらいならいくらでも」

 いたずらっぽく口元を緩める常葉に微笑を返す。じゃ、お疲れ様でした、とあっさり背中を向けて去っていく後輩の、行き先すら訊いてこないさっぱりしたスタンスがとてもありがたかった。
 一歩ビルの外に出ると、さああと音をたてて細かい雨が降りしきっていた。曇天はついに腹に抱えた水蒸気を支えきれなくなったらしい。鞄に折り畳み傘が入ってはいるが、この程度の小雨なら、傘を差す煩わしさよりも先を急ぎたい気持ちが勝つ。
 最寄り駅へと駆け出しながら、俺らしくないことをしているな、とどこか俯瞰するように思う。今日だけじゃない。入谷に出合ってから、昨日と同じ日常を愛していた俺の思考は、矛盾だらけになってしまったとも言える。
 以前と違う自分自身に戸惑いながらも、どこかうきうきしている自分も確かにいて。
 居心地の悪い飲み会から抜け出て、自分の心が休まる人の元へ走る。一般的に見ればこの選択は逃げなのかもしれない。多くの人の好意をそのまま受け取れず、マイナスに捉えてしまうこの性質も、欠陥なのかもしれない。
 入谷だったら「逃げでも欠陥でもないと思いますよ。それはただ、感性に個人差があるというだけで」とでも言ってくれるのだろう。彼の海のような優しさと理性的な洞察力は俺には得がたい美点だ。
 でも。これが逃げでも、自分の中に欠陥があるとしても、構うものかといま俺は思っている。周囲の期待に感性を合わせるつもりのない悪人として、これまでもこれからも生きていく。意固地になっていると後ろ指を指されたっていい。自分以外の全員が俺を否定しても、俺自身は自らを至らないままに肯定してやりたい。

 ずっとなんとなく流れに任せて生きてきた。けれど、入谷の家へと続くこの道は、流されて受動的に選んだのではなく、自分が己の意思で選択した道だから。

 不可思議な高揚感を内に抱(だ)いたまま、ちょうど滑りこんできた電車に飛び乗る。まだ終電には早く、ホームにも車内にもそれほど人は多くない。いつもはなんとなく過ぎる乗車時間も、一駅一駅の区間が長く感じられた。
 目的の駅で電車を降り、速歩きで構内を移動してからは自然と駆け足になり、ついには全力の疾走になる。駅へ向かうまばらな人の流れに逆らい、俺は入谷がいる場所へと一歩一歩確実に近づいていく。住宅街は霧雨の向こうでうっすらとけぶって見えた。雨の匂いに包まれ、水の中を走っている錯覚に陥る。全速力を出すなんていつぶりだろう。もしかすると高校生以来――10年以上ぶりかもしれない。
 足元が悪く、その上革靴だからという事実を抜きにしても、時を経て俺の足は確実に遅くなっていた。気持ちはもうずっと先へ行っているのに、体が置いていかれているようで無性にもどかしい。
 息が上がり、苦しくなってきた呼吸のまま、入谷と顔を合わせたらまず何を言うべきだろう、と考える。彼に謝らなくてはならないことがたくさんある。遅い時間に連絡したこと。いきなり脈絡のないメッセージを送ったこと。突然夜分に押しかける展開になったこと。
 総じて、1ヶ月前に入谷を拒絶しながら、図々しい行動をしていること、だ。
 電話口では穏やかな様子だったが、面と向かったら怒られるかもしれない。俺が悪いのだから、そうなったとしてももちろん受け入れよう。
 白い外観の入谷のオフィスが見えてくる。住居部分にだけ家主の在宅を示す明かりが灯っていた。道端で膝に手をつき呼吸を整えようとするものの、上がった息はすぐには治まらず、時間惜しさにそのまま門戸を叩く。
 階段を上がってインターホンを鳴らすと、ややあってドアががちゃりと開いた。柔らかい光を後ろに背負った入谷は、既に深緑色の寝間着に着替えている。

「お久しぶりです。お元気でしたか?」

 青年写真家はほんのりと優しく笑む。つややかな長めの黒髪、切れ長で一重の両目、右目の泣きぼくろ、なめらかな白い頬、細く尖った鼻梁、薄い唇。記憶の中と同じ入谷がそこにいる。会わなかった期間がたった1ヶ月とは思えないほど、深く強い感慨が体中を駆け巡った。
 再会したら真っ先に言う内容を思案していたのに、それらはすべて毒気を抜かれたようにどこかへ霧散してしまって、無駄に口をぱくぱくさせてしまう。言いたいことはたくさんあるはずなのに、感情と言葉とがうまく結びついてくれない。

「……すみません、こんな時間に押しかけて。……ご迷惑でしたよね」

 結局、肩で息をしながら言えたのは、そんな当たり障りのない台詞だけだった。
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