入谷はこの瞬間、どこにいて何をしているのだろうか。
「しばらく来なくていい」と伝えられた日から、そんな疑問を何度も頭に浮かべている。毎日の出勤時、仕事の休憩時間、食事中、就寝前など、何度も何度も、ふとした瞬間に。
 ヨーロッパに撮影に行くと言っていたから、何ヵ国も訪ねて回っていると想像できる。彼はどんな風に被写体を決め、どんなカメラをどうやって構えるのだろう。俺は彼の写真について、作品として完成されたものしか知らない。そのことに、遅まきながら愕然としている。
 写真を見て頬を火照らせ体を許し合う前に、彼がどこでどういう気持ちで写真を撮っているのか、そういうことを訊いてみれば良かった。写真集を二人で眺め、彼が選んだ美味しい和菓子を食べながら、彼の心構えや仕事のディテールについて話したかった。
 そうしてもっと、彼の内面を知って、健全に仲を深めていきたかった。

 それももうできない。俺が拒絶してしまったせいで。

 異邦人として諸国を巡っている入谷をイメージする。ひとりでだろうか、助手がいるのか? ファインダーを覗きこむ行為は人を無防備にするに違いない。あれだけ綺麗な人がひとりでいたらきっと危険だ。お近づきになりたい衝動に駆られる人だっていてもおかしくない。
 体格のいい外国人に組み敷かれ、服を剥かれていく入谷。互いの手足が絡み合い、吐息が交じり、白い肌が空気に曝される。
 無論すべては俺の妄想で、そんなことはないはずだと分かっている。俺が初めてだと言っていた彼が、そこまで無防備で色に溺れやすいはずがない。けれど脳内の闇の中で像が蠢くのを止められず、今夜も俺は入谷の手を思いながら自らを慰める。

「は、あ……」

 自室のベッドの上。右手は股間に伸ばされ、左手には入谷から贈られたネクタイを握っている。入谷の部屋の匂いと香水の香りがほのかに残るそれを顔に押しつけ、深く残り香を吸い込みながら、何回めか知れない絶頂に至る。
 興奮が醒めてしまえば、胸に去来するのはどこまでも深い罪悪感でしかない。
 自分からもう触らないでほしいと頼んでおきながら、人知れず醜態を演じている。俺のさもしい姿を見たら入谷はどう思うだろう。きっといつもの穏やかな表情も、一瞬で軽蔑の色に染まるに違いない。
 こんなの、もうやめなければ。分かっているのに、入谷の匂いを思い出しただけで腹の奥がずくずくと疼いて熱を持つ。
 入谷に会いたい。会って、もう一度きちんと話がしたい。
 身を焼き焦がし内部から総身を突き動かすような衝動は、果たして恋というものだろうか。
 この烈(はげ)しい気持ちが恋なのだとしたら、俺は本当の意味で、誰かに恋したことなどなかったのかもしれない。


 10月に入ると、しつこく肌に絡む夏の残滓も遠ざかり、ワイシャツの隙間から入ってくる秋風が心地好い涼しさになってきた。
 夏休みを利用して営業一課へインターンシップに来ていた学生も去り、上半期も終わったこともあって、社内には少しばかり弛緩した雰囲気が漂っている。
 件(くだん)の学生はインターン修了時、俺に「お世話になりました! いつかまたお会いできたら嬉しいです」と熱気のこもった挨拶とともに握手を求めてきたが、特にお世話をした覚えがないため顔がひきつってしまった。暑苦しい学生の肩越しに、同期の望月は「なんで橘? 俺だろ?」と言わんばかりの渋面をつくっていた。
 今日は10月最初の金曜日で、俺は上半期の納会に参加するため会場へ向かっている。多人数の飲み会は何ヵ月ぶりだろう。仕事が若干長引いてしまい、既に開始の時刻を20分ほど回っていた。繁華街の駅で電車を降り地上に出ると、紺に染まりゆく空を厚い雲が覆いつつある。じきに雨になるかもしれない。
 店はバルと言えばいいのか、イタリアンを中心に出すらしいこじゃれた雰囲気の場所だった。うちの会社の飲み会はフロア毎に行われるが、その中の若い誰かが幹事となって選んだのだろう。
 テーブルを埋める団体客の中からひとりが振り返り、こちらに向かって手を掲げる。

「おーい橘センセー、こっちだこっち。重役出勤だなあ」

 もうアルコールが回っているらしい望月が大仰にひらひらと掌を振る。
 そちらへ近づいていくと、テーブルには既に大皿の料理が何種類か――小海老のサラダやカプレーゼやアヒージョなど――が並び、ビールやサワーによって場も温まりつつあるようだった。
 空いていた席の椅子を引くときに、斜め前に座っていた常葉と目が合う。軽く会釈しながら「お疲れ様です」と言ってくる青年は、確かフロア単位での飲みに参加するのは新入社員の歓迎会以来だったはずだ。久々の彼の参加を全力で喜ぶように、若手の女子社員が常葉を包囲する形で集まっている。なんというか、露骨な光景だ。

「橘くん、お疲れ様」
「遅くまでお疲れ様でーす」

 彼女らからの労いの言葉に遅れてすみません、と返しながら望月の隣に座る。何が悲しくてこいつの隣席に陣取らなくてはいけないのか、と内心毒づくが他に空席がないので仕方ない。
 追加で注文したビールが来たところで、近くに座る面々で改めて乾杯する。半期が終わったからといって何かあるわけでもないが、皆余計な力の抜けた開放的な表情を浮かべていて、リラックスした雰囲気だ。
 味がほどよく染みたアヒージョの食材をいくつかぱくつきながら、何の話をしてたんですか、と問うてみると、愛犬や愛猫など飼っている動物が話題にのぼっていたらしい。うちの子自慢でなかなか盛り上がっていたようだ。

「橘さんは……さすがにペットはいないですよね? 一人暮らしですもんね」
「あー、ペットというか……クラゲを飼育してる水槽はありますよ」

「クラゲ?」「へえ〜」「珍しいですね!」と多分に驚きを含んだ声が上がる。「ああ、だから会社のパソコンの壁紙がクラゲなんですね」とは常葉の反応だ。相変わらず無駄によく見ている。

「クラゲ見たーい。写真ないんですか?」
「生憎、あまり写真自体撮らないので……」
「じゃあ今度撮ってきて下さいよー」
「そんな大したものじゃないですよ」

 などと会話していると、隣にいる望月が不満そうに唇を突き出してこちらを横目で見やった。

「お前クラゲなんて飼ってたの? いつから?」
「そうだなあ、彼女が置いてったやつだから……まあ、6年くらい前からかな?」

 そう言った途端に周囲の空気がざわりと動いた気がして不安になる。彼女、という言葉にわずかに反応した女性社員が数人いたように見えたが、おそらく目の錯覚だろう。でなかったら少し怖い。

「元カノねえ。未練がましいなあ、6年も」
「別に、そういうのじゃないから」
「ていうか俺同期なのにクラゲ飼ってるのとか教わってなくてけっこうショックなんですけどー。プライベートのこと話したくない理由でもあるわけ? 皆さんもそう思いますよねえ?」

 え、と思わず望月の横顔を見てしまう。彼の口からショックという単語が出てくるのは意外だった。同僚の家にクラゲがいると知って何かが変わるわけでもないだろうに。
 俺とは正反対にプライベートを訊いてもいないうちから明け透けに語りがちな同期は、数秒だけ実に不機嫌そうな表情を浮かべていたが、それはただのファッションだったようで、「まあそれよりもさあ」と急に相好を崩してポケットからスマートフォンを取り出した。

「わんにゃんも良いけど俺の娘ちゃんもみんなに見てほしいのよ、めちゃくちゃ可愛いからさー」

 自分から話題が逸れて胸を撫で下ろす。ビールをぐびりとやってから、運ばれてきていたマルゲリータに手をつける。生地はさすがにパリパリとはいかないが、新鮮なバジルの風味が鼻を抜けていき、なかなかに美味い。
 周りでは望月の子供の写真を回し見た女子社員らが「えーほんとだ可愛い〜」「望月くんにはあんまり似てないね」「似なくて良かったですねー!」ときゃいきゃいしている。もしかしなくても普通に貶されている気がするが、当の望月は「でしょう?」とずっと上機嫌に相槌を打っている。娘が可愛いと言われれば何でもいいらしい。
 その後も望月や女性主導で、話題が続々と移り変わっていく。アルコールと噂話とカルパッチョと愚痴と種々のチーズが混ざり合う。誰かが席を立ったり戻ってきたり、会話に加わる面子は流動的なのに、雰囲気の質は意外に代わり映えがしない。
 俺や常葉は隙間を縫って適当な相槌を打つだけだ。ただ時間を流すための、ほとんど意味を持たない言葉。
 その間、すっかりできあがった望月が「おい常葉! お前俺のこと邪険にしてるだろ。全部分かってんだぞ」と難癖をつける一幕もあったが、当の常葉は「してませんけど」と平然としていた。

「嘘だねー! 今だってそうだろ。あのなあ、お前が新入りの頃にお前の同期たちと一緒に何回も奢ってやっただろうが。恩を忘れたのか、恩を」
「別に俺はご馳走してくれなんて頼んでないし、毎回割り勘でいいって言ってたじゃないスか。望月さんは押しつけがましいんですよ。いつも」
「あーもう可愛くない後輩だな! そんなんじゃこれからお偉いさんと関わる時に苦労するぞお〜」
「可愛くなくて結構。俺は望月さんとは違う方向性でやっていきますから。ご忠告どうもありがとうございます」

 双方譲らないやり取りを間近に聞いているのは正直はらはらするものだ。常葉が慇懃に目礼したあたりで、望月が爆発するんじゃないかとひやひやしながら隣を窺ってみた、のだが。

「ああ、俺とは違う路線でね。先輩を立てるってことは最低限分かってるみたいだな。結構、結構」

 と急に仙人みたいな顔になって何度も頷いていた。それでいいのか、お前は。
 同期がすまん、の意味で常葉に向けて軽く手を合わせると、後輩はやれやれといった様子で肩を竦めてみせる。表情にはどこか興(きょう)がるような色もあり、本気で憤慨したり気分を害したりはしていないようだ。まったく、心が広いのはどちらなのか。
 周囲の女性陣はというと、望月と常葉のそれを日常のじゃれあいとでも思っているらしく、声を上げて笑っている人もいた。二人の語気のキツさに胃痛を感じているのは俺ばかりか。
 そうこうしているうちに時も過ぎ、コース終盤にボロネーゼのペンネが運ばれてきたところで、どこかからムー、ムーとバイブレーションの音がしてきた。反射的にポケットを押さえるが自分ではない。皆そわそわとポケットなり鞄なりを確認するが、スマートフォンを手に席を立ったのは常葉だった。

「客先からなんで、ちょっとすいません」
「おうおう、ご苦労さん」

 望月が挙げた手が下がりきらないうちに、女子社員の一人が声をひそめてやや深刻そうに切り出す。何やらこの機を待っていたかのような様子だ。

「あの、皆さんに聞きたいことがあって。常葉くんの彼女について誰か何か知りませんか?」
「え、付き合ってる人いるんですか? 彼」

 びっくりして発言者をまじまじと見てしまう。彼とはよく二人で食事に行っているが、交際している人がいるなんて話は一回も出たことがない。「会社に恋人を探しに来ているわけじゃない」との発言もあったし、てっきり独り身を謳歌しているのだと思っていたが。
 常葉より年若いその社員はそうじゃなくて、と苦笑いする。

「いるかどうかが知りたいから訊いてるんですって」
「常葉さんて全然自分のこと喋らないもんね。橘さん以上に」
「橘くんは何か知らないの? よく一緒にご飯行ってるんだよね」
「いえ……あ、そういえば」

 彼には生き甲斐になるほど推してる人がいるらしいですよ。と喉元まで出かけて慌てて飲み込む。駄目だろう、自分。これは後輩がいない場で気安く口に出していいことじゃない。
「いや、やっぱり何でもないです」と誤魔化し笑いを浮かべるも、彼女らの興味の網は逃げを許してはくれなかった。

「ええ、何ですか? 気になるんですけど」
「言いかけたなら教えて下さいよ〜」
「お前何か知ってんのか? 吐いちまえ吐いちまえ」

 望月も含めて皆、無責任なことを言うものだ。追及の手に搦(から)め取られる前に、すうっと息を吸って、言う。

「すみません。この場にいない人の噂をするの、気が引けるので」

 途端、周囲が水を打ったように黙りこんだ。さんざん本人不在の噂を肴にしていた女性陣の視線が、気まずそうに左右に振られる。沈黙の外の喧騒ががやがやと耳に流れこんできた。
 テーブルの下で拳をぐっと握りこむ。何をしてるんだ、馬鹿か、俺は。こんなところで正論を吐いて何になる? いつもだったら適当にいなして無難に切り抜けるのに、要らないことを口にして空気を悪くさせるなんて、らしくないじゃないか。
 居心地悪い沈黙が続いたのはたった数秒だった。場を取りなすような、不自然なほど明るい望月の声音が静寂を破る。

「それはそれとしてさあ、そう言う橘はどうなんだよ」
「……どう、って?」
「いま彼女はいないんだろ。結婚願望とかないのか?」
「そうだな……今のところない、かな」
「ま、独り身の方が気が楽なのは分かるけどな。どうせお前のことだからアレだろ、理想が高すぎるんだろ〜」

 望月が隣から肘で小突いてくる。さっきの失言で凍った空気がまた温まりつつあるのはいいのだが、これ以上俺自身について掘り下げられると困る。もう踏みこまないでくれ、という淡い願いはすぐに打ち砕かれた。女性陣の目に輝きが戻っている。

「橘くんて全然浮いた話聞かないもんね」「確かに〜」「どういう人が好みなんですか?」

 これまでそういう話題を意識的に遠ざけてきたからか、あからさまに興味を持たれ、俺は愛想笑いを保つので必死だ。

「うーん、タイプで考えたことがないので……ちょっと分かりません」
「それって好きになった人がタイプってやつか? 相手に困ってない男が大体それ言うんだよな。皆さん、こいつ絶対裏でモテてますよー!」

 何人かが声を上げて笑う。そんなわけがないと否定する暇(いとま)もない。女性社員のひとり――以前常葉と俺の飲みについていきたいと言っていた――が興味津々を具現化したような視線をこちらに向けてくる。

「じゃあじゃあ、もしも社内で選ぶとしたら誰ですか?」
「え……」
「あ、それすごい聞いてみたーい」

 急にぶわっと冷や汗が出てくる。男からそんな話題を出したら確実に問題になるだろうに、どうして誰も止めないんだ。
 片手では足らないほどの目線が俺に注がれている。喉が急激な渇きを訴えてくる。なんと答えたらいいんだ? みんなのお姉さん的な立ち位置の既婚女性の名を挙げるのが無難だろうか。しかし、不意に眼前の光景に入谷の不敵な顔が重なり、胃のあたりがきゅっと痛む。
 嘘をつきたくない。他ならぬ入谷を差し置いて。

「それは、ちょっと……回答は差し控えさせて頂こうかと」
「何じゃそりゃ! 政治家かよ」

 絞り出した苦しい答えに望月が間髪入れず突っ込み、集った面々がどっと笑う。
 ひとまず空気を壊さず切り抜けられたらしいことに安堵する。既に話題を次へ移している望月をちらりと盗み見た。訊かなくていいことばかりを訊いてくる厄介な同期ではあるが、場を的確に盛り上げる才能だけは頼りになる男だ。
 そこで通話を終えたらしい常葉が席に戻ってきて、橘さん、と名指しで声をかけられる。

「あっちで営業部長が呼んでましたよ」
「部長が?」

 にわかに体がこわばる。自分の実質的な上司は営業一課の課長なので、営業部長とは普段個別に言葉を交わす場面はほとんどない。個人として認識されているのがまず驚きだ。
 さっと脳裏を過ったのは、何かやらかしてしまっただろうか、という不安だ。

「お、なんだなんだ? 昇進の話か?」
「そんなわけないだろ」

 能天気に行ってらっしゃーいと手をひらひらさせる望月に、ため息ひとつついてから席を立つ。
 それにしても、この面々の渦中に常葉を残して行くのはかなり気が引ける。申し訳ない気持ちで後輩に目配せすると、彼は口の端で苦笑しながら小さく頷いてみせた。心配するなということか。であれば、俺は自分自身の心配だけをしよう。
 やや緊張しつつ部長の元へ馳せ参じる。恰幅が良く、髪は半分以上が白いがエネルギッシュな印象を受けるその人は、俺を見るなり目尻に笑い皺を寄せて破顔した。

「おお、橘くんか。こっちに座りなさい」
「何か、私にお話があると伺いましたが」

 誰かが移動して空席になった手近な椅子に、ビール瓶を掴みながら腰を下ろす。グラスに琥珀色の液体を注がれながら、部長はからからと快笑した。
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