先生の家から退去する頃、時刻は9時になりかけていた。
龍介の頭の中では、今しがたヴェルナーから聞いた様々のことがぐるぐると渦巻いている。先生とヴェルナーが何言か交わしているのも耳に入らず、熱に浮かされているような感覚だった。
玄関で靴を履いていると、傍らに立っていた桐原先生が、フローリングに立つヴェルナーに話しかけた。
「じゃあ、家まで送ってくる。せっかく来てもらったんだから、礼くらい言いたまえ」
「ん、ああ、わざわざどうもな」
ヴェルナーの挨拶はぞんざいだった。
「つーか、護衛するとか言ってたのに着いてこないんだ……」
「んー? ま、今日は大丈夫でしょ。明日から本気出すわ、もう眠いし」
龍介の嫌味に対し、ヴェルナーは大あくびで応える。
もし何かあったとき、この人は本当に助ける気があるのだろうかと、疑念を抱かざるを得ない態度だった。
先生がドアを押し開けようとした瞬間、不意にあ、とヴェルナーが思いついたように呟く。
「ちょっといいか、錦 」
先生が軽くため息を吐き、
「なんだね……すまん茅ヶ崎、先に行ってくれ。走って追いかけるから」
龍介が部屋の前の通路に出たところで、ドアが音もなく閉じられた。
* * * * 「錦。お前の言うとおり、約束は果たしたからな」
ドアを閉めた桐原の耳に届いたのは、氷のように凍てついた声音だった。頭を押さえつけられるような圧迫感を感じる。振り返って見ると、ヴェルナーの口元は笑みの形になっていたものの、眼は全く笑っていなかった。獲物を狙う狼のような鋭い眼光に、桐原の身は少々震えた。
「今度はお前が約束を守る番だぜ、"黒獅子"」
「分かっている」
ヴェルナーを睨み返しながら、桐原は答えた。
* * * * 空の高い所で月が煌々と輝いている。先生が運転するセダンの助手席で、龍介はぼうっと窓の外を眺めていた。
自分の命が狙われるかもしれない。それは未だに現実味の薄い話だ。ただ眼裏(まなうら)に焼き付いたヴェルナーの拳銃、その荒々しい銃口が、これは現実だと突きつけてくるようだった。
道路は様々な色の車のライトで溢れている。この道を走る人々は、罪のことも影のことも予見士のことも、誰一人として知る者はないのだ。ヴェルナーの話を聞く前の龍介も、そのうちの一人だった。
不思議な心地だ。桐原先生の家の敷居を跨ぐ前の自分と、ヴェルナーから話を聞かされた後の今の自分とが、同じ人間ではないように思われる。
「遅くなってすまないな。親御さんによく謝っておいてくれ」
交通量の少ない細い道に差しかかったところで、先生が口を開いた。龍介は視線を窓の外から進行方向へと移す。
「いや、そのことは別に……。ただ色んな話をいっぺんに聞いて、少し疲れました」
「悪いな。あいつはお調子者だし能天気だし無神経だが、悪い奴ではないはずだ。腕も確かだし、よろしく頼む」
「それは、まあ……あの、ひとつ訊いていいですか」
「ん?」
それは、ふっと湧いた疑問だった。
「先生はどうして、あの人と知り合いなんですか」
前方の信号が黄色から赤に変わった。先生が静かにブレーキを踏む。体が少し前につんのめる感じがあって、車体が止まる。エンジンが自動停止する。
静寂。
「私はな」
ややあって、先生が言葉を発した。
龍介が横を見ると、怖いくらい真っ直ぐな目で、前を見つめる先生がいた。
「あの男が所属している組織に、身を置いていたことがある」
ぽつり、と漏らすような声だった。
――秘密
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