桐原先生は、どこかミステリアスな人だ。
 彼はいつも細身の黒いスーツを一部の隙なく着こなしていて、きりりとした表情の奥の瞳は常に冷ややかであり、動作はきびきびとして厳格な雰囲気を漂わせている。見かけは近づきがたく思えるけれども、話してみると柔らかい物腰で丁寧に対応してくれる好い人だ。

 桐原先生は私、水城麗衣(みずきれい)の同僚であり、同時に、私の想い人でもある。

 職員室の壁の時計をちらりと見上げる。もうそろそろかな。もうすぐ、彼が来る頃。
 毎日のことなのに、少し緊張する。しかし嫌な緊張ではない。落ち着こうとふっと息を吐いたときだった。私の席のすぐ右側にあるドアが、わずかな音を鳴らしながらスライドする。おはようございます、と挨拶した落ち着きのある声に、私の心臓は落ち着きを無くす。
 声の主は私の隣の席の椅子を引いた。そちらへ向かって、

「桐原先生、おはようございます」

 高鳴る鼓動を必死に鎮めながら、平然を装って挨拶をした。
 大丈夫かな。今の私、自然に笑えてるかな。

「おはようございます。水城先生」

 桐原先生が私の方に顔を向けてそう返してくれた。その拍子にばっちり目が合う。かっと顔に血が上るのが分かって、反射的に目を反らした。
 あ、やばい。今の、絶対感じ悪かったよね……。
 自己嫌悪で死にそうになりながら、私は授業の準備を再開した。横目で桐原先生を窺うと、彼は何事もなかったような面持ちでパソコンの電源を入れたところだった。黒縁眼鏡の奥の目がまっすぐ前を見ている。日本人にしては彫りの深い顔立ち。横顔では通った鼻筋が際立つ。ただの数学の先生にしておくには勿体ないくらいだ。会うたびに、格好いいなあと思ってしまう。キーボードを叩く、少し骨の浮いた長い指に見とれる。
 初めて先生に会ったときから、ずっと彼が好きなのだ。一目惚れだった。そして、こんな風に年甲斐もなく、中高生のように胸を焦がしている。
 桐原先生のことをもっと知りたいという思いと、この気持ちに感づかれてしまったらどうしようという畏れのあいだで、私は長いこと揺れ動いていた。
 横の席を盗み見たり、メールに目を通したり、授業の準備をしたりするうち、朝はあっという間に過ぎていった。
 今日の1時限めは1年D組で授業がある。テキストやらプリントやらを束にして抱え、始業のチャイムと同時に教室に入る。教壇の上から生徒のみんなを軽く見渡したところで、私は内心ちょっと落ち込んだ。
 また茅ヶ崎くんがいない。
 このクラスの茅ヶ崎龍介くんという生徒は、授業中はたいてい机に突っ伏していて、時々ふらっと教室から出ていってしまう。今日みたいに最初からサボることもある。前回もだったから、これで2回連続だ。
 茅ヶ崎くんは何を考えているかよく分からないところがある。気怠そうな雰囲気とは裏腹に、目付きは鋭い。射抜くような、刺すような鋭さがある。他の人が見えないものまで見えているんじゃないかとさえ思う。正直言うと、茅ヶ崎くんのことはほんの少し怖い。教師が生徒のことを怖いなんて言っちゃ駄目だとは思うけど。
 気を取り直して、私は明るい声を繕った。

「グッモーニン、エヴリワン!」

 グッモーニン、とクラス全員のもそもそした返事が返ってきて、授業が始まる。

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