こちらが逃げ込んだ先を見て、一階を経ずに先ほどいた二階部分から直接あそこまで飛んだのだろう。直線距離は目算で八メートル近くある。大した跳躍力だ。椅子の裏に隠れても、確かに上からでは丸見えだ。
 いや、それよりも。

「茅ヶ崎! どうしてここにいる」

 ラウンジに走り込んできた華奢な姿に、私は蹲ったまま大声を放った。焦りの含まれた声は、五メートルほど先に立つ教え子の、こちらに向いた側頭部に間違いなく届いたはずなのに、彼は私を一瞥すらしない。ラウンジへ来る前までの交戦内容を見ていないだろうに、ヴェルナーがいる場所を言い当てて警告するという離れ業をやってのけた茅ヶ崎は、窓枠からぶら下がった赤毛の男に真っ直ぐ目線を固定し、物陰に隠れるでもなく力強く仁王立ちしていた。

「茅ヶ崎、何をしているんだ。逃げてくれ」

 遮蔽物がなく目標まで距離がある状況では、私は守るものも守れない。それどころか情けないことに、一度膝をついてしまうとなかなか立ち上がれないほど、体力を消耗している状態なのだ。茅ヶ崎に逃げてもらうほかない。
 それなのに、彼は肩越しにちらりとこちらを見やるだけで、身を隠す素振りも見せない。目線が動いたのも一瞬のことで、表情すら読めないまま、茅ヶ崎は再び前方に視線を戻してしまう。
 ヴェルナーが窓枠から飛び降りた。五メートルはあろうかという高さをものともせず、軽やかに着地する。革靴の踵が絨毯を踏み打つくぐもった音が、じっくり時間をかけて近づいてくる。
 私に顔を向けないまま、茅ヶ崎が低く問うた。

「先生……あれ、何ですか」
「あれ、というと」
「どうして"遺書"なんか、俺に託すなんて言ったんですか」

 その問いかけに、思わず瞠目してしまう。中身を見たということは、この短時間でロックされた金庫を開けたというのか? 信じがたかったが、確かに私は、あの中に大切な人へ宛てた最期の手紙――それは遺書とも呼べるだろう――を何通か入れていた。
 茅ヶ崎の問いかけの中には、噴出しないよう抑えた強い感情が如実に滲んでいる。それは怒気でもあり、悲しみでもあるだろう。己には生きろと言っておきながら、勝手に死を覚悟し受け入れた私への、膨れ上がる感情。
 彼の激情も尤もだ。しかしながらあれは、遺書でありながら遺書ではない。自分の中ではそういう認識だった。

「すまない……本当に、あれを他人に見せるつもりはなかった。君が鍵を開ける前に絶対に戻るという……願掛けだったんだ」
「……本当に?」
「ああ。昨日、意思を固めるために書いているうちに、絶対に死ねないという内容になった。勝手な言い分だが、あれは遺書ではなく、決意書のつもりだったんだ」
「そうですか。俺は自分宛のを最初の方しか読んでないから。……」

 茅ヶ崎の声がいくらか和らぐ。彼から怒りを向けられたのは、記憶にある限り初めてだった。私はどうしてだか、それが嬉しいような気さえ覚える。この少年の背中は、こんなに大きかっただろうかと、不思議と眩しく感じられた。
 これまでと、何かが違っている。茅ヶ崎の背からそんな、曖昧だが明確な違和感が放たれている。
 無論、先刻の言い訳が自分本意に過ぎることは理解しているし、茅ヶ崎だって完全には納得していないだろう。だからこそ私は、これから行動でその証明をしていく必要がある。そのためには、二人揃って現在の窮地を切り抜けることが必須条件だ。
 不意に、二本の脚で豎立(じゅりつ)する少年がばっと両手を広げた。まるでヴェルナーの注目を、一身に集めようとするように。

「なああんた! 先生を殺したくないんだろ、だったら俺だけを撃てよ!」
「茅ヶ崎!」

 自分の呼び声に、焦燥が混じる。
 ヴェルナーが銃を握った腕を持ち上げていくのが、妙にスローモーションに見えた。
 照準が茅ヶ崎に合ってしまう直前、ようやく立ち上がることができる。私は槍の柄側を相手に向け、腕も折れよとばかり、全力を振り絞ってそれを投擲した。ヴェルナーの腕が弾かれ、銃が玩具のようにくるくると回転しながら飛んでいく。腕に当たって数回転した槍が、音も高く床に突き刺さる。そのおよそ一秒後、銃がごつりと床材にぶつかる鈍い衝撃音がラウンジに響いた。
 ヴェルナーはもう、得物を拾おうとはしなかった。私もこれ以上、道具を使うつもりはない。きっと、頭に浮かぶ考えは同じだ。結局我々は、同じ組織の同じ思想に浸って育った同胞(はらから)なのだから。
 思うように動かない体を叱咤しながら、ヴェルナーへと歩み寄っていく。静かな怒気を込め、相手を真っ向から睨む。

「貴様の相手は私だ。移り気は許さん」
「これはまた、熱烈なこって」

 ヴェルナーは無理に口の端を吊り上げ、切れた唇から流れ出た血を手の甲で拭う。こうして相対すると、相手も満身創痍であることが伝わってくる。

「最後は正々堂々丸腰でいこうや」
「ああ。望むところだ」

 お互いにぐっと腰を落とす。
 ここが終着点だ。本気で傷つけ合い、深い断絶を隔てた崖の端に向かい合い立っているようなものなのに、どこかしら心の繋がりめいたものを感じるのはなぜだろう。
 間近から注がれる教え子の視線を項(うなじ)あたりに感じながら、彼の名を呼ぶ。

「茅ヶ崎」
「……はい」
「釈明は後でゆっくりさせてくれ。我々から離れたところで、最後まで見届けてほしい」
「分かりました」

 気配が後退っていく。ぼろぼろになったヴェルナーの姿をしっかりと見据える。教え子の前で、これ以上みっともない姿を晒すことはできない。
 深く息を吐いた。もはや気力だけで立っている体を、もう一度奮い起たせる。身体のすべてのリソースを、目の前のことに集中させろ。ヴェルナーの一挙手一投足を捉えることだけを考えろ。この場で骨の髄まで粉々に砕けたっていい。
 互いの呼吸がだんだんと合ってくる。緩く構えながら、周りの音が急速に遠ざかっていくのを肌で感じた。両者を上空から俯瞰しているような、不可思議な感覚に没入していく。
 ヴェルナーと私の動きが、寸毫のあいだだけ静止した。
 同時に間合いへ踏み込もうとする、そのわずかに直前。

「両者、構えを解きなさい」

 空気をぴしりと打つような、張り詰めた冬の空気。それに似通った声音が、鼓膜を鋭く震わせる。
 声に聞き覚えはなかった。私とヴェルナーは一気に毒気を抜かれ――興を削がれたとも言う――割り入(い)ってきた声の主の方へ視線を動かした。後背に玄関からの逆光を背負うようにして、見知らぬ男性が立っている。薄い色素の髪に、真冬に着込むようなロングコート。一体、誰だ? 訝しむ間に、さらに人影がもうひとつ走り込んできた。

「間に合ったか? 暗殺指令は取り消しだ、二人ともやめてくれ!」

 よく響く声を放ったのは、髪を後ろに撫でつけ眼帯を着けた、大柄な男だった。
 私も、ヴェルナーも茅ヶ崎も、唖然としながら二人の闖入者の全身を眺めていた。

* * * *

 俺が物音を頼りにホテルのエントランス部分に辿り着いた時、それまでの交戦の経緯などはまったく分からなかった。桐原先生がどんな状況にあるのかも、ヴェルナーの動きと狙いも。
 それなのに、なぜか俺にはヴェルナーの居場所が想像できた。正確には、ヴェルナーが何をしようとしているかが直感的に分かったのだ。眼前に映像が展開するような、それが確実に起こると自然に信じられるような、これまで感じたことのない、おかしな感覚だった。
 結果として先生は窮地を脱し、武器を用いない直接対決にもつれ込んだのだが、そこに待ったがかけられ今に至る。
 現れたのは、コートを羽織った青年と体格のいい男性。
 ヴェルナーと桐原先生の顔を窺ってみたが、先生は俺と同じような気持ちらしい。混乱しているのが表情に表れている。
 妙な静寂が場に満ちた。それを破って次に行動を起こしたのはヴェルナーだった。突然現れた背の高い方の人物にずかずかと近づき、胸倉を掴まんばかりに詰め寄っていく。
「おい、セルジュよお」と荒々しく口火を切る。

「なんでこんなところにいやがる? 取り消しってのはどういう意味だ」
「ちょっと日本に用事があったもんでな。取り消しというか、暗殺指令は元々誤報だったんだ。俺ももっと下の奴らも、誰一人そんなもの出しちゃいない。お前たち二人とも全然連絡がつかなくて焦ったよ。ともかく間に合って良かった」
「は? どういうことだよ……」

 日本語のやり取りのあと、途方に暮れたように赤毛の男が語気を緩めた。ヴェルナーの知り合いということは、二人は影のメンバーだろうか。大柄な男性はセルジュという名で、俺を殺せという命令はどうも誤りだったらしい。そんな……そんなことって。
 力が抜けて、へなへなとその場に倒れ込みそうになる。そうならなかったのは、桐原先生が肩を支えてくれたからだ。ここにいる誰よりもぼろぼろの状態なのに、その腕は力強かった。
 大柄な方の男性が俺に歩み寄ってくる。鳶色の髪を撫でつけていて、顔立ちからするに西洋人だろう。彫りの深い顔には柔和な笑みが浮かんでいるが、右目を覆う眼帯と服の上からでも分かる立派な筋肉とが柔らかさを打ち消し、総合的には怖さと威圧感が勝(まさ)っていた。肩に置かれたままの先生の掌に力が入る。俺は無意識にじり、と一歩引いていた。
 男性がにかりとこれまた大きな口を開く。

「よう坊主、久しぶりだな。ずいぶん立派になったもんだ」
「え? っと……」

 一瞬呆気に取られるほど親しげに話しかけられ、俺は反応に窮してまごついた。

「なんだ、忘れちまったのか? 人相を覚えてもらうのは得意なんだがな。ま、あの頃は坊主もこーんなに小さかったから仕方ないか」

 セルジュというらしい人は、こーんなに、と言いながら右手の親指と人差し指で一センチメートルほどの隙間を作る。

「それは……小さすぎるんじゃ」
「冗談だ、冗談!」

 わははと大口を開けて相手の男が快笑する。朗々としたよく響く声だった。この空気感の中で冗談言えるのすごいな、と俺はひそかに感心した。と同時に、その磊落な雰囲気と記憶の中の人物像が一致する。

「あの……昔、誘拐された時に助けてくれた人?」
「なに?」傍らの先生が意外そうな声を上げる。
「おう、覚えててくれたか。そうだ、その時の一人だよ。いや懐かしいなあ」

 薄い茶色の片目を細めてセルジュがほほえむ。その目線がすいと隣に移る。

「桐原くんは初対面だね。初めまして」
「……どうも」

 硬い調子で、新鮮な呼び方をされた先生が手短に返す。
 俺たちからやや離れて、ヴェルナーともう一人の参入者は、小型犬の喧嘩のようにきゃんきゃんとやり合っていた。

「てめえはなんでここにいるんだよ、ドミトリー」
「野暮用です。ただの組織の駒である君に、僕らの業務は明かせません」
「ああ? 普通に会話できねえのかてめえは。相変わらず辛気くせえ顔しやがってよお」
「品のない君のような顔よりはよほどマシです」
「なんだとォ?」

 どうも二人は仲が悪いらしい。
 セルジュがちらりとそちらを見て苦笑する。肩を竦めながら、再び俺の方に向き直った。口元に微笑を残しながら、真剣な目つきになる。

「お察しだろうが、俺は影に所属する人間でね。実は……茅ヶ崎龍介くん、君に話があって俺は日本に来たんだ」
「……俺に?」
「ここではできない話だから、一日時間をくれないかな。一緒に来てほしい場所がある」

 また、これだ。自分の心境を置き去りにするように、目まぐるしく周囲の状況が変わっていく。俺は、その濁流で溺れないようなんとか必死に息継ぎをする。自分の力では沈まないようにもがくので精一杯だ。
 すうっと息を吸ってから尋ね返す。

「これから――どこに?」
「トーキョーだ」

 東京。
 その一日に一回は耳にするようなありふれた単語が、その時ばかりはいやに新鮮な響きに思えた。
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