「動けるじゃねえか、お見逸れしたぜ。病み上がりとは思えんな」
「それはどうも」
「戦い方に迷いがねェな。死ねないから生きてるだけの錦くんはどこ行ったよ? どういう心境の変化なんだか。今まさに死にかけてるってのに……」
「私は死なん」

 相手の発言を遮ってはっきり断言すると、ヴェルナーの片眉が意外そうに持ち上がる。

「へえ? ずいぶん強気じゃねぇの」
「もし貴様が勝ったとしても、貴様に私は殺せない」

 殺されても、死なない。死んでも、殺せない。
 大いに矛盾するようだが、それが現在の自分の心境であった。私の心の内は、不思議と静かに凪いでいる。

「茅ヶ崎も、水城先生も、私のことを忘れないでいてくれるだろう。貴様だってそうだ……私の今際(いまわ)の瞬間を、自分が死ぬまで網膜に焼きつけておく。貴様はそういう男だからな。何人もの人が私を記憶してくれる。彼らの中で私は生き続ける」ヴェルナーの双眸を真っ直ぐ見据え、宣言した。「だから、怖くない」

 これは完全なる逆説だ。己が負けたとして、記憶に留めてくれる人がいる。だからこそ、思いきり戦える。死ぬ気がまったくしないほどに。
 以前抱いていたような、自分の命などいつ擲(なげう)っても構わない、という捨て鉢な気持ちとは正反対のもの。こんな心情を、私は未だかつて持ち合わせたことがなかった。茅ヶ崎や水城先生たちがいてくれたから、彼らとの関わりがあったから、胸の内に生まれた強い思い。
 それが太い芯となって、自分の中心をがっちり貫いて支えている。同時に赤熱する歯車となって、自分を前へ前へと掻き立てる。心臓が熱く滾っていた。
 ヴェルナーが微笑する。いっそ儚いほどの優しさを湛えて、どこか眩しそうに。

「なるほどな、ちょっと前までの甘っちょろい錦くんとは違うってわけかい。……なんでだろうな。こんな時だってのに、お前がそんな風に断言するのが嬉しい気がするぜ」

 赤毛の男のほほえみは、しかし一瞬で獰猛なものへ塗り替えられる。

「でも残念だが、最後まで立ってるのは俺だ」
「そう思うなら、来い」

 この命のやり取りは、きっと数回では終わらない。
 長期戦の予感を頭の後ろ側あたりに感じながら、思考を後方へ置き去りにするように、また相手の間合いへと強く踏み込んでいく。

* * * *

 桐原先生と別れてしばししょぼくれていた俺は、若干気を取り直して金庫と向かい合っていた。
 先生が託したいものとは何だろう。暗証番号は俺に解けるのか。腕組みをして熟考するうちに、まずダイヤル式金庫の開け方を知らないことに気づく。
 携帯で検索してみると、ダイヤルを左右に回し、決められた数字のところに止めていくと解錠できるらしいと分かった。先生は中身を入れる前に何やら作業をしていたから、おそらくデフォルトの番号ではなく、彼の意図した番号になっているはずだ。
 肝心のダイヤルの数字は0から99まである。設定された数字を四種類と考えると、単純に百の四乗で組み合わせは一億通りあることになるが、数学教師である桐原先生が適当に数字を決めるわけがない。
 もし俺なら、どうするだろう。大切なものを仕舞うとき、鍵の番号はどう決めるだろうか?
 真っ先に閃いたのは、素数だ。一と自分自身の数字でしか割り切れない、長年数学者たちを悩ませ虜にしてきた、不思議な数字たち。
 数学の研究者は、居酒屋などの靴入れを選ぶ際に素数が振られたものを選びがちだそうだが、俺も博物館などのロッカーは素数の番号を選びたい人間なので、とても気持ちが分かる。
 百までの素数は覚えているので個数も把握している。ニ十五個だ。それを四乗するとなると……駄目だ、まだ四十万通り近くある。すべてを試していたら膨大な時間がかかってしまう。まだ、何か手がかりはないか?
 部屋をぐるぐると歩き回るうち、素数を暗証番号として使う場合には、二つのパターンがあることに思い至る。すなわち、二桁の素数を四つ組み合わせるパターンと、すべての数字を連番にして――四つの数字の組み合わせなら八桁の――大きい素数になるパターンだ。
 先生なら、後者の八桁の素数を用いる気がした。素数を四つ組み合わせても素数にならないのでは収まりが悪い。しかし、そこまで大きい桁の素数は膨大な数があり、その中からひとつを予想するのも、そもそも任意の八桁の整数が素数かどうか判断することさえ難しい。

「どうしたもんかな……」

 がしがしと頭を掻きたくなる。時刻を確認すると、桐原先生と別れてからおよそニ十分が経過していた。
 何かヒントはないかと、インスピレーションを 求めて携帯にキーワードを打ち込み検索してみる。大きい桁の数字でも、一瞬で素数判定ができるサイトが存在したのは僥倖だった。
 数字、数字、と心の内で唱える。
 そこで、目の前にぱっと光が瞬くような感覚があった。そうだ、誕生日はどうだろう?
 先生の誕生日は確か、三月十四日。どこで聞いたのか忘れてしまったが、それが円周率πの日であり、俺の誕生日は分数にすると円周率の近似値になる七月ニ十二日なので、運命的なものを感じたからよく覚えている。お互い誕生日は偶数だから、月と日を並び替えてみたらどうだろう。つまり、彼と俺の誕生日を並べて、14032207のように表すのだ。素数になる可能性がある候補は14032207、22071403のふたつ。
 このどちらかが素数なら、可能性は高いんじゃないか? さっそく素数判定機にかけてみようとするも、にわかに緊張してきて指が震え、なかなか数字が入力できない。
 やっとの思いで打ち込み、意を決してボタンをタップすると、間髪入れずに結果が表示される。14032207は素数ではない。
 この考えでは駄目なのか。唇を噛みながら次の候補を入力する。祈るような気持ちでボタンに触れた。

「おお……!」

 思わず声が漏れる。22071403は、素数だ。
 反射的に小さくガッツポーズしそうになったが、まだこれが正解と決まったわけじゃない。しかし何かに導かれているような、正しい道の感触を感じながらしっかり歩んでいるような、そんな不思議な感触があった。
 逸(はや)る気持ちを抑えながら金庫の前に蹲り、シリンダーをリセットするためにダイヤルを五回ほど回転させる。ここからが勝負だ。右に四回捻りながら22で止め、次に左に三回捻りながら07で止める。また右にニ回捻りながら14で止め、最後に左に一回捻って03で止めた。
 かちり、とわずかに軽い音がしたように聞こえたのは、果たして空耳だったのかどうか。キーを捻ると、今度こそ金属音を立てて金庫が解錠された。その音はささやかなのに、部屋全体に響いたように感じられた。
 そうっと扉を開く。存外に滑らかに開いて、中にいくつかの封筒が入っているのが目に入る。
 途端に、真水に濁った液体が拡散するように、嫌な予感が胸の内に広がる。封筒を取り出すと、宛名面に俺の名前が書かれたものもあった。
 生唾を飲む。見ない方がいいかもしれないと思いながら、封を開けて中身の便箋を見てみる。素っ気ないほどシンプルな用紙に、やや角が目立つ律儀そうな佇まいの文字が書き連ねてあった。

「……これって」

 文面の冒頭数行を読んで絶句してしまう。こんなところでのうのうとしてはいられない。居ても立ってもいられず、衝動的に部屋の扉に取りつく。
 外側に何かでバリケードがされていたとしても力ずくで突破してやる。そんな俺の気合いとは裏腹に、ドアは呆気なく外側に開いた。
 行かないと。桐原先生のところへ。
 ホテルの建屋へ向けて、震えてもつれそうになる脚を叱咤しながら、倒(こ)けつ転(まろ)びつ全速力で急ぐ。

* * * *

 エントランスホールで、娯楽室で、大浴場で、豪奢なステンドグラスの前で、私たちは命を賭けた一世一代の交戦を繰り返した。その間、やはりヴェルナーは一度も引鉄を引いていない。
 ひりついた緊迫感を持っていたそのやり取りは、互いに負傷の数が増えるほど、洗練さを失っていった。骨へのダメージも打撲も裂傷も、流れ出る血さえも、致命傷以外は気にかけている余裕がない。もはや意地だけで身体の状態を保っているに等しく、端から見たら大がかりな喧嘩のように映るだろう。まさしく泥試合と言えた。
 ――だが、これでいい。
 これでいいのだ。ヴェルナーと敵対すると決めた時、無傷で済むとはそもそも思っていなかった。私が抗おうとしたのはヴェルナーではなく、この理不尽な運命、そのものだ。
 未来からやってきて否応なしに人間に襲いかかる、血も涙もない数々の宿運。すべては何者かの大いなる力によって、予め定まっているのかもしれない。それでも、何の罪もない少年を、運命が無慈悲にも飲み込もうとするなら、私は。
 私は、泥にまみれ傷だらけになって、地面に這いつくばってでもそれに歯向かいたいと思う。そうでなければ、生きている甲斐が、ない。
 大切な人たちのおかげで、ようやく命の使い方が分かったのだ。
 ヴェルナーと相対しながら、左右も上下も視界が激しく入れ替わる。自分の周りを目まぐるしく見慣れぬ景色が通り過ぎていく。それはあたかも、私自身の人生そのものであるようだ。
 戦いに身を投じている自分と、こうして思考している自分とが、ふっと乖離していくような不思議な感覚に襲われる。思えば、ひとところに留まったことがほとんどない人生だった。施設から養父に引き取られてからは、同級生の顔と名前を覚える頃に居住地が変わり、やがて帰る場所も父も失って、根無し草みたいに戦地を転々とした。その果てに深い喪失を経験し、茅ヶ崎龍介に会うことを唯一のよすがとして、八年間を無為にやり過ごしてきた。
 その悪路のような道行きに同行してくれたのは、自身だけだ。自分独りだけがずっと、いつでも自分自身についてきて、傍らにいた。今までずっとそうだったから、これからもずっとそうなのだと思っていた。
 最初から持たなかったもの、諦めていたもの、途中で失ったものなど数えきれない。故郷、両親、養父、家族、友人、戦友、上官、そして、恋人。
 それら切れぎれの情景や出会った人の顔が浮かび、後ろへ飛びすさっていく。まるで人生を早送りして見ているように。まるで、これが今際の際に見る走馬灯であるかのように。
 その幻視は、没入の裏返しでもあったろう。正直に言って私は、途方もなく不謹慎ながら――高揚していたのだ。
 きっと、相手がヴェルナーだったから。
 断言する。それは相手も同じはずだと。刹那のやり取りのあわいに、ヴェルナーの口元に限りなく愉快そうな笑みが浮いていたのを、私は見た。
 この時間がいつまでも続けばいい。そうすれば永遠に、誰も死なずに済む。
 しかしながら、無限に引き延ばされたような時間にも、無情に終わりは来る。意に反してがくりと折れた私の右膝を、ヴェルナーが見逃してくれるわけがなかった。
 長期戦になれば、持久力に劣る者――ここでは体力が戻りきっていない私が不利となる。
 ものすごい衝撃が全身を襲い、それがヴェルナーの渾身の蹴りだと気づく前に、受け身を取りきれないまま背中から床に叩きつけられていた。一瞬呼吸が詰まるが無理に体を起こし、銃を構えようとする相手の腕を、槍の柄(つか)の方で遠心力を使って弾く。得物の回転の勢いを利用して立ち上がるが、崩れた体勢と趨勢は容易には戻らない。
 じりじりと追い詰められていく先は、何の因果か、最初にヴェルナーを出迎えたエントランスの二階部分だった。
 目が霞んでくる。どうにかしなければ、と思うほどに体の動きが鈍ってくる。相手とて軽傷ではない。それでもこちらの隙を縫って間合いに潜り込み、私の溝尾へ放たれた肘打ちは、雌雄を決する決定打となる威力を持っていた。
 木製の手摺りを薙ぎ倒しながら、私は仰向けにくずおれる。腐食と風化により弱くなっているとはいえ、木材の硬さは背中に多大なるダメージを与えるには充分だった。上半身が中空に投げ出され、両腕がだらんと力なくぶら下がる。得物が床に落ちる重い音がした。せめて全身が完全に落下していたら、一瞬でも距離を取れたのにな、と空虚な笑いが湧いてくる。
 決定的な構図。ヴェルナーにとってはまたとないシチュエーション。
 起き上がろうとすれば 、その瞬間に私の急所を弾丸が貫くだろう。横に体を転がそうにも、残っている柵が邪魔でできそうにない。
 間延びしたような瞬刻の中で、茅ヶ崎はどうしているだろう、と考える。まだ金庫の前にいるだろうか。彼と別れてから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
 緩慢な仕草で拳銃を突きつけながら、なあ錦、とヴェルナーが呼びかけてくる。彼は淡く笑っていた。眉尻を下げて、もの寂しそうに。

「俺ァな、こんな形でお前とお別れするなんて残念に思ってんだ。……本当だぜ?」

 引鉄に指がかかる。身に迫る死の冷たさを、肌にひりひりと感じる。
 私は、まったく諦めてなどいなかった。
 死角になっている背中、その黒いシャツから、素早く自分の得物を引き出す。槍の質量は私の意のままに瞬間的に増し、軽く足で蹴っただけで背中の摩擦係数を運動エネルギーが超過する。その結果、全身がずるりと落下した。視界がぐるりと変化する端に、目を見張るヴェルナーの顔が映り、すぐに残像になる。よほど意外だったのだろう、銃弾はついに放たれなかった。
 体を反転させてなんとか着地したあと、エントランスと一続きの空間にあるラウンジへと転がり込む。布張りのソファがたくさんあるので弾除けにはうってつけだが、所詮は一時凌ぎだ。いつまでもこうしているわけにもいくまい。乱れた息を整えながら、態勢を立て直す算段を思案する。
 時計をちらりと確認すると、茅ヶ崎と別れて20分強。ヴェルナーはもう一階部分へ降りてきただろうか。大きくひとつ深呼吸をする。不意打ちを狙うか、また接近戦に持ち込むか。奴の居場所を探らねば――。
 そこで、この場に聞こえるはずのない声が、空間全体に響き渡る。

「先生! 上です!」

 聞き知った声が鼓膜を震わせた刹那、意味を頭で理解するのより速く、体が反射的に動いていた。総身を一回転させてその場から逃れる。視界が上を向いた際の0コンマ数秒で、ヴェルナーの位置が網膜に焼きつく。彼は壁の上方にある明かり取り用の窓枠にぶら下がって、上からこちらを狙っていたのだ。黒々とした銃口をぴたりと私に向けて。
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