日本の首都、東京。
その土地は、地方の人間にとってはフィクションのような存在だ。
自分の身がそこにある時だけ出現する、真新しくぴかぴかした虚構。あるいは、自分がそこから立ち去ると一気に実在感がなくなる白々しい幻想。
俺には東京で生まれ、東京で生活している人々の毎日が想像できない。
東京が夢に似た場所だと思っているなんて、東京に暮らす人が聞けばきっと嗤うのだろう。
そういったイメージの首都へ向け、俺は100キロ超のスピードで近づいていっている。
年月を経て再会したばかりのセルジュに促され、建物の外へ出た俺は目を剥くほど驚いた。そこに停まっていたのが、いやに車体が長く黒光りするリムジンだったからだ。
遠目で走っているのを見かけたことはあるものの、一介の高校生には縁遠い存在。もちろん乗車するのは初めてで、車内で盛大なパーティーでもするのかと思ってしまうほど大袈裟で豪華な内装に面食らい、既に20分以上座っている革張りのシートにも全然慣れない。
運転席とシートのあいだには仕切りがあって、前方の様子は窺えない。高速道路に乗ってしまえば車窓の景色も画一的だ。バスで言えば後部座席に座る俺と、進行方向に直角に座っているセルジュ、ここには二人きりだ。
「東京に行って……俺に何をしろって?」
「何かしろということはないよ。ただ、我々の話し合いの場にいてほしいんだ」
来てほしい、と請われて訝る俺に、セルジュは微笑を浮かべて説明した。リムジンに乗り込む直前、振り返って桐原先生を探すと、ぼろぼろの姿のまま相手は強く頷いてくれた。きっとあのときの俺は、不安で情けない顔をしていたのだろうと思う。
物理的な速度に心がついていかない。今だけじゃない。ここ半年間、その感覚はずっと自分につきまとっている。
「坊主、何か食べるか?」と不意に話しかけられ、はっと顔を上げた。グラスや食べ物を仕舞ってあるらしい、備え付けのボックス――正式名称は分からない――の前に座るセルジュが、微笑を浮かべてこちらを見やっている。このタイミングで沈黙を破ったのは、高速に乗って車内が落ち着くのを待っていたのだろう。
眼帯を着けた大柄な男性は、丈の長い上着を座席に畳んで置いて、ベストとワイシャツ姿になっている。そのせいで逞しい胸筋や腕の太さが強調されていた。
「緊張が解けて腹が減ったんじゃないかい? ここにあるのはクラッカーにサラミ、チョコレートにヌガー……乾物ばかりだが味は保証するよ。飲み物もある」
「……じゃあ、水を」
聞く者を安心させる低い声に、まだ緊張はしていると返せる空気でもなく、俺は最低限のものを所望する。
セルジュは小さく頷いてボックスの中からボトルを取り出すと、ものすごい勢いでめりめりと蓋を外す。それを高く掲げて中身をどぽどぽと口内に注いだかと思うと、再び栓をしてこちらにひょいと投げて寄越した。
慌てて掌で受け止め、呆気に取られていると、
「毒や薬は入っていないよ。安心して飲むといい」
毒味をしてくれたのだと、その言葉で理解した。
蓋にはセルジュの体温がまだ残っていた。4分の1ほど中身が減ったボトルにそろそろと唇をつける。なんだか数日ぶりに何かを口にするような気持ちがした。
まっさらな液体を一口含むと、体が一気に喉の乾きを訴えてくる。その欲求に従って、ごくごくと残りの水の半分ほどを飲み下した。
口元を拭って一息つく俺に、セルジュが柔らかい、それでいてどこか油断ならない笑みを向けてくる。
「やはり君は図太いみたいだね。車に連れ込まれてどこかへ連れていかれるなんて、以前誘拐されたときと同じシチュエーションなのに」
「あ……」
トラウマを引き合いに出されて言葉を失う。そうは言っても、確かに状態こそ似通っているが、状況はまったく違う。俺は自らの意思で車に乗り込んだのだし、身動きを制限されてもいない。それに、セルジュは俺の味方である、はずだ。
「それは――あの時とは、全然違うから」
「なるほどね。何にせよ君は他人を信用しやすい性格らしい。ある意味それが君の美徳なんだろう」
ぼそぼそと弁解めいたことを言うと、相手は何やら思案げに口元に手をやる。何やら含みがありそうな気配だが、その正体は自分には分からない。
もしかして、しばらく沈黙の時間があったのはこちらを観察するためだったのだろうか。だとしたらかなり居心地が悪い。
「さて」とセルジュが空気を仕切り直すように居住まいを正した。
「訊きたいことが山ほどあるだろうから、何でも訊いてくれ――とその前に、自己紹介が遅れたね。俺はセルジュ・アントネスク。33歳。出身はルーマニア。トランシルバニアって聞いたことあるかな? そこで生まれ育った。今じゃ世界を忙しなく飛び回っているけれどね。あと、犬が好きだ。君も知っての通り、影に所属している。立場的にはヴェルナーの上司にあたる。奴と違って実戦はもう退いているけれどね。まあ……そんなところかな」
そこまで一息に言ってから、次は君の番だ、というような視線を送ってくる。
「俺が話せる限りの範囲で、何でも答えるよ。車内での会話は外から傍受される心配はないから、そこらへんの気も遣わなくていい」
訊きたいこと。改めて言われると何をどう尋ねればいいのか分からない。犬が好きという情報は要るのか、とか余計なことを考えてしまう。
脳内をざわつかせる様々な声音のざわめき。それらに耳を澄まし、ひとつひとつの問いを抽出していくほかにない。
「ええと、まず――本当は暗殺指令が出されてなかった、ってことは……俺はもう安全だと思っていい?」
「ああ、安心していいよ。その件に関しては、二人を止めに入るのが遅くなって申し訳なかった。謝って何がどうなるわけでもないが……」
セルジュは苦い表情を浮かべる。きっと桐原先生もヴェルナーも、途中から端末の電源を切っていて連絡したくてもできなかったのだろう。セルジュがもう少し遅ければ誰かの命が喪われていたかもしれない。そう考えると今さら背筋がぞっと冷えた。
「ただまあ、君に接触するために俺たちが日本が来ていたのは不幸中の幸いだったと言えるかもしれん。俺は部下の居場所を調べることができるから」
「じゃあやっぱり、けっこうヤバい状況だったってことか……。その、犯人、って言っていいのか分からないけど――偽の指令を出した人の正体は?」
「まだ判明していないんだ。現在影の人員を割いて調査しているところだ。不安にさせてすまないね」
「いえ……。そういえば、桐原先生やヴェルさんも、東京に?」
セルジュが片目を眇めた。しっかりした顎が重たく引かれる。
「ああ……彼らにも一緒に来てもらうよ。ひとつ言いつけたことがあるから、集合場所につくのは少し遅れる予定だが」
「そう……あの、ヴェルさんの処遇とかは、どうなるのかなって」
「処遇」薄い茶色の目が瞬く。「そうだな、指令が偽のものだったとはいえ、一応組織の命令に従っての行動ではあったからな。ヴェルに責任を問うことはできないだろう。もちろん責任という意味では桐原くんも同様に。危険な目に遭った君からしたら、納得できんかもしれんが」
「いや、いいんです。それを聞いてほっとした」
その言葉に嘘偽りはない。あれでヴェルナーが罰せられ、彼ともう二度と顔を合わせられなくなったらどうしようかと思っていたのだ。
セルジュは意表をつかれたように瞠目した後、髪を掻き上げる仕草とともに相好を崩した。
「こりゃ驚いた、ヴェルのことも気にかけてくれるのかい。殺されかけたのに? 怒ってもおかしくないと思うが」
「それは……なんか、怒るとかとは違うような気がして。確かに怖いのは怖かったけど」
「そう。やっぱり、優しいんだね」
何かを見透かすように隻眼でじっと見つめられ、やや気まずい思いをする。
怒りが湧かないのは、そんなにおかしいことだろうか。結果論でしかないが、三人みんな無事だったのだ。それで良しとしたらいいと俺は思う。そこで当事者の誰かを責めたって仕方ないのだし。
それに俺が一番気に病んでいることは、他にあるのだ。
きっと甘い――のだろう。俺が想像もつかない状況をくぐり抜けてきたのであろう、ヴェルナーや桐原先生や目の前の筋骨隆々の男からすれば。
俯いていると、視界に映ったセルジュの左手に意識が引きつけられた。なぜだろう、と思う前に、薬指の指輪にフォーカスが集中する。その指輪が俺の知っている意味と同じなら、彼は結婚しているのだ。こう言っては失礼だがなんだか意外である。この強靭そうな男の隣に立つなら、きりっとしたタフな人だろうか――そこまで無意識に考えて、いやいやそんなのあれこれ想像するのは失礼だろ、と内省して妄想を断ち切る。
と、そこで体の妙な重さに気づいた。身体の危険が去ったからなのか、なんだか急激に眠くなってきている。先ほどよりも耳に届く走行音が遠い。
「眠たいかい? 目的地に着くまで眠っているといいよ。ゆっくりおやすみ」
毛布みたいに優しげなセルジュの声に返事をする前に、俺の意識は静かな暗がりへと沈んでいった。
* * * * 首都圏の専門店で、ヴェルナー共々新しいスーツを選んでいる。なぜか。
「そんなぼろぼろの格好でミーティングに参加してもらうわけにはいかないな。どこかでスーツでも新しく揃えてくるといい、立て替えてもらった分は経費か俺のポケットマネーから出すから」
死闘を繰り広げた廃墟の前で、そうセルジュに言われたからである。ちなみに本当に代金が戻ってくるのか、正直私はそこそこ疑っている。
事情の説明を差し置いて、彼が我々に言ってきた理由。大方、ミーティングとやらが始まるまでに仲直り――とまではいかないまでも、互いに言葉を交わして余計な蟠りを取り除いてこい、と言いたいのだろう。店まで指定されてしまってはヴェルナーと顔を合わせないわけにいかない。
スーツ専門店の前で鉢合わせした私とヴェルナーは、互いに応急措置だけした手負いの姿でまともに向き合った。
妙にぴりりとした、居心地の悪い数秒が流れ――
「悪かった」「すまない」
そう、謝意の言葉が同じタイミングで被る。私は眉をひそめた。ヴェルナーも同じように顔をしかめている。
「お前は悪くないだろ」「なぜ貴様が謝る?」
再び言葉が被り、先ほどまでの緊張感はどこかに散ってしまった。私が呻きながら側頭部のあたりを掻けば、相手は嘆息とともに天を仰ぐ。
「そうは言ってもさあ」と次に口火を切ったのはヴェルナーだった。「命のやり取りをしてたのは事実なんだしさ。お前、死ぬとこだったんだぜ?」
「それは貴様とて同じだろう」
自分の口がへの字に曲がるのが分かる。
私の方は、ヴェルナーに対して思うところは特段ないのだ。あれはあくまで組織に殉ずるか抗うか、互いの信念がぶつかり合っただけのことで、どちらが善でどちらが悪とかそういう話でもない。それにあの、最後に丸腰で対峙した時の抑えきれない高揚感。他人から見れば褒められたものではないし、他者からの謗りも甘んじて受け入れるつもりだが、あれをなかったことにはどうしてもしたくない。それが私の偽らざる本音だ。
きっとどちらかがいなくなったとて、私たちの関係は変わらないままなのだろう。かなり癪だけれど。
肩を竦めてから言葉を継ぐ。
「私に謝る必要はない。時にはそうならざるを得ない状況になる心構えと覚悟はできているからな。それより貴様は、茅ヶ崎に心から頭を下げる準備をしておくべきだ」
「そりゃあもう……。でも、坊っちゃんは許しちゃくれねえだろうなあ。さんざん酷ェこと言っちまったし。はあ……」
いつでも不遜な赤髪の狼は視線の先でめそめそしている。かなり珍しい姿だ。
結局、あくまで影の人間として繰り出された彼の主張の、何割が真意なのか正直分からなかった。私にはどうも、ヴェルナーはヴェルナー・シェーンヴォルフという人間を演じているようにも見える。
わざと露悪的に振る舞い、壇上で一人スポットライトを浴び、孤独に踊る道化。
そんな想像を軽く頭を振って払いのける。こいつの本心がどこにあろうと、付き合い方を変えるつもりはなかった。
「謝罪は許されようとしてするものじゃないだろう。自分の気持ちを示すためにやるものだ」
「分かってるよォ……」
髪をがしがしと掻き回すヴェルナーを横目に捉えながら思う。私とて、茅ヶ崎には謝らねばならない。大切な存在がありながら、また命を投げ出すような真似をしたことで信用を失ったに違いなく、そのうえ彼の才覚を侮ったのだから。謝罪ひとつで失墜した信用を取り返せるとは思わないが、謝らねば溝ができたままなのだ。
不意にヴェルナーが「なあ」とこちらに体の正面を向けてきた。
「結局素手でやり合う前に指令はナシになったじゃん? ちょっと一発殴ってくれねえかな、本気で。そしたら俺もお前も気が済むかも」
何かと思えば、どこかで聞いたような台詞を吐くものだ。
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