一面に広がる海は、美しい青色と簡単に説明できる程単純な美しさではなかった。おそらく様々な名前のついている青色で構成されている海は何処までも澄んでいて、気が付いたら吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。




八時間にと及ぶフライトを経て車でホテルに移動をしたのが二日前の話で、昨日はホテルの部屋で景色を見ながらゆっくりとディナーを楽しんだ。可憐への移動での負担が大きかったため早めに就寝し、目が覚めた時に彼女の顔色はとて良かった。お昼前からゆっくりとホテルの周りを散歩したり、海辺に大きなブランケットを敷いて本を読んだり普段の生活からは想像ができない様な時間を楽しんだ。











そして、今。
可憐は胸元と背中が美しく空いているが、繊細なレースが腕を包み込む袖が長いタイプのドレスに身を包んでいる。砂浜を歩けば、ドレスの裾が砂を連れてくる位に少しは丈の長いそれは身長が比較的高い彼女によく似合う。ふわりと広がるデザインではなくストンっと下に落ちるタイプのデザインは、身体のラインを程よく拾うので鍛えられた身体にはよくフィットしていた。


長い髪をラフに巻いて低い位置でまとめ、白い花が着いた華奢な髪飾りが結び目につけられている。装飾品は最低限でシルバーのイヤリングと右手の薬指の指輪だけ。そして、白と緑を基調としたクラッチブーケを両手で持っていた。





所謂、ウェディングドレス姿をした可憐は海辺にあるチャペルで牧師の前に、後ろで白い手袋を持った手を組んで立って待っている七海の方へとゆっくり歩いていく。白く少し麻の様な素材で作られたタキシードを着こなす七海の肩をトントンと叩けば彼が静かに振り返り、目が合う。


初めて見るウェディングドレス姿の可憐に七海は一瞬驚いたように目を軽く見開いたがすぐに優しく微笑んだ。彼女もまた何処か恥ずかしそうに笑って隣に立ち並ぶ。普段あまり濃い化粧をしない彼女は今日もナチュラルなメイクだが、口元に綺麗塗られた薄い赤の口紅がよく映えている。










牧師の前で七海と可憐は向かい合って立つ。二人への祝いの言葉を牧師が優しい表情で述べる。聞き慣れない英語だがその声色は暖かく何処か心地いい。







新郎から新婦へ誓いの言葉、
to live together in the covenant of marriage
Do you promise to love her,
comfort her, honor and keep her,
in sickness and in health;
and, forsaking all others, be faithful to her as long as you both shall live?





そして、新婦から新郎への誓いの言葉。
to live together in the covenant of marriage
Do you promise to love him,
comfort him, honor and keep him,
in sickness and in health;
and, forsaking all others, be faithful to him as long as you both shall live?






それぞれへの誓いの言葉を英語での尋ねられれば、二人は慣れない英語で「I do」と答えた。そして二人で数週間前に選んだ指輪を互いの指へとはめる。





そのまま英語でおそらく誓いのキスを促され、二人で顔を見合わせた。






「...誓いのキスって、言った?」
とても小さな声で聞く可憐に七海は静かに頷くと、彼女の肩に手を乗せて優しいキスをする。唇が離れると可憐は楽しそうに笑って七海の首に腕を回し抱き着くと、耳元で小さく囁く。











「kiss me before I rise.」
七海にしか聞こえないほどに小さな彼女からのお願いに彼は笑って抱き締めると、耳元でyesとだけ答えた。














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カシャ、という電子音が静かな海辺に響く。使い慣れたスマートフォンで夕焼けでオレンジ色に染まった海を撮影すると可憐はその写真をメールに添付して送った。
文章は何もなくただ一枚だけ美しい海の写真だけを添えて。








「そろそろホテル戻りますよ」
昼間のドレス姿からデニムのショートパンツにTシャツというラフな服装になっている可憐を呼ぶ七海もまた、ネイビーのハーフパンツにカーキの半袖のシャツを合わせていた。



「うん、今日のご飯なにかな」
「緊張して結婚式の前は何も食べていませんでしたもんね」
「緊張じゃありません、少しでもドレスを美しく着ようとしている努力です」
「じゃあその成果は十分出ていましたよ。」
「やった!」
手を繋ぎ海から歩いているホテルへ向かう。自然と揃う足並みはとても心地よい。海から吹く風も、砂の感触も全てが新鮮で、普段家から見える夕焼けといま海をオレンジ色に染める夕焼けが同じものなのかと思うと、何だか不思議な感覚に陥る。







「世界は広そうでしょう?」
「うん、とっても。」
「海の次は何処へ?」
「んー、次は寒いところとかどう」
「雪ですか、いいですね。」
「どっちが上手く雪だるま作れるか勝負しようね」
「その勝負いります?」
「いります。」



「あぁ、そうだ。可憐さん。」
「ん?」
「さっき私に英語でお願いしたでしょう?」
「うん、した。あれ言ってみたかったの。」
「そうだったんですか..では、私からもいいですか?お願いではありませんが覚えておいて欲しい事です。」
「..え。英語で?」
「ええ。」
「...わかるかなー」
「分からなければ、自力で調べて下さいね」
「嘘?!」

繋いでた手を引き寄せて抱き締める。不服そうな可憐に構わず七海は今度は彼女の耳元で囁いた。









I will stand by you all time , and love you longer than forever.







だからどうか、安心して。
貴方はいつも笑っていてくれたら、それでいいから。










「...待って、なんて言った?」
「やっぱり内緒にします。」
「英語がそんなに出来るなんて迂闊だった..発音良すぎない?」
「喋れますから」
「...確かに喋ってたわ..」





可憐は諦めたように七海の手を繋ぎ、風に靡いた長い髪を耳にかけた。オレンジの様な赤の様な、それでいてもうすぐ夜の気配がする深い青の様な。いろんな色を見せる海を見る。










「世界は本当に広くて、何処にでも行けそうね」
「ええ、勿論です。」
「あっ!ねぇ。」
「なんです?」
「帰国したら髪切ろうと思って」
「そうなんですか?」
「短い髪のわたしも好きでしょ?」
「久しぶりに見たいかもしれませんね。」
「また伸ばしてあげるから安心して」





揶揄うように笑う可憐の握っていた手に七海は軽くキスをした。






「帰ろっか、」
何処までもいつまでも、繋いだ手を離さずに。これでもう、迷ったりしないから。











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「何見てんの?」
「んー?可憐から来た写真だよ。」

高専の教員室で報告書を書いていた夏油がスマホに届いたメッセージに気がつきそれを開くと、無意識に表情が緩んだのかそれに気がついた五条に声をかけられる。そしてにゅっと夏油のスマホを覗き込む。





「夏の繁忙期めっちゃ働いて、少し落ち着いた途端しっかり休み取って行ったねー。クソ暑いのにも飽きてるのに、また暑い国とかもの好きかよ」
「海に行きたいって言っていたから、いいんじゃないか?」
「あれ、てかこれ写真だけ?」
「そうだよ。」
「味気な!」
「いいんだよ、これで。」



夏油が何故か満足そうな顔をするから五条はそれ以上は何も言わず、また退屈そうに隣の椅子に座り机に長い脚を乗せた。







「いつ帰ってくんの?」
「明後日と言っていたよ」
「お土産なにかなー!」
「悟には、ないんじゃないか?」
「マジ?」
「マジ。」
「こんなイケメンな僕にないの?」
「私にはあると思うけどね」
「嘘じゃん」
「むしろなんで私にもないと思っているのか教えてくれるかい?」
「僕と親友なんだから一心同体でしょ?」
「それはそれ、これはこれだよ」



横でぶーぶーと唇を尖らせて文句を言う五条を横目に、夏油は可憐へメッセージを入力した。短いけれど優しい彼らしいメッセージだ。








『次の世界も、楽しみにしているよ。
気をつけて帰っておいで。』










「元カノが結婚してもその余裕すごいね?」
「いいんだよ、何かあったら横から掻っ攫うから。」
「こわっ、げとーくんこわっ!」
「まぁそんなヘマをしない後輩だと思うから頼めたんだけどね」
「七海も、いい感じにイカれてるからねぇ」
「悟にだけは言われたくないと思うけどね。悟だって、可憐が教職出来る様に学長にかなり掛け合ったんだろ?」
「現実問題、可憐みたいなタイプが指導した方がいいことは沢山あるから。人のことを自分のことよりも、ちゃんと見れるってこの世界じゃ珍しいでしょ」

「ははっ、相変わらず友達想いだね」
「はい、そこうるさいよ!!」







夏油にとっても五条にとっても、そして家入にとっても、いつだって誰かのことを考えて誰かのために生きて、自分のことを一番に考えられない可憐が、自分の意志で教師になることを望み、結婚をし、休みを取って外の世界に出て行ったことは嬉しいことなのだ。誰かが手を差し伸べて見せてあげることが出来なかったものを、見せてくれる七海がいることもまた、時には複雑かもしれないが彼女の幸せを思う彼等からしたらきっと喜ばしいことで。







「あ、返事返ってきた」
「なんて?」



二人でスマホの画面を覗き込み短い文を読むと顔を見合わせて笑った。










『髪を切って、すぐに呪い倒しに帰るね』





「なんの報告なんだよ。せめて呪霊って言わない?」
「まぁまぁいいじゃない。いろいろ吹っ切れたって事かな。」










『それから、ありがと!』
短く添えられたその言葉は、きっと明るい声で楽しそうな笑顔で紡がれている事だろう。











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「あー!藤堂先生!!」
「久しぶり!悠仁!」
「髪切ってる!可愛い!」
「えー、ありがと、野薔薇。切りすぎたかな」

約二週間弱の休暇を終えて高専に久しぶりに足を踏み入れれば、寮から教室に向かっていた教え子たちに会った。嬉しそうに遠くから手を振ってくれていた悠仁。変化に敏感な野薔薇はすぐにベリーショートまで切った髪を褒めてくれて、恵は控えめに挨拶をしてくれる。




「はい、これお土産ね」
「なんですか?」
「なんか美味しそうなお菓子を片っ端から買ってきた。あと可愛いキーホルダーとか女子ははコスメ系好きかなって思って色々買ってきたから後で二年のみんなと山分けして」


割と大きめの紙袋二つにめいいっぱい入れたお土産。地味に重かったそれを恵に押し付けると少し嫌そうな顔をしたけど律儀にお礼を伝えてくれる。




「どうだった!?ハワイ!楽しかった?」
「ねぇ、後で写真見せてね!」
「うん、わかったわかった。みんなこそ任務とかどうだった?話聞かせてね」
「五条先生の愚痴もありですか?」
「ははっ!もちろん、」



生徒たちとのお喋りに花を咲かせていれば、後ろから猫の鳴き声がする。振り返るともちろんその声の主は猫瓏で、きっちりと髪をセットしていつものスーツに身を包んだ建人の肩に乗っているのが見えた。








「あっ!ナナミン!!」
「「ナナミン」」
唯一、建人と面識のある悠仁が嬉しそうに手を振ると野薔薇と恵の顔があからさまに引いた顔になっていて、これは後で悠仁はあれやこれやと聞かれる事だろう。





「虎杖くん、お久しぶりです。
釘崎さんに伏黒くん、初めまして。一級呪術師の七海建人です。」

わたしたちの所まで追い付くと、猫瓏が建人の肩からわたしの肩に飛び移る。律儀に学生たちに挨拶をする建人につられるように、野薔薇と恵もきちんと挨拶を返していた。




「お土産だけ持ってご自分の荷物を置いて行ってどうするんですか。猫瓏まで置いて行くから拗ねてますよ。」
「猫瓏は建人に懐いてるから大丈夫だよ。荷物ありがとう」
「いえ。ではまた、連絡しますから。」
「はーい、いってらっしゃい。」


わたしの肩に乗る猫瓏をひと撫でして、学生たちに会釈してから立ち去る建人を見送れば強烈な視線を感じてそちらを見る。
悠仁も野薔薇も恵も、顔に「どういうこと」と書かれていて思わず笑ってしまう。










「じゃあ、改めて挨拶しよっか。」
並んで立つ三人と向かい合うように立ってから、少しだけ姿勢を正してみる。








「七海 可憐、一級呪術師。

術式は水蕾瓏明、天与呪縛の影響で記憶に制限をされる事があります。特に人と居場所に関して制限される事が多いです。

なので、もしわたしが何かを忘れていたら教えてくれたら嬉しいです。

何かを忘れがちなわたしだけど、みんなの事を誰よりも見て、育ててあげたいと思っているので、改めて宜しくね。」





「それから、」








「これからどんな選択をしても良いから、自分で決めた事をちゃんと信じていってね。

狭い世界に拘らず、いろんな世界を見て、ちゃんと決めていくこと。わたしはそれをかならず応援する。


わかった?」









色んな人に守られて助けられて、此処までわたしは生きてきた。
これからも守られて助けられて生きていくけれど、わたしも誰かを守り助けてこれからは生きて行きたい。
制限される記憶は、もう、わたしの足枷にはなったりはしないのだから。










「「「はい!」」」
眩しいくらいに真っ直ぐな答えに嬉しくなって声を出して笑ってしまう。良い返事をしたと思えば、すぐにわたしが結婚したことや建人のことを尋問のように三人から聞かれる。それもなんだか面白くて、何から答えようか悩んでしまった。天与呪縛のことを彼らは知らなかったのに、大して気にせず建人のことの方が気になるのかとそれもなんだかおかしくなってしまった。







「先生ってさ、いろいろあったけどすごい真っ直ぐ生きてるんだね」
悠仁が何気なくそう言ったのが、不思議と腑に落ちて「そうかもね」と笑ってみたりして。










―――――――さぁ、此処からまたわたしの世界はひとつずつ広がって行くのだ。










前略、返してください


わたしの蓋をされた記憶を、どうか返してください。

でもそれが叶わないのならば、
せめて、この小さな世界を大きくしていくことを止めないで欲しい。
せめて、様々な選択をして歩いて行く道を邪魔しないで欲しい。

愛に溢れたこの世界をどうか奪わないで欲しい。


それと引き換えに、わたしの記憶ならいくらでも蓋をして構わないから。


もうわたしは、失うことも忘れることも怖くないのだから。












「ねぇ、ナナミンさんの何処が好きなの?」
「おい釘崎、お前までナナミンって呼ぶなよ。失礼だろ」
「なぁ伏黒知ってる?七海さんを何度も言うとナナミンになるんだぜ」
「えっ、じゃあわたしもナナミンってこと?」
「「「確かに。」」」















fin.



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