優しく握られた手に、約束をした。
忘れないと、貴方との眩し過ぎる時間を。

忘却の代わりに痛みを残して







七海と可憐はどちらからともなく名残惜しそうに唇を離す。七海は目に涙が残る彼女を優しく抱き上げて、寝室へ運ぶと綺麗なシーツがはられたダブルベッドに寝かせた。



七海もその隣に横になると、シーツに皺が寄る。可憐の目元に薄らと浮かぶ涙を彼が指で掬ってから大きく厚く、でも暖かい掌で彼女の頬に触れた。






「....何も、言わないの」
「..何をです?」
「思い出したのか、とか..」
「可憐さんの記憶と、私の貴方への気持ちは関係がないですから。」
「...どゆこと、?」

何処か不安げな顔で七海を見て首を傾げる可憐をそっと抱き寄せると、七海は優しく頭を撫でながら言葉を紡ぎ出す。








「可憐さんが、私との過去を覚えていてもなくても、私は変わらず貴方が好きということです。

貴方の記憶が制限されていてもいなくても、私は貴方の側にいたいと思うということです。」

ゆっくりと紡がれた七海の言葉に可憐は何も答えずに、でも彼の胸に身体をゆっくりと預ける。頭を撫でられる温もりを感じるようにそっと目を閉じた。






「大事にしてくれていたんだろうなとか、パンが好きだったなとかたまに甘いものを苦手なのに食べてくれたなとか、


断片的にはちゃんと思い出していたの。でも、さっき、ちゃんと思い出した。」


可憐がぽつりぽつりと話す言葉を七海は何も言わずに急かすでもなく静かに聞く。





「卒業式の日、わたし馬鹿みたいに泣いて強くなるって決めて、がむしゃらに頑張ってきたの。きっと、無意識に建人のことを考えないようにしてたんだと思う。」







「呪術師として生きることを辞めたいと思ったことはない。わたしはこの仕事が向いてると思うし出来る人が少ない以上、誰かを救うために強くなりたいのは本心だよ。

だけど、」




言葉が詰まる。少しだけ身体が震える。
可憐はゆっくりと深呼吸をしてから七海の腕の中から抜け出すと起き上がり、ベッドに座る。七海も起き上がり座った。二人揃って向かい合ってベッドに座った光景に彼女は小さく笑ってからまたゆっくり話し始める。








「だけど、心の何処かで思ってた。



建人と一緒に居たかったなって。
記憶と一緒にその気持ちにもちゃんと蓋をされてたけれど。」







涙が溢れてしまわない様に可憐は一瞬上を向いてそれを誤魔化してから、少しだけ困った様な顔で、真剣な顔をしている七海のことを見た。ちゃんと見れていなかった、お風呂上がりでヘアセットが崩れ、シャツタイプの触り心地の良い黒いパジャマを着ている彼がどことなく幼く見えて可憐が小さく笑えば、七海の眉間に皺が寄る。






「...顔、怖いよ」
「人の顔見て笑うからでしょう。」
「せっかく、塩らしいこと言ったのに」
「そういうのは自分で言うことではありませんよ。」
「えー...ロケットペンダント、ちゃんとずっとお守りにしていたよ。塩らしいでしょ?まぁ...建人がくれたって忘れてたけど、」
「ふ、それは光栄です」

僅かに目にかかる前髪が鬱陶しいのか七海が髪をかきあげて、小さく笑う。可憐はベッドの上で膝立ちになると七海にそっと抱き着いた。








「...もしかしたらまた忘れるかもしれないけれど。


わたしと、もう一度付き合ってくれますか?」

七海の首元に顔を埋めて囁かれる告白。華奢だけど鍛えられ程よく筋肉がついた可憐の背中に七海は片手を回すと、優しくトントンと叩く。












「....お断りします。」
そう言って可憐のことを優しくベッドに組み敷くと、彼女の両手を顔の横で握る。絡められ握られた指はまるで可憐の細く白い指をシーツに縫い付けるようで。でもとても優しくて。




「..建人?」
ほんの僅かに不安の色がついた声で何も言わない七海を彼女は見つめる。

















「私と、結婚して頂けますか?」
二人の目が真っ直ぐに合う。互いの瞳にはお互いしか映っていなくて世界には自分たちしかいない様な錯覚に陥る。


「.....ずるい。」
「指輪の用意が出来ていないので、今度の休みに一緒に買いに行くということで許して頂けたら幸いなのですが。」




真剣な顔をする七海に可憐は悪戯をする子供の様に無邪気に笑う。



「わたし、わがままだし、頑固だし、眠いと多分不機嫌になるし、お腹空いてると元気なくなるし、連絡とかマメじゃないよ」
「..ええ、知ってます。」

「それにもしかしたら、迷子になったり何かをすぐ忘れたりもするかもしれないよ」
「そうですね。」




「それでも..いいの?」
少しだけ不安そうに、手探りで何かを探すように問いかける。





「問題ありませんよ。

知らないことがまだあるかもしれません。それはお互いに知っていけばいいことです。

忘れてしまったことは、また知って覚えたらいいですし、何度だって教えて差し上げますから。」




指を絡めて可憐の手を握る七海の手に少しだけ力が入る。それに応えるように彼女もまたその手を握り返した。










「わたしと一緒に、幸せになって下さい。」
「ええ、もちろん...喜んで。」






互いの熱を確かめる様に口付けをする。溶けてしまいそうなほどに熱いそれは、離れて失っていた時間を取り戻すかの様で。酸素が足りなくなって、唇を離すと火照った目が交差する。可憐は七海の首に腕を回し抱き着くと、彼もまたそれに答えて優しく彼女を包み込む。







「....可憐、」「..ん?」



「愛しています。」












----------今度こそ忘れない。
この温もりも優しい声も、はじめて敬称なしで名前を呼ばれただけで、高鳴る胸の音も。それ程までに、切なくなるほどに苦しいほどに彼を好きな気持ちを。



たとえ、また忘れてしまっても、わたしはまたきっと貴方に恋をする。














-------------












「やっぱりさ、別に引越ししなくてもよくない?」
「よくありませんよ。学長との約束でしょう。」
「建人の家、高専から遠いわけじゃなかったのに」


七海からのプロポーズから一ヶ月後。二人は揃って真新しい家具が並び、開けられていない段ボールが無数に置かれたままで、まだ生活感のない綺麗なマンションのリビングにいた。

二人揃って休みのこの日、七海はベージュのスラックスにネイビーのケーブル編みになっているセーターを合わせ、可憐は黒いパンツにカーキのハイネックのセーターを着ている。






可憐を取り巻く環境は大きく変化はしていない。
・単独での任務は行わないこと
・五条か夏油と共に任務に向かうこと
・移動等も含め一人では行動しないこと
まるで子供の様だと、条件を改めて提示した夜蛾に彼女は悪たれをついたが、そこに一つ追加されたことがある。



・高専で行われる授業に関してのみ単独で行うことを許可する





そして、七海との結婚を聞いた夜蛾は高専から歩いて通える範囲に引っ越すことを提案したのだ。
高専から近い場所に住んでいれば、原則一人で帰宅することはなくても何かあった時に誰かが駆けつけることや家までの送迎も容易いという理由だった。七海が家を開ける場合は、家入が家に泊まることも可能だろうし何かと人手不足の高専に置いては近くに家があると言うだけで彼女のサポートをしやすくなるのだ。夜蛾は可憐が自ら望んだことを万全の体制で叶えてやりたいと考えていた。そして、今後記憶の制限に変化が起きた場合、一人で帰宅することも可能になるだろうという夜蛾の少々わかりにくい優しさがこめられた提案である。








「なんで学長に結婚のこと伝えた時、もはや父親への挨拶みたいなノリだったの?」
「父親代わりみたいなものでしょう。」
「学長涙ぐんでたね」
「え、本当ですか」
「あれはきてたよ」



まだまた新しいソファは、少しだけ明るいブラウンの革張りのものでそこに可憐は腰掛けると大きな窓の外を見つめる。
このリビングにはかなり大きな窓があり、開放的なデザインでそれを彼女はとても気に入っていた。十階ということもあり、カーテンも付けてはあるが昼間はカーテンは開けたままで問題なさそうだ。






「それにしても、わたしが傑と京都に一泊で任務に行ってる間に引っ越しって終わるものなんだね。」
「段ボールの山がまだ目の前にありますけどね。
まぁ..荷物はどちらも少ない方ですし、家具は買い換えましたから。そこまで大変じゃありませんでしたよ。」
「伊地知くん、手伝ってくれたんでしょう?」
「ええ、業者の手配もしてくれました。」
「なんて優秀な後輩なんだ、」



リビングにあるキッチンは前の家と同じアイランドキッチンで、七海は一人暮らしで一枚ずつしかなかった皿を一通り買い直した。数は少ないが厳選された皿とカトラリーは全てペアで用意されている。まだ包装されたままの皿を包む薄紙を剥がす彼を見て思い出した様に可憐は自分の小さな黒い巾着の様な形をしたショルダーバッグから手のひらサイズの白い紙袋と先程受け取ったこの家の二つの鍵を取り出した。





「建人、ペンケース貸して」
「はい?」
「いーから、早く。」
「そこの私のカバンに入っていますから勝手に出してください。」
「あっ、これか。」
ソファの近くにあったカバンから御目当てのペンケースを取り出す。それからペンケースについた小さな小鳥のキーホルダーを外した。



「何を?」
七海が隣に座り彼女に聞く。しかし可憐は何も答えずに白い紙袋の中身を取り出す。




「じゃじゃーん!」
「....これは。」
「深草うずらの吉兆くん。の女の子バージョン!」

七海のペンケースに付いていたキーホルダーは茶色で頬がピンクの鳥。可憐が紙袋から取り出したのは殆どそれと同じ鳥だがちょこんと小さなリボンが付いていた。




「わたしがこれ建人にあげたんでしょう?この一緒にペンケースについてるお守りも。」
可憐は二つの鍵にそれぞれ鳥のキーホルダーを付けると、一つを七海に渡す。


「あ、新しい女の子の方がいい?」と尋ねる可憐を制してペンケースに付いていた方がついた鍵を受け取った。





「そうですよ、鳥の方は告白した日に。御守りは、卒業式の日に頂きました。」
「吉兆くんだってば。」
「...どちらでもいいでしょう。」
「リピートアフターミー、吉兆くん!」
「...可憐」
「ゆるキャラにだってアイデンティティがあるの。名前は呼んであげなきゃ可哀想でしょ」
「...吉兆くん。」
「よし!合格!」

隣の七海の髪を撫でようとしたのを寸前で手首を掴まれ制される。不服そうな顔をすると、そのまま手首を引かれて軽く口付けをされた。








「...建人ってさ、むっつりだよね」
「そんなことないでしょう。」
「そして性欲強いタイプ。」
「真っ昼間から押し倒されたいんですか」
「やだ。」
「でしたら片付け手伝ってください。」
「はぁい。」
軽く溜息をついて先に立ち上がった七海を見上げて可憐は嬉しそうに笑う。





「ねぇ、吉兆くんもお守りも、大切にしててくれてありがとう」



「...いえ、私が好きでしていたことですから。」
「建人ってさ、一途なんだね」
「...誰かさんのせいで駄目になった恋愛しかありませんよ。」
「あははっ、ごめんて、そんな怖い顔しないで」

七海の隣に立つと、可憐は腕につけていたヘアゴムで長い髪を高く結びあげた。





「片付けよっか。」
「ええ、とっとと終わらせましょう。」


「あっ、ねぇ、学長が言ってたお休みはわたしへの結婚のお祝いだと思う?」


ふと思い出した様に可憐は夜蛾に言われたことについて七海に問いかける。





『二人とも任務や授業が落ち着いたタイミングで長期の休みを取っていい。
好きなところへ行ってこい。七海となら許可を出してやる』
それはきっと、これまで必死に生きてきた可憐への労いでもあり、狭い世界で生きてきた彼女が広い世界へと一歩を踏み出そうとしたことへの応援なのだろうか。






「長期休暇は労働者の権利ですよ」
「うわ!嫌な言い方する!」
「冗談です。」
冗談なのかそうでないのかいまいち分かりにくい表情をする七海を見て可憐は苦笑してから近くにあった段ボールを開けようと手を伸ばす。七海もそれを手伝いながら、優しく彼女に問いかけた。









「何処に行きたいですか、」
「それはもちろん、まずは海が綺麗なところでしょ。」
「了解しました。」







握られた手をもう二度と離すことはなく、見知らぬ世界へと足を踏み出してみようと思う。その時に痛みを思い出すかもしれないけれど、そんなものはまたすぐに忘れてしまうから、歩みは止めたりしないのだ。
痛みさえも忘却の彼方へ








「世界は広くて、何処へでも行けるんだもんね」
「ええ。
一緒に行ってみましょう。」






ふたりで歩き出した道のりは、まだまだ始まったばかりだ。








「ねぇ、この段ボールたち今日片付く?」
「...気張って行きましょう。」


まずは、段ボールの山から始めるらしい。


















あと2.3話で終わりです。
ちなみに前回の長編もそうですが七海さんは年上女子と付き合って欲しい願望がわたしにはあります。なんというか少し揶揄われるくらいの会話が成り立つ女性と七海さんとのバランスが好きです。
敬語キャラだからですかね、わたしのただの性癖ですかね((黙れ




ちなみに深草うずらの吉兆くんは実在しますが女の子バージョンは私の妄想です。吉兆くん可愛いんですよ。



読んでくださりありがとうございました!
感想等もお待ちしております!



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