メインの水槽がよく見えるレストランで軽めの昼食を済ませてから、外にある大きなプールで行われるイルカのショーを見た。そのあとも、館内マップを見ながら可憐さんはあっちに行きたい、こっちに行きたいと要望を私に教えてくれてそれに従い広い施設を一つ一つ回る。工夫を凝らした様々な展示をとても楽しそうに見る彼女を見ているだけで正直飽きなかった。




しかし、11時過ぎに到着してから5時間ほどが経った頃彼女の様子に違和感を覚えた。冬という季節のせいもあり、時間としてはまだ早いが日が落ち始めた頃、少し口数が減り顔色が悪くなっていた可憐をベンチへ誘導し、隣に座り背中を摩る。彼女は自分の膝に肘をつき顔を両手で覆い苦しそうに呼吸をする。






「.....ちょっとだけ、まって」
呼吸の間に苦しそうに言われた言葉。一瞬だけ顔を上げた時目に涙が溜まっているのがわかった。何も言わずにゆっくりと背中を摩ると、少しずつ呼吸が整ってくる。






慣れないどころか初めての場所や環境は、楽しいという気持ちとは裏腹に彼女を少しずつ苦しめていたのかもしれない。自分の居場所が分からなくなるという感覚を理解することはできないが、恐怖と気持ち悪さが共存しているらしいと夏油さんから話を聞いたことがある。それらが彼女の事を襲わないように制限された世界を作ったのは正しかったのかもしれないと、目の前で苦しそうな可憐さんを見ると思ってしまう。









―――――――エゴだったのだろうか。

世界は広くて、誰でも何処にだって行けると伝えて彼女が望むなら何処へでも連れていこうと思っていた。でもそれは間違いなく彼女をこうして苦しめることに繋がるのだ。














「...後悔してる?」
少しだけ顔色が良くなった可憐さんが顔を上げてこちらを見る。涙が溜まった目があまりに真っ直ぐで、全てを見透かされている感じがした。


「......ほんの、少し。」
「ははっ素直、」
「...すいません。」





「足元がね、ぐらぐらして何処かに落ちて行くような感じがして、逃げたいのに何処に行けばいいかわからなくなるの。


それで、だんだん何かに酔ってるみたいに気持ち悪くなる。」

「厄介でしょう?」と苦笑しながらも、明るい声で彼女は話す。この人はいつもそうだ、こちらの考えをすぐに見通して求めていた答えを教えてくれる。それが時に心苦しい時もあるのも事実だ。




「.....そう、なんですか。」
「でもね、それだけなの。本当にそれだけ。」
「..え?」
「少ししたら落ち着くし、大丈夫なの。」




少し寂しそうに紡がれた「大丈夫」の言葉が引っかかる。何も言わずにいると彼女は笑って隣に座る私に寄り掛かった。








「だから、連れ出してくれていいの。
それで、背中さすってくれたらそれで大丈夫だから。」
彼女から私の手を握る。少し指先が冷たい手を強く握り返せば、寄り掛かったままこちらを少し見て笑う可憐さんと目が合った。





「もう、落ち着きましたか?」
「ちょっとくらくらするけど大丈夫、」
「でしたら..少し休んでからまた見たい所があれば、行きましょう。」
「..んー、ううん。今日はもう帰ろ、」
「わかりました、沢山見ましたもんね。」
「うん、ありがとう。」



「ねぇねぇ、あと一つ行きたいところあった」
「何処ですか?」
「....建人の家。」


想像もしてなかったその言葉に驚いたように可憐さんを見れば、彼女もまた恥ずかしそうに瞬きをしてから目を逸らしたのでつい笑ってしまった。








当たり前の現実を変えてしまえたらいいのに
春のない世界で生きるということ










出口の近くにあったお土産売り場で、可憐はイルカの少しだけ大きめのぬいぐるみを買った。ふわふわの触り心地が気に入ったらしく、それを助手席で抱き締めたまま眠ってしまった。
七海の自宅であるマンションの駐車場で、彼に起こされるとすぐに目を覚まし車を降りる。バックとコートとぬいぐるみを持つ彼女に七海が小さく笑って、バックとコートを持ってあげれば可憐はぬいぐるみを大切そうに抱き締めて彼の後ろを着いて歩いた。



十五階建てというマンションの五階に七海の部屋はあり、一人で暮らすには広すぎるその部屋は、玄関のドアを開け廊下を進めば広めのリビングがありアイランドキッチンが備え付けられている。最低限の家電しかそこには並べられていないがとても整理されていて美しい。小さめのテーブルと椅子がニ脚置かれていて、黒いレザーのソファは三人は余裕で座れそうなゆったりしたものだ。その近くには小さな木でできたテーブルがありその上にはスタンドと本が一冊無造作に置かれている。





リビングに案内し、七海は荷物をソファに置くが、可憐は未だリビングの入り口で立ったままだ。不思議に思い七海が声をかける。

「大丈夫ですか?」
「え、あっ大丈夫。」
「どうしました?」
「なんかさ高専って、モテる男のインテリア講座とかそういうのやってるの?」
「...は?」
「傑もなんだけどさ、部屋から漂ようモテる男感がすごい。わたし、もし灰原もこういう部屋に住んでたら泣く」
「...何を真剣な顔で言ってるんですか」
「お洒落な部屋だなーって、モテそうだなーーって思っただけ」
「可憐さんしか入ったことありませんからモテるかどうかはわかりませんね。」
「..まじ?」
「ええ。
あぁ、そうだ。夕飯はどうしますか?あるもので作る感じになってしまいますが。」
「わたし作ろうか?」
「いえ、今日は私が作りますよ。座っていて下さい。」
「いえっさー」



七海は目をぱちくりさせる彼女を尻目に、キッチンで手を洗うと冷蔵庫を開ける。可憐も一度イルカを小さめのテーブルに置くと彼に倣って手を洗った。七海が冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し彼女に渡す。それを受け取り可憐はキッチンがよく見える小さめのテーブルの傍にある椅子に腰掛けた。








「得意料理は?」
「何でしょうね、パスタが楽なのでよく作りますかね。可憐さんは?」
「わたしは肉じゃがが得意だよ!なんかベタでおもしろいでしょ」
「ベタですか?」
「なんかさ、花嫁修行感ない?」
「ああ、なるほど。ではどうして肉じゃがを?」
「自分が好きな食べ物なの」
「そういうことでしたか。」
「建人のご飯楽しみだなぁ」
「好きになって頂く努力中ですので、肉じゃがを作れたら良かったのですが。」
「あははっ、建人と肉じゃがはなんか似合わなくて面白いね」

冷蔵庫から材料を手際よく取り出しながら七海は小さく笑いながら話す。そんな彼を可憐は頬杖をついて見る。






「明日はお休み?」
「はい、久しぶりの連休です。」
「そっか。わたしは午後から授業なの」
「そうなんですね、では明日は高専まで送って行きます。」
「....ん?」
「なんです?」
「....ん?」
「泊まって行くのでは?」
「.....うわぁ...」

あまりに余裕の笑顔の七海と目が合い可憐は恥ずかしくなってイルカに顔を埋めた。それからそのまま「泊まります」と消えそうな声で答える。






「硝子に連絡しよ、」
「夕飯まで時間まだかかるので、先にお風呂入りますか?シャワーだけでも。」
「...入ります。場所だけ教えてほしい」
「勿論です。」
「あとパジャマ貸してください、」
「かなり大きいと思いますが、良いですか?」
「あっ!」


可憐は家入に持たされたお泊まりセットのことを思い出す。小さな巾着に収まる持ち運び用のパジャマを家入が渡してくれていたのだ。外泊する気満々だったと思われる気がしてとても恥ずかしそうに「パジャマ大丈夫です」と申請すれば、不思議そうな顔をしていた七海が珍しく声を出して小さく笑った。






「いや!その!これはその硝子が..パジャマとか洗顔とかいろいろと...」
「無理矢理外泊するセットを持たせたとか、その辺りでしょう?」
「....御名答です。」
「女性は何かと必要なものが多いですからね。」
「恐れいります...」
「流石にバスタオルは持っていないですか?」
「持ってません..」


恥ずかしさでまともに七海の方を見れない可憐はソファの近くに置いてあった自分のバックから家入から渡されたお泊まりセット取り出す。
そんな彼女を七海は風呂場まで案内する。湯船には入らずシャワーを浴びると伝えれば、触り心地の良いタオルを渡された。





「ドライヤー等も好きに使って下さい。全て終わったら呼んでもらえたら迎えにきます。」
「...リビングから?」
「ええ、念のため。」
「..ありがとう」

可憐は七海の優しさに過保護過ぎると言おうとしたがその言葉を飲み込んだ。脱衣場と洗面所が一緒になっているので、ドライヤーの場所などを七海は教えてからリビングへと戻った。










それから一時間も経たずに、ドライヤーで乾かした長い髪を下ろしたまま、ネイビーのシャツタイプのパジャマを着た可憐は廊下へ続く扉を開けて、恐る恐る七海の名前を呼び静かにドアを閉める。さすがにリビングに行くだけなら大丈夫だろうと思いつつも、彼の提案に甘えてしまう。程なくしてリビングから物音がして可憐の目の前の扉が開く。




「髪、伸びましたね。」
日中は結ばれていた少しだけカールがかかり僅かに茶色の彼女の髪。お風呂上がりで下ろしていると普段よりもカールが強くなり、メイクもしていないせいか少しだけ幼い印象になる。そんな可憐を見て七海は優しく頭を撫でてから微笑んだ。それから彼女が手に持っていたバスタオルを取り、乾き切っていない髪をそのタオルで優しく拭いてやる。くすぐったそうな顔をする可憐と目が合えば、彼女は「お腹すいた、」と子供のように呟いた。



「ご飯出来ていますよ。グラタンお好きですか?」
「うん!好き!」








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「家入さんから連絡が来て、外泊のこと伝えておきました。」
「え、ほんと!ありがと、」
「いえ。明日高専に送ることも伝えてあります。」
「抜かりなし!さすがです。」


七海が作ったグラタンは、余っていた野菜と挽肉を炒めてホワイトソースとチーズをかけて焼いたもので、シンプルなグラタン皿に入れられて一人ずつ置かれている。それから薄く切られたフランスパンと、トマトのサラダが大きめの皿に載せられテーブルの真ん中に置かれていた。

「料理までお洒落」と揶揄うように喜んだ可憐は嬉しそうにそれを食べる。そんな様子を見ながら七海もまた表情を緩めた。

細身とは言えかなり肉体派な戦い方もする可憐ももちろん七海も、食べる量は比較的多い方で食事はお酒がなかったこともありあっという間に平らげてしまう。








「わたし、洗い物するからお風呂入ってきたら?」
「大丈夫ですか?」
「お皿しまうのは場所わからないから、お皿拭くタオルがあればそれと、スポンジとか洗う物で分けてたりしたら教えてくれたら出来るかな」
「いえ、そうではなく、」
「ああ!大丈夫だよ、この部屋から出ないしだいぶ慣れてきてるから。ゆっくり入ってきて?」
「..わかりました、ではお願いします。」



七海は食器拭き用のタオルなどの場所を教えてから風呂に向かったのを見送ってから可憐はテーブルから空いたお皿をキッチンに運び腕捲りをして洗い物を始める。
初めて入った七海の家でもくもくと洗い物をする状況に可憐は小さく笑ってしまう。それと同時になんだか嬉しいような恥ずかしいような、少しだけくすぐったい様な不思議な気持ちが彼女の中に溢れ出す。

洗い物を終えてたまたまキッチンに出したままになっていたバケットに塗ったのであろうバターを冷蔵庫に入れようと扉に手をかけた時、そこに貼られたポストカードが目に入った。









美しい海のような景色が描かれた美しい碧色のポストカード。

それを見て、可憐は自分が大切にしている一枚のポストカードを思い出す。
ずっとどうしてか手帳に挟んであって、夏油の家にいる時はいつでも見える様にとドレッサーに置いていて、今はまた手帳に挟んで持ち歩いているポストカード。
美しい碧色が好きで、何処で買ったのかも覚えてなかったけどずっと可憐が大切にしているそのポストカードと同じポストカードがそこに貼られていた。

シルバーの冷蔵庫の扉には無駄なものは何も貼っていないのに、何故かその碧色だけが貼られていて。その碧に吸い込まれそうになる。





















「...そっか、そういうことか。」

冷蔵庫の扉を見つめたまま呟く可憐の目から静かに涙が零れ落ちる。その涙をそのままに、右手で空気を掴み掌をゆっくりと開く。そこにはいつも通り小さな氷の粒が無数に出来ていた。何度かそれを繰り返し可憐は呪力が失われていないことを確認する。



それから一度深く深呼吸して、頬を伝う涙を拭いてもその涙が止まることはなかった。








―――――――わたしの記憶は消えたのではない、蓋をされてしまって制限されているだけなのだ。



だから、きっと何かのタイミングで思い出すことがあるかもしれないと思っていた。人の記憶というものは木の枝の様に繋がっている。だから、何か一つ思い出せば、連なって様々なことを思い出すかもしれないと、自分を勇気付ける為に何度もそう考えていたのに。









「...ずっと、忘れたくなかったんだよ、本当だよ。」

息を吹きかけたら消えてしまいそうな小さく儚い誰に向けたわけでもない呟きは、すぐに何処かへ溶けてしまった。










「...ほんとに、本当なの、」


―――――――忘れたくないのに忘れてしまうであろう現実から目を背けて、強くなる為に必死になって。小さな世界の中で守られて、それでも幸せだと信じて、強くなることを選んできた。





それは本当に自分で選んだ道。それだけは間違いないけれど、突然脳内に溢れ出た甘くて少し切ない彼との記憶はわたしのたった一つの我儘を思い出させた。











「.....ずっと、一緒に居たかった。」






貴方が何処に行ったとしても、どんな生き方を選んだとしても、わたしはずっと、隣に居たかった。一緒に歩いて行きたかったのだ。












貴方の居ない世界は、そう、まるでいつまでも春の来ない世界のようで。
春を探しに






 




「....可憐さん?」

力が抜けた様に冷蔵庫の前でしゃがみ込んでしまっていた彼女をお風呂から戻った七海が見つけると、優しく壊れてしまわないように後ろから抱き締めた。



自分を突然包み込んだ温もりに、可憐は一瞬だけ身体を強張らせるがするりと身体を向き替えて彼の首に腕を回す。











「....ずっと、会いたかった。」


その言葉に七海は何も答えずに、優しく、でも熱く、まるで何かを取り戻すかのように、何かを確かめるかのように深い口付けをした。

























はい、七海さんとのデート回後半戦。
おうちデートからの記憶が戻ってくるという..ね。ずっと何かのきっかけで七海さんとの恋人時代を思い出させてあげたいと思いつつ、なかなか難しかったのですが、ポストカードがきっかけになりました。

彼女にお土産で買ったポストカードと同じポストカードを密かに買っていた高専時代七海くんも萌えですが、それを冷蔵庫に貼っている大人七海さんもなかなか可愛いと個人的には思っております((どうしよう引かれたら


記憶が戻った時、すんなり彼女は受け入れたというよりは、逆に冷静になっているという表現が正しいかなと思います。自分の中ですとんと何かが落ちた様なそんなイメージです。記憶が戻った時に呪力を確認しているあたりが、真面目でいい子だなぁと思ってます。笑



あとがきが長いですね。笑
あと少しお付き合い頂けたらなと思いますのでよろしくお願い申し上げます。



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