上を見上げる。見上げた先はずっと青くて、まるで海の中に立っているかのような錯覚に陥る。ずっとずっと高いところまである大きな水槽の中に、様々な魚達が泳いでいて、自分までその一部になった気がした。


ふと手を真上に伸ばしてみる。何かを掴める様な気がしたけどそんなはずもなく、空気を掴めばその中にあるわずな水分がわたしの掌の中で小さな氷になった。もし、わたしが海の中に入ったら周りから凍ってしまうのだろうか、そしたらそこにいる魚達はどうなってしまうんだろうか。




「綺麗、」
見たことのない大きな水槽や、たくさんの海で生きているであろう生き物たち。少し薄暗いその場所は、やはり海の中に潜り込んだ様な気分になる。入ったことはないけれど、きっと海の底は暗くて少しだけ光が入ってくる様な気がするから。










見えない道を探してみたり
あなたを辿り恋をした










高専まで七海が迎えにきてくれたのはまだ十時過ぎくらいで、車で来た彼に驚くが助手席に誘導された。校舎の入り口まで送ってくれた硝子がニヤニヤしながら手を振っていて、念のためと彼女に渡されたお泊まりセットは、茶色のレザーで作られた少しだけ大きめのトートバックの奥の方に詰め込まれている。



昨日デート着を買いに行くかと誘われたけれど、結局行かずに細身のジーンズにゆったりとした白いニットを着ていつも着ているチャコールグレーのチェスターコートを羽織った。足元は歩くことが多いだろうから赤いスニーカーを選んだ。硝子にはデートっぽくないと言われたけれど、このくらいがちょうどいい気がした。






「私服、珍しいね」
「休みですから。」

七海は、コートを後部座席に置いていて、細身のグレーのスラックスに暗いブルーのハイネックのニットを合わせていて、目元はいつもの特徴的なサングラスではなく薄く色のついた眼鏡をしていた。






「可憐さんも、新鮮ですね。私服。」
「いつも黒っぽいのばかりだから白の着てると余計そうかも」
「それはありますね。」
「あっ、そうだ。カフェラテありがとう」
「いえ。冷めてないといいのですが。」

車に乗り込むときに、来る途中に買って来たのであろう珈琲ショップの紙袋を渡されてその中にはホットのドリンクが二つ入っていて、ブラック珈琲とカフェラテだった。七海に珈琲を渡すとドリンクホルダーに慣れた手つきで入れていたが、わたしは温かいそれを両手で持ったまま助手席に座っている。







「眠かったら寝ていいですよ。一時間ほどで着くかと思います。」
「えっ、そんなに眠そう?」
「そういう訳ではありませんが、移動中によく寝ているイメージなので。」
「..ひっ。」
「なのでお気になさらず。」
「急にどこにいるか分からなくなるのが気持ち悪くて、任務に影響すると嫌だから新幹線とか車とか寝てるけど、七海と話せるし今は寝なくても大丈夫。」
「でしたら..話をしましょう。」



運転席の七海の横顔が少しだけ緩んだ気がしてなんだか嬉しくなる。わたしはかつて何度隣でこの横顔を見ていたのだろうかと考える。答えは出ないけれど、不思議と彼の声も表情もどこか懐かしくて安心する。









「あっ、そうだ。もし嫌じゃなければ...建人って、呼んでもいい?」
カフェラテを口に運びながら、少しだけ遠慮がちに聞いてみた。赤信号でゆっくりと止まる車。彼がこちらを見て優しく小さく笑った。


「もちろんですよ」

照れたようだけど、余裕があるような。
歳下だけど歳上のような、でもやっぱり何処かあどけない気もして歳下のような。

きっと、昔のわたしはそんな彼を好きになったんだろうなと考える。その答えはわからないけれど、昔の彼の表情を見てみたいと思った。








-そして、その時のわたしに聞いてみるのだ。彼の何処を好きになったの、と。










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高専から車で一時間ほど走り、到着した水族館は可憐の予想より広かったのか、駐車場から七海の後ろをついて行きチケットを買う彼を待つ間、入場口の前で目をぱちぱちとさせながら広そうな施設を見上げていた。



「可憐さん、行きましょうか。」
七海に声をかけられ振り返る。チケットを一枚渡されそれを受け取ると礼を伝えた。まだ見慣れない場所にそわそわしている彼女を急かすでもなく七海は小さく背中に手を回す。ベージュの丈の長いコートを羽織った彼の手は優しくて、可憐は小さく呼吸をしてからゆっくりと歩き出す。






「大きいんだね、水族館て」
「此処はイルカのショーや、触れ合いが出来るエリアもあるので広い部類に入ると思いますよ」
「そうなんだ、建人は来たことある?」
「此処は初めてですが、子供の頃水族館は行ったことありますよ。」
「えー、会社員時代のデートは?」
「そんな時間はありませんでしたから。」
「そっか。
あ、そういえばなんで水族館だったの?」
「海も考えたんです、冬の海は寒いですが美しいので。でも、車で行ける範囲の海はそこまで綺麗とは言えないので海は取っておこうかと。」
「取っておく。」
「ええ、私は可憐さんと行きたい所でしたら幾らでもありますから。」
「.....建人って、モテた?」
「...それなりには。」
「うわっ否定しない系男子此処にもいた」
「..それ他に誰なんですか」
「悟と傑」
「....なるほど。」
「めっちゃ不本意そうじゃん」
「お二人のそういうのとはまた違うかと」
「ははっ、そっか、」






話しながら足を踏み入れた水族館は床が少しだけカーペットのようになっていて柔らかい。足元の感触が変わったことに少しだけ可憐が驚く。彼女は初めて足を踏み入れる場所では、何処から自分が来たのかがわからなくなってしまう傾向が強い。
最近身を寄せた家入の家でも何度かその症状は出ていたが、時が経つにつれて落ち着き、今では家の中で迷うことはないという事を七海は家入から聞いていた。
その事をもちろん把握している七海は、そっと手を背中に回すことで彼女が落ち着いていられるようにしているのだろう。
少し呼吸が速くなっていることや、身体が僅かに震えているのがわかれば、ゆっくりと背中を優しくさすった。










「好きな魚、いる?」
「そうですね..大きな魚が泳いでいる姿は美しいなと思います。なかなか見れるものでもないので」
「じゃあすごく大きい魚がいるといいねぇ」
「可憐さんは?」
「んー..イルカかなぁ。魚ではないけど」
「そしたら、昼食を食べた後午後のショー見に行きましょう。」
「行く!」



子供のように無邪気に笑う可憐の目の奥に少し見え隠れする怯えた表情や、ほんの僅かに震える手が、少しでも和らぐようにと七海は背中に回していた手でそっと彼女の手を握る。その事に少しだけ可憐は驚いたようだったが、自分の右側に立った七海を見上げて恥ずかしそうに笑った。







平日の昼間ということもあり、水族館の中は人もまばらでどの水槽もゆっくりと見ることが出来た。小さくカラフルな魚がいる水槽をひとつひとつ楽しそうに見る可憐は、七海と繋いだ手を離そうとはしなかった。屈んで魚を見てみたり、見ていたと思えば違う水槽に行こうとする彼女に七海は若干振り回されているが、彼の表情も時折少年のように楽しそうなのは気のせいではないだろう。




メインの水槽は、天井まで届くような大きなものでその中には大小さまざまな魚達が回遊している。その水槽の目の前に手を繋いだまま立つと、可憐ははしゃぐのかと思いきや静かに高く伸びている水槽を見上げた。


「海、潜ったことある?」
「ええ、ありますよ。」
「じゃあ、海の中に潜って上を見上げたらこんな感じ?」


暗く青い世界に、上から降り注ぐ光はとても美しくて儚い。きっと海に深く潜り上を見上げたら、もっと光は美しいのかもしれない。その周りを魚が泳いでいたら、きっと自分も魚になったような気持ちになれるのだろう。








「どうでしょう、海の底まで行って立って見上げたらこんな感じかもしれませんね。」
「海の底かぁ」
「流石にそこまで潜ったことはないので、なんとも言えませんが。」
「そしたら、今わたしたちは海底にいるのかもしれないね」

一つ七海より歳上の可憐はたまに子供のような事を真面目な顔をして言う。そんなところは、きっと昔から変わっていなくて七海は懐かしさから小さく笑えば不思議そうな顔をする彼女と目が合った。






「可憐さんは、昔から変わりませんね」
「えっ、なにが?」
「子供と大人が共存しているところです。」
「ははっ、なにそれ。褒めてる?」
「褒めていますよ」
「ならよかった。もう少し、此処見ててもいい?」
「はい、もちろんです。」


手を握ったまま、可憐はまた水槽を見上げた。






「此処にいる全部の生き物にちゃんと名前があるんだよね」
「きっと聞いたこともないような名前の魚もいるかもしれませんよ」
「ねぇねぇ!あの少し大きくて顔が怖い魚、学長に似てない?」
「...確かに。」
「あっちの細長い魚は伊地知くんに似てるし、奥の方にいるゆっくり泳いでる綺麗な白い魚は硝子に似てる、」
「でしたら、上の方で二匹で泳いでいる少し大きめの魚は五条さんと夏油さんに見えますね」
「建人みたいな魚いないかなぁ、眉間に皺が寄ってて七三にわけてる」
「そんな魚いる訳ないでしょう。」
「わからないじゃない、海は広いんだよ?」
「そういう事じゃありませんよ。」



子供のようにキラキラした目で水槽の中の魚たちを追う可憐を七海は隣で見て少し安心する。楽しそうな彼女を見れたことが彼はとても嬉しいのだ。












「...忘れないといいな、」

一瞬、七海の手を握る彼女の手に力が入った。小さな呟きは気泡のように静かに弾けて消える。でも七海の耳にはちゃんと届いていて、少し強く握られた手を握り返す。






「また見たくなったら、また一緒に来ましょう。何度だって、来ましょう。

忘れても、また来れば良いだけの事ですよ。」
「また来ればいい、か。」
「ええ。」
「....建人は?」
「..え?」
「貴方を忘れたら...わたしはどうしたらいい?」



僅かに震える声で、でもいつも通り明るく振る舞おうとして。少しだけアンバランスな声で可憐は水槽を見たまま七海に問いかける。その目には広々とした水槽をゆっくりと泳ぐ魚たちが映り込んでいて。七海からはよく見えない彼女の表情は、悲しげにも見えたし特にいつもと変わらなくも思えた。











「また、好きになって貰えるように努力します。なので、大丈夫ですよ。」

可憐は七海の言葉が予想外だったのか驚いたように隣を見上げる。そこには優しく微笑む彼がいた。



「....目下努力中?」
「ええ、その通りです。」
「じゃあ、これはデートだ」






「勿論です。好きな人と出掛けるのがデートと言うものでしょう?」





ブロンドの髪が、青い光に当たり、眩しくて可憐は七海の目をよく見ることが出来なかった。不意に彼が彼女の方を見て小さく笑ったと思えば、繋がれた手を離され腕を引かれる。








「.....人が見てるかも、しれないよ?」
逞しい腕の中で抱き締められる。くすぐったそうにその中から見上げて可憐が尋ねれば、額に触れるだけのキスをして七海は彼女をそっと離してまた手を繋いだ。






「見ていませんよ、」
「あっ、照れた?」
「...照れてません。」
「建人も、そういうところ昔から変わらないね」
「..覚えていないことを言わなくて良いんですよ」
「覚えているよ、華奢で髪の毛さらさらしてた建人は揶揄うとすぐ照れて、ちょっと不機嫌っぽい声出してたこと」
「その記憶は忘れて頂いても?」





「あははっ、絶対やだ」
楽しそうに笑う彼女の表情には、何かに怯える不安そうな色も、無意識に震えてしまいそうな恐怖の色も乗っていなかった。









「ね、あっちも見に行ってみよ」
「恐らくレストランもあると思うので昼食もそろそろ食べましょうか」
「賛成!」
握った手を引き先に可憐が歩き出す。少しだけ顔が紅い七海を見て、彼女の足取りは嬉しそうだ。









-----------きっと、昔のわたしは、さりげなくてあたたかい彼の優しさに、恋をしたのかもしれない。











こころの形を覚えていますか
何処かに残る写真のように








知らない間に、身体の小さな震えは収まっていた。代わりに、どうしてか心臓の音がうるさくて、繋いだ手から彼に聞こえてしまうのではないかと少しだけ不安になったけれど、その手を離すことはしたくなかった。






















はい、水族館デートでした!
一応デートは前半戦なのでもう一回七海さんとデート回の予定です。

久しぶりに七海さんとのお話を書いた気がします、楽しかったなぁ。笑




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