「久しぶりだね、七海」
「そうですね。お久しぶりです。」




グラウンドでは学生たちと五条さん、それから可憐さんが体術の授業をしていた。五条さんも可憐さんも術式を使っているため、学生たちはかなり苦戦している。それでもあの二人は実力の一割ほども出していないだろう。そんなグラウンドの様子が見渡せる校舎前に、夏油さんと並んで立つ。


今日は高専で報告書の作成などの事務作業に来ていて、夏油さんは休みだそうだが可憐さんが高専で授業をするのに着いてきていたらしい。教員室でたまたま会い、話をしようと誘われた。









「最近はどう?一級に上がったんだろう?」
「ええ。お陰様で。」
「あはは、何もしていないよ。」



夏油さんは一つ上の先輩たちの中でも、一番後輩を気にかけてくれる人なのは学生時代から変わらない。教職をしている灰原は夏油さんに昔から懐いていて、今でもよく相談すると言っていたし、可憐さんも五条さんと揉めた時によく夏油さんに告げ口をしていた気がする。個性豊かな一つ上の先輩たちの中で、夏油さんは何処か父親の様なポジションの様だった。


地に足がついたバケモノ、と家入さんが昔夏油さんのことを揶揄していたことを不意に思い出す。実力は五条さんにも匹敵する特級で、普段の言動や行動はとても大人で落ち着いている。とは言ってもあの五条さんとやはり親友なんだなと思う面もある。しかしそれを差し引いても夏油さんの人望は厚い。








「先日、五条さんと夏油さんで特級任務に当たったと聞きました。」
「あー、あれか。さすがにちょっと骨が折れたよ。」


最近話題に上がっていた特級相当呪霊三体祓除。東京の郊外だったそうだが、それでも必要以上に被害を出さずに任務を終えたというのはさすが特級二人だと皆口を揃えていた。圧倒的な力の五条さんと、それを上手くフォローできる力を持つ夏油さんの二人が揃えば恐らく敵うモノなんていないのではないと思う。 








「...何か話があったのでは?」
世間話をしにきたではないはずなのに、なかなか本題を切り出さない夏油さんに問い掛ければ、肩をすくめて小さく笑いこちらを見る。







「七海はさ、可憐のことどう思う?」
「...どう、とは?」
「今も好き?」

その【今】というのは、恐らく天与呪縛のことを知っても尚という意味だろう。彼女は昔の自分との関係を思い出したわけではない、
それに今後また私のことを忘れる可能性だってある。しかしその逆に全てを思い出す可能性もあるかもしれない。だから、記憶のことと彼女への感情は私にとっては関係がない。だから、勿論その答えは、


「はい。」この一択に決まっている。










「それなら、よかった。」
「....何がですか?」
「可憐と別れようと思っているんだ。」







あまりに驚いて何も言えずに彼を見る。腕を組み、グラウンドを見る夏油さんの横顔は何処かすっきりしたようだった。その表情と言葉が一致していない気がして無意識に眉間に皺が寄ってしまった様で、夏油さんがこちらを見て「眉間の皺すごいな、」と苦笑する。








「....どうしてですか。」
「愛しているからだよ、」

夏油さんはよく見せる優しい表情で笑いそう言い切った。でもそこにはやはり切なさが混じっている気がして、私は何も言えなくなる。














「この狭い世界に、もう閉じ込めておくのは無理なんだ。

でも私は、この中でしか彼女を守ってあげられないからね。」



「....愛しているなら、」
「何だって出来ると、言いたいか?」

「何でも出来るとは言えません。でも、別れる必要はありますか?
可憐さんは、夏油さんのことを本当に好きだと思います。」

「可憐は私の事、とても好きでいてくれていると思う。

でもそれは、君が居なかったからなんだよ。」








夏油さんの言葉が脳内で反芻する。
もし私が呪術師を辞めなかったら、
もし彼女を連れてこの世界を出ていたら、
もし卒業式の日に別れない選択をしていたら、
もし彼女の記憶が無くならなかったら、
いまでも私の隣に彼女がいたと言うのだろうか。


可憐さんは、私が居ないから夏油さんの隣を選んだ訳ではないはずだ。誰かの代わりに誰かを選ぶ様な人ではないのだから。











「少なくとも私は、七海と可憐が付き合っている時、ふたりに幸せになって欲しいと思っていたんだよ。

七海の隣にいる時の可憐はとてもいい笑顔をしていたからね。」


あまりにも優しい声色で紡がれた言葉に、はっとして隣を見る。その表情はいつも隣にいる可憐さんを見ている時の暖かくて穏やかなもので。













「可憐がちゃんと笑えるなら、なんだっていいんだ。」
前に言われた彼の言葉を思い出す。その言葉は半分本当で半分嘘だと思っていた。でもそれは全て本当の気持ちだったのだ。












「夏油さんの幸せは、どうなるんですか」


「私はさ、呪術師として生きていくと決めた時に、その日死んでもいい様に生きていく事にしたんだよ。」





「いつ死ぬかわからないからね、生きている限りは悔いが残らない選択している。

自分の幸せなんて、後悔しないだけで十分なんだ。




でも今死んだら、可憐の事で後悔する。いろんな世界を見せてあげたかったと。」





呪術師を辞め、また戻ってきた私にも夏油さんが言う「その日死んでもいい生き方」は理解が出来る。悔いがないといつでも言い切れる生き方は、この仕事をしている以上大切だと思うし、彼女のことで後悔が残るという言葉の意味も、それがどれほどしんどいことかもよくわかる。だからこそ上手い言葉が見つからず、すぐには答えることが出来なかった。


珍しく長い髪を結んでいない夏油さんは、風に吹かれ乱れた髪をかき上げながら、グラウンドで楽しそうに授業をする可憐さんのことをきっと見て、自嘲する様に笑う。








「呪術師を続けても続けなくても、教職をやってもやらなくてもいいんだ。もっと自由にしてあげられるなら。

私は臆病だから、安全な場所にいることを選んでしまう。でも七海なら、何処へ連れ出せるだろう?」







学生時代からよく見る目を細め柔らかい笑顔でこちらを見て、夏油さんは言葉を静かに続けた。










「可憐が望むなら、連れ出してあげてくれないか。七海だから、頼めるんだ。」










固い決意のその先に
愛の下に眠るさよなら




   





「私に出来るでしょうか。」
小さく出たその言葉になぜか夏油さんは自信を持った様な顔で笑い「大丈夫だよ」と言う。








「それにさ、七海。

可憐の記憶は蓋をされているだけなんだ。忘れたわけでも消えた訳でもない。 

だから、絶対何かのきっかけで思い出すと、私は思っているよ。」

「どうして、ですか。」

「今でも髪を伸ばしているし、いつだって同じペンダントを付けているからさ。」













長い髪を短く切った彼女が悪戯に笑っていた卒業式の日を思い出す。


「本当は、長い髪の方が好き?」
「どちらも似合いますよ。」
「建人が好きなのを聞いてるの、」
「...長い方が好きですかね、どちらかと言えば」
「ははっ、そしたら短いの楽だけどまた伸ばそうかな。」




柄にもなくプレゼントに選んだロケットペンダントをとても大切そうに見て嬉しそうに、でも寂しそうに笑っていた。

「御守りにするね」















「夏油さん、ひとついいですか?」
「ん?」
「夏油さんが可憐さんを連れてこの世界から出てしまってもよかったのではないですか。」

自分より少し背が高い夏油さんは、困った様に笑う。でもその顔は何かを隠しているとかそういうのではなくて、本当に私の言葉に困っている様で少しだけ意外だった。








「私は、呪術師として生きていないとそもそも可憐を守る自信がないからさ」

「....外も此処も大して変わりませんよ。」
「頼もしい後輩だなぁ。

ねぇ、七海。もし可憐に振られちゃったらご飯でも奢るよ」



冗談めいて言う夏油さんに苦笑して「よろしくお願いします」とだけ伝えた。
グラウンドからは賑やかな声が聞こえる。学生たちを五条さんと可憐さんが最早弄ぶかのようだ。特級と一級相手では、学生たちに同情してしまう。







「私達もあんな頃があったんだよね」
「もう遠い昔ですよ」
「よく二学年合同で体術の授業あったね、あれはなかなか楽しかった」
「懐かしいですね、後輩の私たちからしたらたまったものじゃありませんでしたが。」
「ははっ、そうだったのかい」





グラウンドを眺めていたこちらに気が付いたのか、可憐さんが大きく手を振った。何を言っているかまではよく聞こえなかったがきっと私達の名前を呼んでいるのだろう。それに応える様に夏油さんが手を振った。








―――――-あぁ、この人は本当に。

心の底から可憐さんのことが大切で、それでいてこの呪術界と言う狭い世界のことも投げ捨てる事は出来ないほどに大切なのだ。









「七海、」「はい。」
「よろしく頼んだよ。」




春は少しずつ近付いているはずなのにそんな気配を感じる事が出来ない冬の風が冷たい中で、先輩の言葉に小さく頷けば、安心した様な表情で礼を言われる。


頼り甲斐のある先輩の、あまり見たことない表情は冬のやたらと眩しい光のせいでよく見えなかった。でもきっと、少し安心した様な肩の力が抜けた様な優しいその表情を私はこれから先忘れることはないだろう。








-------------










冬の寒さは、春の暖かさを感じるために必要なものだという言葉を聞いたことがある。ずっと暖かいところだったら、春が訪れて感じる風の温もりもそれまでの寒さを溶かすような暖かさもわからない。



可憐にとって高専を卒業してから、もうすぐ六回目の春が来る。呪術師である以上、これと言って大きな変化があったわけではなかったし、制限される記憶のことを考えて生活環境を狭くした中で生きていく事にもすっかり慣れていた。


もちろん、自分のことをよく理解している身近な人たちに守られて、自分のやるべきことをやっていく人生になんの疑いもなかったのだ。でも、少しだけ彼女の中で小さな変化はあって。まるで、春を待ち雪解けを待つ雪の下に小さく咲く花の様に、何かがきっかけで少しだけ世界が変わりそうな気がした。














「可憐、私と別れよう。」



だから、その夏油の静かな言葉は妙にすんなりと彼女の中に入ってきて、いつも二人で暮らす部屋の窓から見える夜空に天気がいいのに殆ど見えない星達を、もしかしたらあるかもしれないと探す余裕すらあった。

ソファに並んで座り、真っ直ぐに自分の事を見て話す夏油の言葉は、冷たい空気が纏わりつく世界に吹き込む春の風の様で、いつだって優しい。








「わたし、傑の事好きだよ」
「うん、知っているよ」
「...このままで、わたし大丈夫だよ。」
「駄目だよ、それじゃ。」







「傑は、どうしてそんなに優しいの」
窓の外を何を見るでもなく見ていた可憐が、夏油な事をみて小さく問いかける。それに夏油は少しだけ苦笑すると、ソファに寄りかかった。





「優しくなんてないんだよ、逃げてるだけなんだ。」
「...何から?」
「可憐をいろんな世界に行かせてあげることから。」
「行かなくたっていいよ、わたしは今のままで、いい。」



「それじゃ、駄目なんだよ。」
静かに言い切られた言葉に可憐は何も答えずに少しだけ首を傾げた。そんな彼女の頭に優しく手を添えて、夏油がそのまま引き寄せればすっぽりと腕の中に収まってしまう。





「私はさ、学生の頃からずっと、可憐の笑顔を好きになったんだ。」
「...うん、」

「でもこのままじゃ、その笑顔は見えなくなってしまうから」
「..え?」


「可憐は顔に出やすいからね。

教職をやってみたいのもそうだし、色んなところへ行ってみたいんだろう?

でも、私にもみんなにも気を遣って今のままで良いと可憐は言うから。」




可憐を夏油が少しだけ強い力で抱き締める。彼女はそのまま彼の胸元に身体を委ねた。







「私といたら、好きになった笑顔を可憐から奪ってしまう。そんなのは、私は嫌なんだよ。」


「...じゃあ、わたしはどうしたらいいの?」

「簡単だよ」
「...え?」




「こんな狭い世界から、連れ出してくれる人を可憐は知っているだろう?」





逞しい夏油の腕の中から彼を見上げれば、優しく微笑みかけられて可憐はその目を真っ直ぐに見つめた。夏油は彼女の長い髪に指を絡ませながら言葉を続ける。










「可憐、一つだけ嘘をついたこと、謝るよ。」
「うそ?」

「可憐が髪を伸ばしてる理由は?」
「...傑が、長い方が好きって、言ったから」
「私じゃなくて、七海がそう言ったんだよ」





その言葉に可憐は少しだけ瞬きをしてから小さく笑う。何かが繋がったように、力が抜けるように彼にまた身体を預けると、これまで何度も抱き締められてきたその背中に腕を回す。












「...傑はいつだって、わたしを一番に考えてくれる」
「それが私にとっての幸せだからね」
「...本当に?」
「本当だよ。」
「.....ごめんね、でもありがとう」
「どういたしまして。」
「わたしは傑に何も出来てないのに」
「隣にいてくれただけで充分だよ」


「..優しすぎて詐欺にあっても知らないから」
「ははっ、じゃあひとつだけ約束をくれないか?」


「もちろん、」




「綺麗な世界を見つけたらその感想を聞かせてくれるかい。」


「...ふふ、それだけでいいの?」
「充分だよ。」







「約束する。」
背中に回していた腕を離し今度は首に回すと、ゆっくりと可憐は夏油に抱き着く。









「傑がそばに居てくれて、良かった。」
小さく消えてしまいそうな声で、言葉を紡ぐ。


「わたしはちゃんと、目の前にいる傑を好きになったよ」





目に涙を浮かべて自分を見つめる可憐に夏油は触れるだけの優しいキスをした。それから頬を静かに伝う涙を指で拭ってやる。



「大丈夫、ちゃんと知ってるよ。」








――――-君が目の前の私の事をちゃんと見て気持ちをくれたことなんて、随分と前から知っていた。








「可憐は、笑っているのが一番だよ。」

きっと夏油が心を奪われた笑顔で、彼女は笑った。








――――――-どうかその笑顔が、いつまでも消えてしまいませんように。










きみがきみらしく居られるように。いつまでもそのままで居られるように。
どうか新しい世界を生きていってほしい、





















はい、夏油さんと七海さん回でした。
夏油さんがもう、大人すぎて大人オブ大人のはずの七海さんが若者に見えるマジック。
大人になった夏油さんと七海さんががっつり絡む話をこの長編で初めて書いたので、まぁ苦戦でございます。((文章からも伝わる苦戦感。




誰かのために自分自身の優先順位を下げられると言うのが、私の中ではかなりレベルの高い愛情表現だと思っていて、可憐ちゃんも夏油さんも同じタイプと思って書いているので、何度「えっ別れられなくない?え?」となり悩んだ結果今回のお話になりました。七海さんと五条さんももちろん、相手を優先するけどもっとしっかり自分の気持ちも出してくるかなと解釈しています。



さてさて、お話も終盤ですね。
最後まで楽しんで頂けますように。




- ナノ -