高専に吹き抜ける風は冷たい。吐く息も白くなる。冬本番という訳でもないが、日も短くなり冬が始まっているのは間違い無くて。




「はー....」
無数の氷柱が聳え立つグラウンドで、悴む手に白くなる息を吹きかけて空を見上げる可憐。その空は、澄んでいて何処までも美しい蒼色をしていた。



「綺麗だなぁ、」
五条が担任しているクラスの体術の授業を手伝いをしていた彼女が生み出した氷柱は寒さをより強くするようで。無数の氷柱の中に立つ可憐のことを五条が呼ぶ。





「早くそれなくしてよー!寒いじゃん。」
「ははっ、ごめんごめん」
氷柱の中から出てから、親指と中指で音を立ててそれを解けば全てが水に変わる。氷柱の中に隠れていたであろう猫瓏が飛び出して可憐の肩に飛び乗った。そのまま彼女は五条のもとへ駆け寄る。








「お疲れサマンサ〜」
「悟、自分のこといくつだと思ってるの?」
「えぇ、そんな僕の年齢気になっちゃう?」
「...同い年でしょ」
「僕は年取らないんだよ、最強だから」
「それを真顔で言うところがあんたの凄いところだよね。
いやー、それにしてもほんとに今年の一年生は優秀だね」
「そりゃそうでしょー、僕の教え子だよ?」
「はいはい」


近頃可憐は以前よりも自分から望んで教職の手伝いをしている。今日の様に術式で体術の授業を手伝うこともあれば、学生時代から得意な座学の授業を五条の代わりに行ったりしていた。任務の後の時もあれば、夏油が単独任務に行き高専で待っている間にすることもあり、言ってしまえば暇さえあれば授業をしている。
五条が担任をしているということもあり、受け持つのは一年生だけだが、そのおかげで四人しかいない生徒のことを可憐が忘れることは今のところなかった。






「最近授業つめすぎじゃない?」
「えー、そう?だってせっかく生徒たちとも仲良くなれてきたから楽しくて」
「それならいいけど、無理しないようにね。僕が傑に殺される。」
「大丈夫だよ、傑はちゃんとわかってくれてるし」
「そ。ま、ぶっ倒れてまた後輩に介護されないようにねー。」
「あれから体調崩してないでしょ!」
「でもその辺りからなんか可憐、変わったよねー」
「何その言い方、」

軽薄な口調の昔馴染みを可憐が軽く睨むと、五条は両手を上げてまたへらへらと笑う。



「別に変な意味じゃないって。」
「じゃあ、なに?」
「んー。なんだろうなぁ、前向き?いつも以上に前向きって感じ。」
「なにそれ、全然わかんない。」
「褒めてるんだからいいでしょ」
「なんか馬鹿にされてる感じがムカつく」
「えぇ、ひどいなぁ。」
「わたし、悟みたいな同級生がいてよくぐれなかったなって思うよ」
「マジ?」
「うん、マジ。」
「こんなイケメンと同級生とか胸熱なのに?!」
「バーカ」
「ひどいっ!傑に言いつけてやるっ!」




五条のふざけた言葉に笑いながら可憐はまた冬の空を見る。いつもより空が高く見えるのは、なんでだろうか。











『世界は広くて、誰でも何処にだって行けるんですよ。』
後輩の言葉を思い出す。どうやらこの高い空は色んな世界につながっているらしい。そして、その世界には誰でも行けるらしいのだ。









「ねぇ、悟」
「何処にだって行けるんだってさ」
「え、なんの話。怖い。」
「あははっ。なんでもない。
あ、じゃあ、わたしこのまま硝子のとこ行くね」
「はいはい。迷子になんなよー。」
「馬鹿にしすぎ」

校舎に入り室内履きに、靴を変えたところで二人は別れた。ひらひらと手を振る五条の背中を見てから、可憐は猫瓏を戻すと保健室へ急いだ。








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「硝子ー、今いい?」
「あぁ、どうぞ。」

可憐は高専にいる日一回は必ず親友である家入のところに立ち寄る。今日は授業は先程ので最後で夏油の迎えを待つだけになったので、家入が好きな缶コーヒーを途中で買いそれを片手に保健室のドアを叩いた。

煙草を咥えながら資料を見ていた家入から、煙草をそっと取るとデスクの上にあった灰皿にそれを押し付ける。




「不良先生め。」
「生徒の前では一応吸っていないよ」
「当たり前です」
「夏油も吸うだろ?」
「んーまぁ、たまにね。」

家入の椅子の近くにあった、背もたれも何もない丸く回転する椅子に腰掛けて、缶コーヒーを渡す。可憐は自分用のカフェラテが入ったペットボトルの蓋を開けた。ホットを買ったはずなのに、心なし冷め始めていて外が思ったより寒かったんだなと実感する。





「...で?」
「え?」
「最近なんか考えてるみたいだったけど?」
家入が缶コーヒーを開けながら突然言うので可憐は目をパチクリさせてから苦笑する。高専に入った頃からの付き合いで、親友である家入にはなんでもお見通しのようだ。





「そんなにわたし顔に出る?」
「まぁ、クズ共は気が付かないんじゃない?」
「親友の勘ってやつだ」
「そんなとこ」

家入は珈琲を飲みながら急かすでもなかったが、可憐の方を見て首を傾げる。そんな家入に対して困ったように可憐が笑えば、家入がデスクの上に置かれていたボールペンで彼女の方を指す。








「七海だろ。」
「...ん?」「図星だな。」
「硝子様には敵わないなぁ」
可憐はクルクルと回ってしまう椅子が嫌になったのか立ち上がると、革張りの少し硬いソファに腰掛けた。家入は脚を組み直してから、そんな彼女のことを見る。






「思い出したのか?」
「教えてもらったの、七海に。この前看病に来てくれたから、天与呪縛のことは傑から聞いてるだろうからさ。

なんか忘れてることある?って。」
「で、私と貴方は付き合ってましたって?」
「そう。それで、今もわたしの事好きなんだって」
「あー。そりゃそうだろうな。」
「..そりゃそうなの?」
「別に可憐に会いたくて呪術師に復帰した訳じゃないだろうけど、七海がそう簡単に可憐の事を忘れられるはずないと思ってさ」


「七海が卒業して四年だよ?卒業式に別れたんでしょ、わたしたち。」
「そうだよ。でも、時間が経てば気持ちが必ず薄れるってもんでもないだろ。嫌いになって別れた訳じゃないんだから。」

「それは..確かに。」
「んで、記憶はどうなの?付き合ってた時のこと思い出したりした?」

「いや、それが全然なの。ただ七海に苗字で呼ばれるのはしっくりこなくて名前で呼ばれた方がしっくりくるくらいで。

あとはそうだなぁ、たまになんかデジャブ感があったりするかも。」
「デジャブ感?」

「あれ、前にもこんなことあったかな?みたいな。」
「へぇ。」
「興味ないなら聞かないでよ」
「ないことないよ」
「そ?

でもそうだなぁ。きっと大事にしてくれてたんだなって思う。すごい優しい顔してるから。」

「七海が?」
「え、うん。」
「今のあの見た目で?」
「そりゃそうでしょ」





家入は「想像出来ねぇ」と悪たれをつきながら珈琲を飲み干すとデスクに頬付けを付きカフェラテを握りしめたままの可憐の方を見る。






「....わたしさ、七海に教えてもらうまで忘れていた訳じゃん。付き合ってたこと。」
「まぁな。」
「七海はわたしの記憶のこと知らなかったんだから、傷つけたと思うの。


わたしは、忘れられることって人を傷つけると思うから。」






「だけど、七海は傷付かないから大丈夫って言ったんだよ。」








家入は、彼女が自身の天与呪縛のことを知った時、自分のことよりも誰かを傷付けるのが嫌だと顔を歪め苦しんでいた事を知っている。自分のことよりも人のことを優先してしまう可憐は、誰かが傷つく事を最も嫌う。仮に自分がボロボロに傷ついたとしても。






「七海は忘れられる位じゃ傷付かないんだろ」
「...どうして?」
「私は七海じゃないから分からないけど、可憐が忘れてしまうのは、可憐の意思ではないしな。

その辺はちゃんと区別が出来るって話だろ」




「..そんなもん?」
「そりゃ最初はショックかもしれないけど、理由が分かればそんなもんだろ」
「そんなもんかぁ」
「それに七海は、大人だからな。可憐が悪くない事くらいすぐにわかるよ」




淡々とした家入の言葉に可憐は小さく「そっかぁ」と呟き、背もたれに身体を預けた。









「それだけ?」
「え?」
「他にもなんかありそうだから。」

「んー...あっ、そうだ。ねぇ、硝子」
「ん?」



「わたしが、もし、先生やりたいって言ったら反対する?」







家入の記憶の中で、可憐が呪術師以外にやりたいと何かを望んだことはない。天与呪縛のせいで、生きる世界を制限されても、自由を制限されても、誰のことも責めずただただ素直に受け入れていた。それ程までに、自分のことの優先度が低い彼女の思いもよらなかった質問に家入は小さく笑う。







「賛成だよ。向いてると思う、」
恐る恐る聞いていた可憐の顔が途端に明るい笑顔に変わり家入もつられて笑った。











何かが小さく変わってきている、
そんな予感の音がしたりして。

花熱(かねつ)








「なぁ、可憐」
「なに?」
「ちゃんと自分で決めていいんだからな。」

家入の言葉をすぐに理解出来なかったのか可憐はすぐに何も答えなかった。でも少ししてから、優しく笑って頷く。







「うん、ちゃんと考えてみる。」
「ん。」
「ねね、今度さ久しぶりにご飯食べにいこ?」
「あぁ、もちろん。」









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世間は年末年始でなんだか慌ただしさとそわそわした空気が混じりあっている。
そんな世間のよくある年末年始感とは無縁だが呪術師の世界の年末年始はなにかと忙しいもので。


高専の教員室に貼られたカレンダーを、腕を組み並んでみていたのは夏油と可憐で二人揃って険しい顔をしていてその二人の後ろに縮こまっていたのは、年中無休で苦労が耐えない伊地知だ。







「...伊地知くん。」
「....はっ、はいぃ!」
「今日は十二月、何日?」
「...二十八日です。」
「わたしの前回の完全休みは?」
「.....十二月一日です..」

「可憐辞めよう。伊地知は悪くない。」
「傑、目が笑ってない。」




そして明日から二日の連休になっていたはずだが、今日の任務が済んで伊地知の車で高専に戻り、休み明けの予定を確認すればその連休が消え任務が入っていたと申し訳なさそうに伊地知から報告を受けたわけで。夏油と可憐は教員室のカレンダーを見ながら自分たちの連勤がどれくらいかを指折り数えていた訳だ。そんな事をしても何かが変わる訳ないなんてことは二人も充分にわかっているのだが。









「....私一人で行こうか。」
「そうもいかないでしょ。明日特級案件だよ」
「可憐だけでも流石に休んだ方がいい。」
「いや、もう、これは気合いだ!」
「...可憐、」
「だって、一人より二人の方が早く終わるだろうし。傑だって取り込む呪霊の量が最近立て続けに多いんだから無理したら駄目だよ」





最早一ヶ月近くの連勤は、体力には自信のある二人でもかなり疲弊している。夏油の方が任務の回数は多いが、その間可憐は高専で授業をしている訳で。どうしようもない人手不足に顔を見合わせて二人は溜息を吐いた。それから可憐は振り返ると、後ろで今にも胃に穴を開けそうな伊地知の肩を叩く。





「伊地知くんも連勤って事だもんね。連勤終わったらみんなで忘年会しよね」
「..はいっ!!」
「忘年会だか新年会だかわからなくなりそうだけどね」
「ねー、そう言うこと言わないでよ、傑」
「えっ私何か変なこと言った?」
「たまにこの人、空気読めないよね」

可憐は溜息を吐きながら、夏油の背中を叩き笑う。伊地知も少し方の力が抜けたように小さく笑った。




「あれ待った、わたしたちってもしかして大晦日まで休みない?」
「大晦日が仕事納めだよ。」
「うげーー。じゃあ伊地知くん、元旦に集まれるメンバー探しておいてね」
「わかりましたっ!!」
「場所は多分一番広いから、悟の家ね」
「えぇっ!?」
「はは、めっちゃ伊地知嫌そう。」
「そっ、そんなことは...」
「あー、はやくみんなで集まりたいなぁ」


カレンダーの日付の部分を指でなぞりながら可憐は隣の夏油を見上げた。

 




「なんだい?」
「ふふ、早く帰ろ。明日も朝早いんでしょ」
「はいはい。」
「じゃあ、伊地知くんまた明日ね。ちゃんと休んでね」
「お疲れ」
「はい!お二人もお疲れ様でした。明日の朝迎えに行きますね。」
「ギリギリまで寝てすっぴんで行くね」

冗談めいた言い方をする可憐に伊地知が動揺するのをよそに、二人は教員室を後にする。いつもより早い帰宅時間はまだ夕方前で、電車で帰っても家に着くのは夕飯前だろう。














まだ人も多くない電車に乗り込むと都心に向かうということもあり、その車両は貸切だった。あまり乗ることも多くない電車で、並んで座れば、肩が触れる。そんなことにもうドキドキしたりはしないけれど、互いの体温は心地いい。






「突然なんだけどさ」
何をする訳でもなく冷えた手を擦り合わせていた可憐が本を開いた夏油に声をかける。彼の方を見るでもなく、自分の手に息を吹きかけながらかけられたその言葉に、夏油は本から目を逸らさずに「なんだい?」とだけ答えた。










「わたしが、高専で先生やりたいって言ったら傑は反対する?」
「......しないよ。」

即答ができなかったことを夏油はすぐに後悔する。何も悟られないように彼女を見れば、少しだけ切なそうな目があって。目が合うと、可憐は小さく何かを誤魔化すように笑ってから自分の手をコートのポケットに入れた。丈の長いチャコールグレーのチェスターコートは去年二人で買いに行ったもので、夏油は黒の同じ形のコートを選んでいて、図らずもペアルックのようになったがお互いに気に入っていて毎日のように着ている。








「...可憐。」
「夕飯は、冷蔵庫のもの使ってなんか作ろうね」


「明日から家で作って食べられるかわからないし」と続けてから、可憐は夏油に寄りかかる姿勢になって目を閉じる。夏油はそれ以上何かを問うのは諦めて本に目を落とした。










「傑、明日も頑張ろね」
「......あぁ、そうだね。」

ポケットから片手を出して、そっと可憐は夏油と腕を組んだ。寄り添うように、支え合うように。














僕はきっときみを
ここから出してあげることはできなくて、大切にとっておきたくなってしまう

花を摘んで燃やしたい訳じゃない











ほぼ一ヶ月の連勤を終えて迎えた元旦。五条の家で新年会で集まろうなんてそんな体力は夏油にも可憐にも微塵もなく、ベッドで最後の任務から帰宅してそのまま、それこそ泥のように眠り目を覚ましたときには外は少しだけ夕暮れが始まっていて。



ダブルベッドの上で、窓から差し込むオレンジ色の光に照らされたまだ眠る夏油。そんな彼を先に目を覚まし身体を起こした可憐が見て微笑んだ。隣で枕に突っ伏して眠る彼の乱れた髪に触れた。













「傑、」
いつだって優しく守ってくれるひと
隣でいつも笑っていてくれるひと
手を繋いでくれて一番の気持ちをくれるひと










「.....ごめんね、いつもありがとう。」
不意に溢れ出す気持ちを風が吹けばすぐに消えてしまいそうな小さな声で呟いた。











「......綺麗だなぁ、」
窓から見えるオレンジ色を眺めながら可憐が呟いた言葉も一緒に消えてしまったのかもしれない。















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