夜でも高層ビルの電気がちらほらとついていたり街の灯りが消えない都会にあるマンションの部屋から見える世界も、少しだけ灯りが少なくなっている。起きている人の方が少ないであろう、そんな時間に身体の奥から込み上げてくる嫌悪感で目を覚ました。口元を押さえて部屋を出てトイレに駆け込む。頭の中は気持ち悪さでいっぱいなのに、何故か冷静な私が窓の外を見て、「今何時なんだろう」なんて考える。






何日分かわからないくらいの十分な睡眠と、優しい卵粥と水分と、それから薬のおかげで熱はすっかり下がったはずなのに、どうしてだろうか。トイレでうずくまって、気持ち悪さをどうにかしたくて、嗚咽する。生理的に涙が出てきて、結んでいなかった髪が頬にくっついてしまう。でも身体がうまく動かなくて、ついでに頭もうまく働かない。だから、リビングで寝ているはずの彼が突然触れた時、本当に気配に気付けなくて、身体が大袈裟に強張ってしまった。







「....っ、ごめ、ん」
「いえ..驚かせてしまい申し訳ありません。」
わたしの隣にしゃがみ込み、背中をさすりながら髪をさりげなく汚れないように耳にかけてくれる。よく考えれば、トイレのドアも閉めずにいたからリビングに音なんて聞こえてしまう。七海が気がつくのも当然なのに、思っていたよりわたしの頭は動いていないみたいだ。







「吐けそうでしたら、吐いた方が楽になります。」
「.....むり、」
「...手伝いますか?」

言葉の意味が分からなくて、チカチカするのを堪えて隣を見れば髪は少し崩れた七海がいた。その目はとても真剣で、冗談を言っているようには思えない。何も言わないでいたら、問答無用に指を口に入れて吐かされる気がして慌てて首を振る。すると七海はそれ以上は何も言わずに、わたしの背中をさする手を再び動かしはじめた。大きく逞しいその手は、少しずつわたしの中の気持ち悪さを取り除いてくれているようだった。
















生きた仮想
















どれくらいの時間をトイレでしゃがみ込んで過ごしたかわからないが少し落ち着いたタイミングで、七海に支えられてリビングへ向かった。少しだけ気持ち悪さは残っているが、吐き気はだいぶよくなっている。何度か戻したことを考えて七海にキッチンで口を濯ぐことを勧められてそれに素直に従えば、少しだけすっきりした。それからソファに誘導されるとわたしはソファの角に身体を委ねて体操座りをする。






「....お風呂入ってないの?」
「夏油さんが戻ってきたら帰りますし、大丈夫ですよ。」
髪は少し崩れているが昼間見た服装と同じだった七海を見て問いかける。もしかしたら寝ていなかったのかもしれないなと思うと、感謝より申し訳ない気持ちの方が勝ってしまう。






「少し寝ましたよ。ご心配なく。」
「...エスパーなの?」
「藤堂さんは顔に出ますから」
「ん...よく言われる、」
「体調はどうですか?顔色は少し落ち着いた様ですが。」
「たぶん..もう大丈夫、ちょっと気持ち悪いだけ」
「そうですか...寝ますか?」
「...ううん、もう寝過ぎて寝れなそう」


触れるでも触れないでもないけど、隣同士の距離感。近いようで遠い、そんな距離で隣に座る七海のことを見ると目が合ってしまう。眼鏡の奥の目がいつもよりよく見えた。吸い込まれてしまうような気がして、目を逸らす。





「あ..でも私がいたら七海寝られないよね。寝室に戻るね、」
「いえ。ここに居て下さい。」

涙の痕が残っていたのだろうか、優しい七海の指がわたしの目尻に触れる。そのまま暖かい手のひらが頬に添えられて、わたしがまた七海を見れば、とても心配そうな表情がそこにあって。何故かわたしは居心地が悪くなる。真っ直ぐに向けられる優しさに、追い込まれるような気がして。











「....そんな顔、しないで」
「心配なだけです。」
「...それは、わたしが昔の恋人だから?それとも単に先輩だから?」



頬に添えられた手を制して、我ながら嫌なことを言うなと思った。七海がただただ理由なく心配してくれていることなんてわかっているのに。昔の恋人だなんて言ったけど、ついさっきまで忘れていたと言うのに、わたしは最低だ。







「...ごめん、嫌な言い方した、」
「いえ。」
「....本当にありがと、居てくれてよかった」

情けないことに目を見てちゃんと言えなくて、わたしは膝に顔を埋めて伝える。先輩なのに情けなくてかっこ悪い。どうしてか、傷付けるようなことを言ってしまいそうで目を見るのが怖くなる。もう散々傷つけているのに。











「....ごめん、ごめんね。」
「どうして、藤堂さんが謝るのですか。」
「...傷つけるばかりだから、」
「傷付きませんから、大丈夫ですよ。」
大きな手で頭を撫でられる。かけられる声は何処までも優しくて、包み込まれるような錯覚に陥ってしまう。










「...可憐さん。」
自分の名前を呼ぶその声が、やけに懐かしく感じる。少し照れたような顔をして、わたしのことを呼ぶ彼は、わたしの記憶の中ではまだあどけなくて、それでも懸命に真っ直ぐにわたしを大切にしてくれていた。今、名前を呼ぶその声は、少し低くて、落ち着いていてなんだか聞き慣れないけれど、真っ直ぐにわたしに届くところは変わらない。














「昔の恋人だからとか、先輩だからとかそういう事じゃありません。私は、可憐さんのことが大切なんです。


忘れようとしても、忘れらないくらいなんですから。」




「...忘れたくないのに、わたしは忘れていくんだよ」




汚くて、情けなくて、かっこ悪くて、みっともない。そんな心の奥から滲み出てくる本音をわたしは何故か目の前のやさしい人にぶつけてしまう。顔を上げて、自分が今どんな顔をしているかなんて分からなかったけどきっと酷い顔をして、彼を見る。













「七海が、わたしに好きだって伝えてくれた日に、ちゃんと言えばよかった。


わたしは、あなたを忘れるかもしれないって。わたしがいつかわたしじゃなくなるかもしれないって。」
「..どうして教えてくれなかったのですか。」




「だって、そんなこと言ったら、七海が居なくなるんじゃないかって。

多分....怖くて、言えなかった。」
少しだけ切なそうな顔をした彼に、困ったように伝える。結局は先延ばしにしてしまっただけだった。でもあの時のわたしは、きっと怖かったはずで。






「でもあの時ちゃんと言ってれば、わたしは七海を傷つけなくて済んだのに、」







「こんな気持ちにならなくて済んだのに、」











わたしの気持ちって、なんだろう。
大切な人たちに守られて、危なくないところでその中で出来ることだけをして、傑の優しさに甘えて、七海の優しさを思い出して。
みんなの優しさの中で生きているのに、どうしてこんなに辛いんだろう。辛いなんて、思っていなかったはずなのに。これでいいってずっと思って生きていたはずなのに。











「ねぇ、七海。」










「本当に、世界は広くて、何処にだって行けるの?」












絞り出したようなわたしからの質問に、七海は答える前にわたしを引き寄せて強く抱き締めた。鍛えられて逞しい胸元にわたしはすっぽりとおさまってしまう。後頭部に添えられた手が、わたしの髪に触れる。強く強く、抱き締められているのに、何故か何処も痛くも苦しくもなかった。











「世界は広くて、誰でも何処にだって行けるんですよ。」



彼の胸元から顔を上げると、目が合う。恥ずかしくなって目を逸らして胸元に額を寄せた。すると優しくわたしの髪を七海が撫でる。








「...それから、昔記憶の事を教えてもらっていたとしても、それを理由に離れたりはしませんし、私の気持ちは変わりません。


ただ、知っていたら...無理矢理にでも貴方を連れて高専を出たと思います。」






「そんなの..駄目だよ。」
「駄目じゃありませんよ。」
「...どうして」

「好きな人を守りたいのは当然のことではないですか?」




七海はわたしの肩を優しく持ち身体を離す。真剣な目で見られると、目を背けることも出来なくなる。そのまま、何も言えずに彼の目を見ていると再び引き寄せられて抱き締められる。今度は強くじゃなくて、とても優しく。まるで壊されそうなものを包み込むように。















「ここじゃなきゃ、わたしは生きていけないんだよ」
「そんな事は絶対にありません。世界がこんなにも狭いはずがない。」
「そうかも、しれないけど」
「貴方が生きれる世界は必ずあります。」


静かに、でも強い口調で言い切られた言葉。
包まれた腕の中でそれを聞くと、心の中で詰まっていた何かが少し落ちた気がして、無意識に緊張していた身体から力が抜けて七海に身体を委ねてしまう。















「今でも..連れ出してくれる?」
「もちろんです。」
「....そっか、」
「可憐さん、」
「ん、」



「私は貴方が好きです。昔も、今も変わらずに。」





胸の中で聞こえるその声は、優しさで溢れていて、暖かい。傑とは違う優しさを七海は持っているんだななんて、頭の何処かで考えたりして。きっと、昔のわたしは七海の優しさに惹かれていたんだろう。だって、こんなにも彼の温もりが心地よくて懐かしいんだから。








「...うん、ありがとう。」
「...いえ。」
「でも、わたしはまだ、よくわからない、」
「返事が欲しい訳ではないので。
ただ、知っていて欲しかっただけですから。」

「七海も、傑も..優しすぎるよ」





「そりゃあそうでしょう。」
「え?」
「男は好きな女性には、いつだって優しいものですよ。」

見上げてみると、そこにはわたしを揶揄うように笑う七海がいて、つられて少しだけ笑ってしまった。










「やっと、笑いましたね。」













貴方に会いたかった
その笑顔が見たかった、

空想でない現実で












そのあと、わたしと七海はソファに隣同士で座って他愛のない話をたくさんした。

高専を出てからの仕事のこと、一人暮らしで失敗した料理のメニュー、よく行くパン屋さんのこと、好きなお酒や食べ物のこと、いろんな事を教えてくれて、

わたしは、過去に行った任務のことや、傑と悟の喧嘩の話、傑とよく作る料理の話、伊地知くんの苦労話、最近見つけた近くの珈琲屋さんの話をした。








身体の奥から込み上げてくる嫌悪感で目が覚めたとき灯りが少なくなっていた外は少しずつ灯りが増えてきて、話に夢中になっていると段々と日が昇ってきてしまって、二人で顔を見合わせて笑ってしまう。


「ははっ、学生みたい」
「...本当ですね」
「でも、七海は仕事で完徹とかあったでしょ?」
「それとこれは違いますよ...」




膝の上で頬杖をついて、窓の外を見る。朝が来る夜明けの様子はなんだかやけに美しくて、窓の外が知らない世界に思えた。




  





「綺麗だなぁ、」









ふと、前に七海にもらった写真集の中にあった美しい海辺の景色を思い出す。この夜明けのように、海がキラキラとしていて宝石を散りばめたようで。その輝きの中に吸い込まれるようだったあの景色。きっと近くで見たらその中に溶けてしまいそうな感覚になるのかもしれない。








「ね、七海。」
「はい。」
「わたし、海が綺麗なところに行きたいのかも」







隣の七海が少しだけ驚いた顔をしてから、とても柔らかく笑って「同じですね」と言う。その笑顔はかつて見たことがあるような気がした。七海の普段は見せないその表情に、わたしは心を動かされているんだと思う。




どうかこのまま彼の記憶に蓋がされてしまわないように、心の片隅で密かに願ってみたりして。









―――――――それが叶うかどうかはわからないけれど。
























オール可憐ちゃん目線で描いてみました。七海さんとの大切な時間のお話です。
この話は「せかい」を裏テーマにしているので、ここ最近はそのテーマが裏テーマとは思えないくらい顔を出してます。笑


夏油さんと生きることでいられるせかいと、 七海さんと生きることでいられるせかい、はたまた全然違う選択をしてえらぶせかい。


どうなっていくでしょうか、楽しんでいただけたら嬉しいです。感想もお待ちしてます◎飛んで喜びます。



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