「お粥、作れるんだね」 
「高専でも寮でしたし、一人暮らしもそこそこしているので。」
「ごめんね、せっかくの休みの日に先輩の介護させてしまって。」
「看病の間違いでしょう。」








時を戻すのは出来なくても
再生のためのノクターン









三十八度七分。
控えめな機械音が鳴り響いた後に表示されたその数字を見て、可憐は顔まで布団に潜り込む。



「この熱じゃ任務は無理だね」
「....行く。」
「泊まりがけだよ?やめときな」
「うぅ...」
夏油が布団から出ても一向に起きてこない可憐を、泊まりがけの任務に比較的朝早くから出かける予定だったため彼が声をかけても布団に潜り込んだまま無反応だったため少し布団をめくり赤くなった顔に触れると、驚くほどに熱を持っていた。



布団に潜っていたからだとか、ここのところの連勤で疲れているからだとか言い訳をしながら起き上がった彼女は明らかにふらふらしていて、そんな彼女を夏油がベッドにまた寝かせてから体温計を差し出せば諦めたようにそれを脇に挟んだ。案の定、体温計にはそこそこの高熱が表示された訳で。







「少し待ってて。連絡してくるから。
ちゃんと横になっているんだよ。」
「寝てるだけだし、傑が任務行ってるとき一人でここで待ってるから大丈夫だよ」
「そうはいかないよ。私が心配で仕事にならない」
そう言って夏油は寝室を一度出てスマホで働き者の後輩の番号を呼び出した。













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それから一時間程がして、インターホンが鳴り響く。液晶画面にはオフの日のためスーツではなく、ラフな黒いカットソーにベージュのジャケットを合わせいつものサングラスではなく眼鏡をかけた七海の姿が映る。何も言わずに解錠ボタンを押してから、夏油は一度寝室に戻った。




夏油が伊地知に連絡をし、七海の休みを知り呼び出している間に、可憐は熱のせいもありもう一度寝てしまっていた。

「可憐」
「....んん..」
「七海が来てくれるから、ちゃんと寝ておくんだよ。行ってくるからね、」
「..ん、わかった」
「よし、いい子」


眠りの世界と現実の世界の狭間にいるであろう彼女が静かに返事をしたことを確認すると優しく少し汗ばむ額を撫でる。それから静かに部屋を出ようとすると、小さな声で呼び止められた。





「気をつけて、ね」
「あぁ、ありがとう。行ってくる。」



可憐に歩み寄り優しく夏油は熱を帯びた頭を優しく撫で、再び彼女がゆっくりと眠りの世界に落ちていったのを確認してから夏油は静かに寝室をあとにした。










それから前日から準備してあった荷物を玄関まで運んでいると、再びインターホンが鳴り夏油は玄関のドアを開ける。そこには両手にビニール袋を下げた七海の姿があり、夏油は少し申し訳ないような顔で彼を家に入れた。


「七海、休みの日に急にすまないね。」
「いえ、特に予定もなかったので問題ありません。」
「荷物すごいね?」
「あぁ、薬等もとりあえず買ってきたので。夏油さんが帰宅するまでは此処にいます。」
「明日の昼過ぎには帰宅出来る予定だから、何かあったら連絡するよ。」
「了解しました。
少し食材も買ってきたので、後でキッチンを使っても?」
「あぁ、構わないよ。何から何まで悪いね」
「いえ。任務にはお一人で?」
「元々可憐だけでも問題ないレベルの任務だったからね。私だけで行ってくるよ。」
「私が代わりに任務に行くのでもよかったのでは?」
「ははっ、その手もあったか。でも大丈夫、どうせ移動先で面倒な任務追加されるだろうし。そんなの後輩に押し付ける訳に行かないからね」


玄関先で話していると、夏油が靴を履き、反対に七海は靴を脱ぎ出されていたスリッパを履いた。少し重くなんとも言えない沈むような空気が流れるが、その空気を払うように夏油は笑い七海に声をかける。





「なぁ、七海。」
「はい?」


「今日はありがとう。
七海にこの前、可憐のことを話しておいて良かった。助かったよ」
「いえ...五条さんも今日は任務に出ていると聞いていましたしお力になれてよかったです。」
「真面目だなぁ。

じゃあ、行ってくる。あとは任せたよ。あっそうだ、家の中のものは適当に使って構わないから。」



そう言って玄関を出て行く夏油を七海は「お気をつけて」と声をかけて送り出した。














そっと寝室を覗くと、ダブルベッドの真ん中で小さく丸まり布団にくるまり可憐は規則正しい寝息を立てていた。七海は少し表情を緩めて静かにドアを閉める。



「...さて、」
七海はリビングに買ってきた荷物を置いてからジャケットを脱ぐと腕捲りをし、食材などを手慣れた手つきで冷蔵庫に片しキッチンに立つ。どうやら彼女が寝ている隙に料理をしてしまうようだ。








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「.....すーぐるー」
寝室から大判の茶色いブランケットを肩からかけてリビングに入ってきた可憐は、ダイニングテーブルでサングラスではなく眼鏡をかけて英字新聞を読む七海を見つけ目をぱちくりとさせる。







「.....なーなみー」
何故か同じリズムで言い直した可憐の表情が何処となく気まずさを誤魔化している様で七海はつい声を出して笑ってしまった。







「.....そんなに笑わなくても。」
「...申し訳ないです、あまりにその、小さな子供みたいだったので。」
「......もう一回寝る。」
ブランケットを頭からかぶる様に直しながらリビングを出て行こうとする彼女を七海が呼び止めると、素直に振り返る。




「少し何か食べられそうですか?」
「...うん、結構寝てたと思うからお腹すいた」
「そうですね、もう午後三時になるくらいなので。」
「っえ、寝過ぎじゃない?」
「でも顔色だいぶいいと思いますよ。」
「...朝よりはたぶん、いい」
「お粥出来ているので、よかったら。」
その言葉に少し表情を緩ませて頷くと素直に可憐は椅子に腰掛ける。そして七海は入れ替わる様にキッチンへ向かい鍋に作っていたお粥を温めて、グラスに入れた水と共に彼女に前に出せば、冒頭の会話に戻ると言う訳だ。











「...美味しい。」
「良かったです。卵嫌いじゃなかったですよね」
「うん、好き。特に卵白が好き、」
「そうでしたか。」
「美味し、ありがとう、七海。」
「いえ。それを食べたら薬を飲んで熱を測りましょう。スポーツ飲料も買ってきたので、水より脱水になりにくいので飲んでくださいね。」

自分の向かいに座りテキパキと指示をする七海を可憐は不思議そうな顔で見つめる。そんな彼女に視線に気がつき七海は眉間に皺を寄せて、英字新聞を読みながら飲んでいた珈琲をまた口に運んだ。




「あっ」
「...はい?」
「お母さんみたいなんだね」
「....は?」
「傑も、七海も、お母さんみたいで似てる」
「夏油さんは、いつも五条さん達のことをお世話しているようなイメージですね、確かに」
「傑お母さん大変なの、わたしたちみんなうるさいから」
「先輩方は学生時代からいつだって、賑やかですからね」
「灰原はいつも乗ってくれたけど七海は割とドン引きしてたよね、ふふ、懐かしい」
「五条さんが藤堂さんの制服を着た時は特にドン引きしましたね。」
「あー!あれね。七海の引きつった顔の方がわたしはおもしろかったなぁ」
卵粥をゆっくり口に運びながら可憐は小さく笑う。悪戯っ子のような表情は、高専時代からなんら変わらない。七海はまだ熱はありそうだが、比較的元気そうな彼女の様子に安堵する。あまり量は多くなかったが卵粥ももう少しで完食できそうだった。





「そうだ、この前写真集ありがとう」
「あぁ..迷惑じゃなかったですか。」
「うん、枕元に置いてたまに見てるの」
「それならよかったです。」
「行きたいところ見つかったら、教えるね」
「ぜひ。」
「あっ、ねぇ」
「なんでしょう?」






「七海が看病に来てくれたってことは、聞いたんだね、天与呪縛のこと」
可憐の静かな言葉に七海は一瞬驚きつつも小さく頷く。




「...はい、先日夏油さんから。」
「そっか、全然いいの。七海は高専から知っているし知られて嫌なことじゃないから」
「そうですか..」
「でも教えて?」
「何をですか?」




「なにかある?わたしが忘れている七海のこと。」



綺麗に完食し一口水を飲んでから手を合わせると、可憐はなんの気無しに七海の方を真っ直ぐに見て問いかける。彼女からしたらきっと軽い質問なのかもしれないが、七海がそれに対してすぐに答えられるほど彼にとっては軽いものではない。なかなか答えられないことに可憐は首を傾げるが、七海は誤魔化すように空になった食器と珈琲カップを持ってキッチンへ向かってしまう。彼女は特にそれ以上聞くでもなく椅子の上に体操座りをするような体制になると、自分の膝に顎を乗せて、誰も座っていない向かい側の椅子をぼーっと見つめた。








「....お皿、ありがとう。あとご飯も」
「問題ありませんよ。寝ますか?」
「んー...
質問の答えを聞いてからでもいい?」

目の前の椅子に七海が腰掛けると今度は彼を見る。その目は熱に少し当てられてとろんとしているが真っ直ぐに七海を見ていて、誤魔化すことは出来ないと彼は心の中で悟った。









「何もないなら、それでいいの」
「...いえ。」
「ん?」
「藤堂さんは、私の事を建人と呼んでいました。」
「...え?」
「そして私は貴方を可憐さんと、呼んでいました。」

心なし早口になる口調は七海の心臓の音と繋がっているのかもしれない。可憐は心当たりがないのか不思議そうに首を傾げる。
















「私と藤堂さんは、高専時代付き合っていて、私の卒業式の日に別れました。」






熱のせいで少し潤む可憐の目が見開かれる。その目はますます七海の言葉を逃さないようで。彼はもう言葉を止めることは出来なかった。気持ちが溢れてしまうように、言葉が出てきてしまう。


















「別れて呪術師の世界から離れて会社員をしている時も、私は、貴方のことが恋しかった。

呪術師に戻る時、貴方に会えるかもと心の何処かで期待していました。


私の心の中には、ずっと貴方がいました。」



















「貴方と生きて、行きたかった。」



―――――――それは今でも変わらない気持ち。












七海の目を真っ直ぐに見ていた可憐の目から本人の意思とは関係なしに涙が一筋零れ落ちる。それを拭うこともなく、七海を見た。








「...ははっ、そっかぁ..」
「...藤堂さん」
「....七海がそうわたしを呼ぶたびに、なんか違和感があったの、そっか、そう言う事だったんだ。」
小さく息を吐いて涙を拭いて、何処か納得したような表情で七海を見る。








「...ねぇ、名前で呼んでみて?」



 







 

「.....可憐さん。」


















――――-そうだった。
わたしの記憶は制限されていて、蓋をされていて。消えているわけではない。




だって、ほら、わたしは優しく自分の名前を呼ぶこの人のことを覚えている。





もしかしたら、また蓋をされてしまうのかもしれないけれど、今はちゃんと覚えている。

















「....建人。」



―――――あぁ、そうだった。


優しい手をしていて
実はすごい負けず嫌いで隠れて努力をしていて、
機嫌がいいのに何故か眉間に皺を寄せる時もあって、
硬めのパンのサンドイッチが好きで、
たまになら苦手な甘いものも食べてくれる。





わたしの笑顔が好きだと言ってくれたひと。














「ちゃんと、覚えてる」


忘れないっていう約束をしてしまって、それが守れるか分からなくて泣き崩れた日、わたしたちは別々な道を歩き始めた。





また会えるなんて、これっぽっちも思わずに。










不思議と貴方の手の温もりだけはいつだって覚えていたような気がするの
もう一度
再生します











「....薬を飲んで、もう一度寝ましょう。」
七海の優しい言葉に可憐は小さく頷いた。その日、七海も可憐もそれ以上、なにかを話すことはなかった。
















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薬の効果もあり、三時頃にお粥を食べてから可憐はまたよく眠り次に起きた頃にはもう日付が変わる頃で。
七海はリビングで眠ると言っていて物音がしないことを考えるともう寝ているのかもしれない。ふとベッドサイドにあるテーブルを見ると、そこに置かれたスマホに不在着信の文字が目に入る。
手慣れた手つきでスライドしてかけ直す、相手はいつも隣にいる夏油だ。






『もしもし?』
何度かコールした後に聴き慣れた声がした。





「もしもし、」
『起こしたかい?』
「ううん、さっき起きて気が付いたの」
『そうか。体調はどう?』
「七海がお粥作ってくれて、薬飲んでポカリ飲んで寝てたんだけど、もう熱は大丈夫そう」
『それなら良かった』
「任務は?大丈夫だった?」
『なんて事はなかったよ。近場だったらすぐに帰れるくらいのね』
「そっかぁ、おつかれさま。」


可憐はベッドの上で体操座りをしてヘッドレストに寄りかかる。少しだけの沈黙がなんだか擽ったい。




『....寝る?』
「ねぇ、傑」
『ん?』
「あのね、わたしと七海が付き合ってたこと、教えてもらったんだ」
『....そっか。』




夏油の声が少しだけ小さくなって、可憐の中に申し訳ないような気持ちが出てきてしまって、それ以上なにも言えずに膝に額を乗せた。





『可憐』
「...ん?」
『思い出した?』
「...ちょっとだけ。七海に苗字で呼ばれるの少し違和感あったから、名前で呼ばれてしっくりきたというか、あとは本当になんとなく。」
『そっか。』
「...傑は、知ってたんだもんね」
『....そうだね。』
「みんな知ってたんだよね」
『...うん。』
「でも、それで良かったと思うからいいの。みんなはいつも、一番いい判断をしてくれているの知ってるから。」
『可憐、』
「なに?」
『こんなこと電話で言う事じゃないんだけどね』
「...ん?」






『私は、可憐の事が好きだよ。

けどね君が幸せなら、隣にいるのは私だろうと七海だろうと、それこそ悟だって、誰だっていいんだ。』





「....突然の悟。」
『悟は、昔から可憐が一人で泣くのを一番嫌がっていたよ』
「...ちゃんと約束守ってるよ。悟も傑も一人で泣くなって言うから、」
『ははっ、良い子だね』




「ねぇ、傑」




膝から顔を上げて、目の前に彼はいなくても真っ直ぐに彼を見るように姿勢を正して。






「わたしは、七海とのことを忘れていたから傑を好きになったんじゃないよ。
七海の代わりにしてたんじゃない。


いつも優しくて、面倒見が良くて、でもたまに崩れそうになることもある傑を、側で支えたいって思って、


傑を好きになったの。」








『....ありがとう。』
「だから、」
『可憐』


彼女の言葉を遮った夏油の声は少し鋭くて、可憐は自然と言葉を止める。








『焦ることなんてないよ。
ゆっくり、ゆっくり決めたらいい。』








―――――傑はいつだってそうだ。本当に優しくて本当になんだってわかってしまう。だから時には辛くないのかなって思うし、自分の優しさで自分を苦しめることになるんじゃないかって思ってしまう。











『ちゃんと可憐が納得する答えが出てからでいいんだよ』












(だから、これからもわたしは貴方といる)
言おうとしていたその言葉をきっと彼はわかっていて、色々と向き合うことをやめようとしていたことも知っていて。









「....うん、わかった。」

―――――-傑は時に、わたしにも自分にも厳しい現実を課してくる。











『はい、じゃあ寝なさい。』
「...はーい、お母さん。」
『..お母さん?』
「傑はお母さんみたいだから、」
『なんだい、それ。
あぁ、昼過ぎには戻れると思うから。』
「うん、わかった。気をつけてね」
『ちゃんと、休んでるんだよ』
「ふふっ、おやすみ。」
「ん、お休み。」















静かに電話を切れば、寝室に静寂が訪れる。
窓から見える景色は何処までも真っ暗だ。
ふとその真っ暗な世界に溶けてしまいそうな錯覚に陥る。
その感覚が怖くなって、可憐は画面が黒くなったスマホを握り締めて膝に顔を埋めた。












「.....いっそ、全部消えちゃえばよかったのに」



心というものは厄介だ。
誰かに頼りたくなってしまう。
誰かの隣にいたくなってしまう。
それなのに誰かを傷付けずに済むのならもう何もわからなくなるくらいに、心が消えてしまえばいいと思ってしまう。

















「...優しすぎる、」






でも、その優しさを手放す勇気は持てそうになかった。そんな自分がどうしようもなく嫌で、可憐は一人膝に顔を埋めるようにして一人では大きすぎるベッドの上で、たった一つの約束を破った。

















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