「んん、....暑..」
窓から差し込む日差しが眩しくて目を開ける。繋がれた手の先には、まだ心地良さそうにこちらに顔を向けて寝息を立てる可憐の姿があった。
その手を離すのが惜しくてその手を繋いだまま身体を起こす。薄手の布団に包まり眠る彼女の華奢な肩が見え、キャミソールにショートパンツという薄着で眠っていることを思い出して、布団を少し引っ張る。
ダブルベッドで共に寝るのが当たり前になって、迎える二回目の夏。変わらず夏は呪術師にとって繁忙期で、何連勤かわからない任務を終えて昨日も深夜に帰宅してどうにかシャワーを浴びてベッドに倒れ込んだ。ふと目に入ったベッドサイドに置かれた時計は十時を指したばかりで、今日は二人揃って久しぶりの休みだから、無理に隣に眠る可憐を起こすことはない。
手を繋いだままベッドヘッドに身体を委ねて、まだ眠りの世界にいる可憐を見る。昨日の夜遅くまで呪霊を祓っていたとは思えないくらい健やかな寝顔。特級である自分と任務を受けることが彼女が呪術師として任務に赴く条件になって一年半以上が経ち、高いレベルの任務にも適応できるように彼女は日々トレーニングを欠かさないし、タイミングが合えば悟の授業を手伝うこともある。忙しい日々に飲み込まれそうになっても、可憐はいつも私の手を握りこの部屋に帰ってくるのだ。
変わらず可憐の記憶は制限されていて、しかしそれはあくまでも【居場所】と【人】に限定されていて、買い物を忘れたり、料理の仕方を忘れたり、言葉が出なくなったりという障害は出ない。予防線をしっかり張った生活の中ではそこまで影響はなかった。
初めて可憐とキスをした日から、一年と少しが経っていて、高専を卒業してから早いものでもう三年の月日が流れた。かつて可憐用の寝室だった部屋は、たまに悟が泊まりに来る客間兼荷物置きになっていて、共に生活するようになって二年弱、リビングや浴室、クローゼット、至る所が二人暮らし仕様に変化している。それが私は心地が良くて、言ってしまえば幸せなのだ。
「...ん、傑..?」
「ここにいるよ。」
ふと寝惚けたように目を開けた可憐。一度手を離し、私も布団に潜り込みまだ眠そうな彼女を抱き寄せる。
「...何時?」「十時くらい、」
「起きようかなぁ...」
「まだ寝てな。」「んー...」
「じゃあ、眠れるように...いけないことでもする?」
「..しーなーい。」
「ふ、可愛い。」
「....うるさ、い」
眠そうなのに起きようとしている彼女を胸の中に収めながら揶揄うと、腕を軽くつねられる。軽く謝りながら背中を一定のリズムで優しく叩けば、また可憐は眠りの世界に落ちて行く。
―――――――せっかくの休みの日だ、今日はゆっくり、私も寝てしまおう。
温もりが一緒に溶けてしまえばいいのに
きっと明日もかわいいひと
「....寝過ぎた。見て、傑くん。
太陽がきっと真上にいるよ。お昼だよ、お昼。午後だよ、午後。」
「繰り返して言わなくても大丈夫だよ。ほら、前向いてて。熱いって文句言っても聞かないよ」
二人でいわゆる二度寝をして、目覚めた時にはもう時計は十二時を回っていた。そこから可憐は昨日シャワーだけで済ませたので髪を洗いたいという理由で風呂に入り、その間に私が簡単な朝食をこさえて、彼女が風呂から出てから一緒に食べた。それからドライヤーをして欲しいと頼まれて、ソファに座る私の足元の床にちょこんと可憐が座り髪を乾かされている。
まだ二人揃ってパジャマで、私はラフなスウェット、可憐はシルクのシャツにショートパンツ姿でリビングにいると、時間の流れがやけにゆっくりに感じた。
「髪伸びたね」
「今なら、傑より少し長いでしょ?肩よりあるから。」
「伸ばしてるんだっけ?」
「うん、そうだよー」
「どうして?」
「んー、長い方が好きって、言われたから」
「え?」
「ん?ごめん、なんて言った?」
「..いや、誰に言われたんだい?」
「えっと、それは、」
「....あれ、誰だっけ。」
ドライヤーを持つ手が一瞬止まる。だって、私はその相手を知っているから。
可憐はもしかしたらもう覚えていないのかもしれない、満開の桜が美しかった、ひとつ下の後輩たちの卒業式の日のことを。
彼女が別れを決めた相手が、それを言ったに決まっているのだ。何かの決意を込めて短く切った髪を、あの日からずっと可憐はずっと伸ばしているのだから。
「.....嫌だなぁ。私が言ったんだよ。」
「...ふふ!そっか、」
何かを気にするでもなく笑う可憐に咄嗟に嘘をついてしまったことを後悔した。
(そんなの、七海に決まっているのに。)
学生時代から、硝子にはバレていたが、私も悟も可憐の事が好きだった。悟の気持ちはわからないが、私はどちらかと言えば、彼女が幸せになってくれたらいいと思うタイプで。だから、可憐が一つ下の後輩に当たる七海と付き合うようになり、よりよく笑うようになりとても幸せそうだったのを、心から喜んでいた。
あまり笑わず無愛想で一見可愛げのない七海は、第一印象こそよくはないかもしれないが、実は人に対して真摯でとても真面目で、信頼が置ける後輩だったし、真剣に可憐のことを想っていることもよく伝わっていた。だから、二人には幸せになって欲しいと思っていたのだ。
その気持ちに嘘はない。
だからこそ、幸せだったのに、好き同士だったのに、手を離した二人のことは心配だった。
もちろん呪術師をやめるという七海の選択も、別れるべきだという可憐の選択も、私は否定することは出来ない。
それでも、彼女の天与呪縛がわかった時に七海にも話せばよかったのではないか、そうしたらもしかしたら可憐も呪術師を辞めて七海について行く選択肢も選べたのではないか。考え出したらきりがないが、もっと良い手はなかったのかと思ってしまう。
しかし、残酷なことにもう過去を変えることは出来ないのだ。
今一級呪術師として生きる事を選んだ可憐の隣に恋人としているのは私で、それを簡単に手放せるほど大人ではないし、現にその後輩と彼女がまた会える保証なんて何処にもない。
だからこそ、怖いのかもしれない。
七海のことはきっと覚えている、でも恋人だったということは忘れているかもしれない可憐がまたその事を思い出し傷付くのが怖い。いや、それによって自分の手を離されてしまうのが怖いのかもしれない。
もし、この先、七海と可憐が会うことがあったとしたら、私はなんて言うのだろうか。
―――――彼女の幸せを一番に願えるだろうか。
「傑、傑、乾いてる!乾いてるよー!」
「...あぁ。すまない、熱かった?」
「んーん、大丈夫。どしたの、眠い?」
「いや、ちょっとぼーっとしただけ」
「そ?
ドライヤーしてくれてありがと!わたし傑にドライヤーしてもらうの好きなの、」
「いつでもするよ。」
「ありがと、」
私の方を振り返り笑う可憐のまだ少し熱を持った髪を撫でる。
「可憐」「ん?なに?」
「愛してるよ。」
「......それは反則...。」
「ははっ。」
立ち上がる可憐の腕を引き膝に座らせて向かい合うと、少し恥ずかしそうにして、彼女は結んでいない私の髪に触れて、それを耳にかけて悪戯に笑ってから小さな声で耳打ちをした。
「わたしも、愛してる。」
「....誘ってる?」
「まだお昼でーす。セクハラでーす。」
「じゃあ、夜はいいってことだ。」
「ふ、馬鹿じゃないの、ほら、出掛けよ?」
抱き寄せて、口付けをする。触れるだけそれをして口を離すと顔を赤くした可憐と目が合った。
「何処行く?」
「...化粧品と、サングラス買いたい。」
「お付き合いしますよ」
「サングラス、いいの選んで?」
「もちろん」
「っあ!」「ん?」
「ベランダで植物育てたいから、お花屋さんも見にいこ」
「枯らさないかい?」
「やってみなくちゃわからないじゃん!」
「とりあえず、花瓶探して花を買ってこようか」
「...まずはそこからにする。」
少し不服そうな顔をする可憐の頭を撫でると彼女はするりと膝から降りて立ち上がり、支度してくるね、と寝室へ足を向けリビングを出て行く。
「行ってらっしゃい、」
―――――――私は、可憐を幸せに出来ているのだろうか。彼女の幸せの為に、必要ならば自分の幸せを手放すことが出来るだろうか。
ふと脳裏に過った、後輩の姿を打ち消すようにして立ち上がる。それと同時に、嬉しそうに笑っていた可憐の姿も目に浮かんでしまう。
(私も大概、重症だな。)
いまは、こんな世界に生きているからこそ、なんて事のない幸せをしっかりと噛み締めたいと思うのだ。
たとえ、失われた記憶の上に上書きしたような幸せだとしても。
それで、大切な彼女を幸せにしていると言えるのだろうかと思ったとしても、その答えを彼女に聞く勇気はどこにも無かった。
それでも、
『わたしも、愛してる』
目の前の可憐からの言葉に嘘なんてないのだから。それに今は溺れていたい。
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20△△年3月。
五条、夏油、家入、可憐が高専を卒業してから五年の月日が流れた。
「今、なんて言った?」
「だーかーら。七海から電話が来たって言った。何回言わすの」
高専の応接室に、夏油は五条に呼び出されていた。ソファに浅く腰掛けテーブルに脚を投げ出す五条に何も言わず夏油は向かいに座る。その表情は少しだけ困惑の色が見て取れた。
「戻ってくるよ、七海。」
「そうか。...いい事じゃないか。いつ?」
「証券会社の引き継ぎやらなんなら済ませて退職してからだから、多分二ヶ月後くらいらしいよ。
ってか、...それ本心?」
「それって?」
「いい事じゃないかってやつ。」
「....何が言いたい?」
「可憐、取られちゃうかもよー?」
「取る取られるって表現は良くないな。可憐はモノじゃないんだから。それに、七海ならブランクがあっても優秀だろうし、呪術界としては万々歳だろう」
「はーあ。傑は大人だねぇ。僕が傑の立場だったら無理。」
「じゃあ、今は無理じゃないんだ?」
「僕は、可憐にとってずっと友達だからさー。なんかあれば、その時守れたらいいよ。」
「...そうか。」
「僕だって、幸せになって欲しいって思ってるよ?」
「知っているよ。」
夏油はソファに寄りかかり不意に窓の外を眺める。久しぶりに晴れたこの日、朝から可憐は嬉しそうに洗濯を干していた。いまは家入のところで、久しぶりにお喋りに花を咲かせていることだろう。
夏油と可憐が付き合っているのは高専に出入りのあるものなら誰もがもう知っている。彼女の天与呪縛について知っている人間はごく一部のため、彼女が夏油と常に行動をする理由としてはとても便利な面もあったため、隠すことはしていない。とは言っても呪術師自体数が少なく、いくら高専に出入りがあってもそこまで呪術師同士接点がないのも現実で、今回ばかりはそれが功を奏し可憐の事が必要以上に漏洩したことはこれまでない。
それに加え、討伐任務のレベルの高さから、可憐は一級の中でもかなり優秀だと一目置かれていて、そんな彼女が記憶に制限があるなんて、誰も思わないのもまた事実なのだ。
「もう、四年だよ。七海が此処を出て行ってから。」
「あぁ、そうだね。」
「可憐にとっては傑と付き合ってる方がもう長い。」
「....あぁ。」
「...覚えていると思う?」
五条はテーブルから脚を下ろし、ソファに深く座り直すと身体を少し前のめりにして、少し低い声で尋ねる。夏油はそんな五条を見て少しだけ考えてからゆっくり口を開いた。
「七海のことは覚えているだろう。
この前灰原が教師になるって話をした時、灰原のこと、ちゃんと覚えていたしね。」
「それ以上は?」
「恋人だった、というのに関しては何とも言えない。」
「....そりゃ、そうか。」
可憐の【人】に関する記憶の制限は、名前と顔は一致していてもその人と自分の関係性や思い出を忘れてしまうパターンと、そもそもその人のことを覚えていないパターン、それから完全に覚えているパターンが現時点で確認されていた。
夏油の考えは、七海という存在を後輩として覚えているが、恋人という関係性を覚えているかははっきりわからないというものなのだろう。
「....七海に話すかい?天与呪縛のこと。」
「今更?
学長、僕たち、硝子、伊地知しかこの話は知らないんだよ、灰原だって知らないのに。
伊地知は、もともと後輩で可憐も覚えていたし、傑達の任務の時に補助監督を固定した方が漏洩防止も兼ねて良いってことで学長が話したけど、今更、七海と灰原にも話すのか?
今更可憐の知らないとこで話すなら、学生の時に話せばよかったんだよ。」
「...そうだね。」
「可憐が話してないなら、僕たちが話すのはおかしいって言ったのは傑だろ。」
「.....あぁ、その通りだよ。」
「七海が来て、可憐が後輩ってこと以外覚えてないならもうそれはそれだよ。
どうしようも出来ない。
記憶の戻し方なんて分かってないんだから。」
五条の言葉に、夏油は困ったより小さく笑う。その表情を見て、五条の眉間に僅かに皺が寄った。
「.....なぁ、悟、
私は、後輩が戻ってくるのは、本当に嬉しいんだよ。」
「........知ってるよ。」
「だから、しんどいんだろ。」
「ふ、さすが....最強だね。」
「七海が戻ってきたとしても、普通に接したらいい。僕も硝子もそうするしね。
可憐には、事前には知らせなくていいと思う。どのみち会うのは時間の問題だろうし。」
「七海はきっと、異変に気がつくよ。そしたらどうする?」
「その時は、」
「私が全て、七海に話すよ。それでいいね?」
五条は何か言いかけたようだったがそれを飲み込み、小さく溜息を吐き、もうこれ以上何を言っても前言撤回はしないであろう親友に小さく「わかった」とだけ答えた。
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「猫瓏、傑、遅いね?」
あの日は確か、梅雨が明けたばかりで、突然暑くなった気温に、繁忙期が始まる予感が少しだけ憂鬱にさせる。
背中の真ん中より長くなったわたしの髪は湿気が大敵だったから、梅雨明けは嬉しかったけれどこの暑さはよろしくない。少し乱れていた髪を一度解き高くポニーテールに結び直す。
朝から一件だけ休みの日なのに任務が入ってそれをこなしてから報告を兼ねて高専にきて、傑が報告に行って終わるのを待っていたが喉が渇いてしまって自動販売機で適当にお茶を買い、傑を待つ間、猫瓏を呼びだしてグラウンドがよく見えるベンチでそれを飲むことにした。
「あっ、あれ、ちょっと猫瓏!」
隣に座り大人しくしていた猫瓏が突然鳴き声をあげると走り出して何処かに行ってしまう。そんな事滅多にないので驚いて、飲みかけのペットボトルに蓋をするのも忘れて追いかけた。
自動販売機がある場所を通り過ぎて、高専の入り口の方へかけて行く猫瓏はとても速くてそう簡単には追いつけない。
「...猫だもんな、」
苦笑いをしながら追いかけると、長い階段を降りていった猫瓏がその途中にいた、おそらく階段を登って来た人の肩に飛び乗ったのが目に入り、わたしはつい驚いた声を出してしまった。
猫瓏は、誰かに危害を加えることはないがあまり懐くこともないのだ。ましてや、見知らぬ人の肩に乗るなんて有り得ない事で、気配なんて微塵も感じないがもしかしたらどういう訳か呪霊が入り込んでしまったのかと慌てて階段を降りる。
階段の途中に立っていた人は、逆光で顔こそはっきり見えないが高専ではあまり見かけないスーツを着ていた。ベージュのような色のセットアップに、深い青が美しいシャツに不思議な柄のネクタイをつけていて、どうやら気配的にも呪霊ではない。うん、当たり前か。
そのスーツの人に猫瓏はまるで甘えるような声を出して擦り寄っていて、普通の猫のように毛は抜けたりしないが、私の中でスーツは汚してはいけない気がして慌てて階段を降りながら猫瓏を呼ぶ。
「ごめんなさい、この子私の式神で、」
「はい。知っています。」
「...え?」
少し不服そうな鳴き声を出してからわたしの足元に来た猫瓏を抱き上げて、そのスーツの人と同じ階段に立つ。梅雨明けの眩しい光がその人を照らして、よく見えなかった顔がようやく見えた。
美しいブロンドの髪をきっちりと分けて、珍しい形のサングラスをかけていて。その奥にある目とわたしの目が合う。見覚えのある、優しい目。それが誰のものだったか、少しだけ時間がかかったが思い出す事ができた。
「....七海?えっ、ほんと?」
記憶の中にあるその名前の人よりも、背が高くなってずっと逞しくなったその身体に、スーツがとてもよく似合う。優しい目はサングラス越しだが記憶の中のそれと同じで、でもなんだか大人っぽくって(スーツ自体を見慣れていないからもあるだろうけど)、自分の導き出した名前に少し自信が持てなかった。
「はい、七海です。七海建人。
お久しぶりです。...藤堂さん。」
七海建人、
わたしたちの一つ下の後輩。
あまり笑わなくて一見無愛想だけど実は優しいところもある真面目な後輩。
そうだ、まるで猫のような彼に、猫瓏はよく懐いていた。
「呪術師に戻ることにしました。」
梅雨が明けたばかりの、夏の暑さの気配が少しずつ近づいて来た日に、きっちりとしたスーツに身を包み、かつての後輩が高専に戻ってきた。
「おかえりなさい、」
かつての面影を探してみたりして
おかえり、ななみん!
と言いたいところですが、夏油さんに感情移入しすぎて書いてて心が忙しいです。笑
七海さんが戻る西暦ですが多分2013年かなぁと計算はしていたんですが、自信なかったので20△△年で誤魔化してみました。笑