「わっ、やっぱりすごいね。なんか空が近い気がする。」
「そこまで高層階じゃないよ。悟の家行ったことある?」
「ううん、ない。」
「ここよりもっと上だよ。」



高専から車で三十分ほどで着く都内の高層マンションの十二階の角部屋。一人で住むにはどう考えても広いその部屋は昨日までは夏油だけのものだったが、今日からは可憐の部屋にもなる。



部屋に入る前に、エレベーターを降りたところから見えた景色に可憐は嬉しそうな声を出す。その傍らには大きなキャリーケースがあって、中にはあまり多くなかった荷物が詰め込まれている。




そう、今日は引っ越しなのだ。
可憐が同期である夏油の部屋へ。
記憶を制限された彼女が、安全に暮らせるための一つの対策として。













意識を取り戻した可憐は一週間かけて少しだけ弱ってしまった身体のリハビリをし、それからまた一週間以上かけて、記憶に関する様々なテストを行った。これは可憐の記憶が現時点でどのように変化しているか、どのような影響が出ているかなどをじっくりと調べるもので、予定よりも時間がかかってしまったもののやはり【居場所】と【人】に関しての記憶は制限されていた。



高専内でいわゆる迷子になる事はなくても、一歩外に出てしまうと途端にどうやって来たのか、どうやって戻ればいいのかがわからなくなってしまう事が圧倒的に多かった。五条の進言もあり、夏油の家に身を寄せることになったため何度か夏油の家にも足を運んだがその時の彼女の状態にも左右されるが室内でも少しだけ迷ってしまうことも確認された。


また【人】に関しては、夜蛾の予想通り、高専時代から付き合いのある人間のことは質問されても答えることが出来たが、任務で数回しか会った事ない術師や補助監督に関しては名前も出てこないことが多く、会ったことがあるかないかさえ曖昧なことも多かった。




あらゆる方面からのテストは、可憐にとって精神的にもダメージは大きいものだったはずだが不満も不安も漏らすことなく淡々とそれをこなし、五条、夏油、可憐が特級呪霊討伐に向かった日から約一ヶ月後、季節がやっと秋めいてきた頃、これまで高専の寮や医務室に泊まる生活をしていた可憐はようやく引っ越しの日を迎えたのだった。














美しい秋晴れの日に
真新しいわたしをどうぞよろしく













夏油の部屋は、玄関を入り廊下の先に大きめのリビングダイニングがあり、それ加えて部屋が二つとトイレと風呂はもちろん別々になっている間取りだった。リビング以外の二つ部屋は、一つは元々夏油が寝室としてもう一つは特に目的もなく荷物置き場として使っていたが、荷物置き場の方は可憐の引っ越しが決まってから彼女の寝室として使えるように片付けた上でベッドはもちろん、クローゼットや小さいドレッサーまで用意していた。


テストの際に何度か部屋には来ていたが、自分用の寝室がここまで綺麗に出来上がっていたとは思わなかったのか、その部屋に荷物を置くように夏油に案内された時、可憐は目をパチクリさせた。






リビングは、広めのキッチンと四人まで座れる木のダイニングテーブル、それから茶色のレザーの大きめのソファと小さなローテーブルが置かれているだけのシンプルな作りになっている。







「わたし、傑は和室が好きかと思ってた」
「え、どうして」
「寮の部屋に、炬燵あったから」
「あぁ。あれね。炬燵好きなんだけどこの部屋にはどうにも合わないからさ、」
「..ふふ、確かに。」

所謂デザイナーズマンションという括りに入るのであろうこの場所に、確かに昔ながらの炬燵は相性が悪い。少しそのアンバランスさを想像して可憐は小さく笑う。キャリーケースを寝室に運び入れると、ひとまず二人並んでソファに腰掛ける。四人くらい余裕で座れそうなソファに身体を沈めると、なんだか気が抜けてしまう。身体をふかふかのそれに委ねて、ぼんやり天井を眺めながら、ふと可憐が口を開く。










「ね、傑」「ん?」
「一応聞いても良い?」
「なにを?」
「彼女いない?」「...は?」
「いや、彼女じゃなくてもいいんだけどさ?ほら、お家に定期的にくる人とか」
「うーーーん...悟?」
「えっ?!」
「え?」
「待って待って待って、悟と傑ってえっ、そういうこと?え?ほんと?」

「いや、違うよ。なんか壮大な勘違いをしていると思うけど。」
「全然偏見とかないから!ほんとに!隠さないでいいよ!!内緒にできる自信は...一応ある!!」
「....一応なんだ。」
「えっ、やっぱり、」
「違うよ。定期的にくるっていうなら悟くらいしかいないって話。」
「綺麗なお姉さんとかこない?それでわたし殺されたりしない?」
「ないない。」
「ほんともし誰か来るときは言ってね?硝子のところ行くから!」
「わかったよ、」
「あっ、悟とイチャイチャしたい時も」「悟が来る時は可憐もいて問題ないよ。」
「そか、ありがとう。」
「一応言っておくと彼女とかそういうのもいないから安心して。ここの部屋の鍵持ってるの私と可憐だけだよ。」
「悟は?」「しつこいよ」






昔から変わらない悪ノリもするけれどちゃんと冷静にでも優しくツッコミを入れる夏油に可憐は笑ってしまう。いつだって、夏油は優しいのだ。だから、彼女も五条も、きっと家入もなんだかんだで彼には甘えてしまう。











「ほんとにわたしと住んで良いの?」
「それ何回聞くんだい、」
「多分あと十五回くらい」
「結構聞くんだね」
「そりゃさ、悟の言いたいこともわかるよ?悟か傑と一緒に任務に行くことになるなら、傑と住んでた方が楽だっていうのはわかるし」
「悟も実家の方でゴタゴタしたりで忙しかったり、なんたって教職もやってるからね」
「でもなんか流石に傑に悪くない?」
「そう?私としては歓迎だけど」
「っえ、そうなの?」
「一人で暮らすのなんだかんだ寂しいんだよね。寮生活に慣れてたからかな?」
「なるほど、」
「じゃあ、こういうのはどう?可憐が私に悪いなって思うなら少しは楽になるかも」
「なに?」
「家事、手伝って欲しいんだよね」
「えっ」「だめかな」
「いやいやいや、なんなら家事わたしが全部やるでも良いくらいだよ」
「家政婦さんじゃないんだから、それはだめ」
「じゃあ、わたしがやや多めの半分こね」
「お菓子じゃないんだから。」







料理、洗濯、掃除、と指折り家事を数える可憐の髪を不意に夏油が優しく撫でる。その温もりに少し驚いたように彼女は隣を見ると、夏油は優しく微笑んだ。




「なんかついてた?」
「いや?」
「そ?」
「可憐。」「ん?」
「これからよろしくね。」
「もちろん、こちらこそ!
不束者ですが、どうぞよろしくお願いします。」
「はは!新妻か!」
「言ってみたかったのー!」









無邪気に笑う可憐の手が、僅かだがずっと震えていることにも、心なし何処がずっと怯えた表情をしていることにも、気が付かない夏油ではなかったが、今はまだ、どうにか自然に笑おうと努力する彼女に、いつも通り接するのだった。










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その日は荷物を片すことを専念して、夕飯は近くのデパートに出向きテイクアウトすることにした。夏油はテストの時に可憐が何度も高専以外の場所に行き、その度に崩れそうな笑顔を見せているのを知っている。

だから、テイクアウトに出かけるのも躊躇したがそれを彼女が押し切ったのだ。夏油はひとつだけ条件を提示した。




















「なにも、手を繋がなくてもいいんじゃない?」
「いいじゃない。迷子にならないよ?」

まるで子供をあやすような声色で話す夏油に可憐はため息をついて繋がれた手を見る。彼女の手より大きくて厚い手は、とても暖かい。可憐は半ば諦めたように一歩下がっていた場所から隣に並ぶと、夏油はその手を離して彼女の腰に手を回した。









「っえ?」
「ほっそ。ちゃんと食べてるかい?」
「食べてるよっ!!最近トレーニングしてないから筋肉が落ちたの!」
「ふぅん。ほら、着いたよ、何食べる?」
「あの、腰の手やめて?」
「ん?」
「...くすぐったい、」
「あぁ。そゆこと。じゃあ、手貸して」
差し出す前に握られた手に関しては、もう可憐は何も言わなかった。小さな自分の体の震えがおさまっていたこともわかっていて、彼女は和洋折衷さまざまなものがある所謂デパ地下で今日の夕飯を探すことに専念することにしたようだ。











「傑は、何食べたいの?」
「んー、中華とか?」
「あーー、同意。エビチリ!肉まん!」
「その二つ好きだよね、可憐は昔から。」
「杏仁豆腐も好き」
「そしたら、中華買っていこうか。」
「結構お腹空いてるなら、わたしサラダを盛り盛り食べたいからそれも買う。」
「盛り盛りって...」
「ちなみに、エビチリも盛り盛り食べる。」
「ふ、了解。」






中華のテイクアウトができる店を見つけ、二人はエビチリや肉まん、そしてサラダ、他にも春巻きや餃子も注文し分担してそれを持つとまた手を繋ぎ帰路に着く。信号待ちをしている時、残暑が終わった夕方の風が少し肌寒くて、少しだけ可憐が夏油に身を寄せた。


「あったかいお茶でも淹れて食べようか」
「いよいよお爺ちゃんみたいだね。」

















二人で揃ってダイニングテーブルで中華を広げて、食事をする。久しぶりに二人だけでの食事はなんだか新鮮で、会話が途絶えることはなかった。夕飯の片付けは夏油がすることになり、その間にシャワーを浴びることを可憐にすすめると彼女は寝室から着替えとタオルを持ってリビングに戻ってきた。そんな彼女を夏油は念のため浴室まで案内する。




「過保護だなぁ、」
「何もないなら無い方がいいだろう。」
「まぁ、たしかに」
「ごゆっくり。疲れただろうから、そのまま寝てもいいからね?可憐の寝室は、」
「わかってる、ここ出てすぐ向かいの部屋。」
「はい、ご名答。」

ひらひらと手を振りながら夏油がリビングに戻るのを確認してから、可憐は服を脱ぎ浴室へ入る。帰宅してすぐに夏油がお湯をためてくれた湯船にゆっくりと浸かり、目を閉じる。少し緊張していたのか身体が緩んでいくのを感じた。








「......あったかい、」
小さな言葉は湯気の中に隠れて消える。
















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時間にすればそこまで長いことお風呂に入っていた訳ではないが、着替えてからドライヤーまで終わらせて、肌を整え歯を磨く。どっと疲れが出てしまい、そのまま向かいの自分の寝室へ可憐は入ると吸い込まれるようにベッドに倒れ込んだ。

ベッドの横に置かれた小さなテーブルに、開いてない水のペットボトルを見つける。
「出来る男か、」ペットボトルを見て可憐は小さく笑った。おそらく夏油が置いたそれをベッドに座って飲むと、また枕に顔を埋めるようにして寝転がる。















何処にいくにも身体が強張る。
それに引っ張られるように心が緊張する。
身体は小さく震えてしまう。
ただただ普通に何処かに行くだけなのに、なんてことのない行動なのに、自分が何処にいるのかわからなくなるというだけで、こんなに世界というものは冷たくて残酷なものになってしまうのか。




目を閉じて眠ってしまおうと思っても、可憐の心は何かに飲み込まれてしまいそうなのが怖くて、身体を休ませてはくれなかった。








「....かっこ悪いなぁ、」
消えてしまいそうな呟きは、彼女の心の奥から出た本音。小さく震える身体を抱きしめるようにベッドの上で丸まってみても、暖まったはずの身体はどうしてかどんどん内側から冷えて行くような気がした。

















「.....可憐?寝たのかい?」
その時、ドアをノックする音と一緒に聞こえた優しい声に彼女は身体を起こすと、部屋に入ってきた声の主である夏油と目が合う。不安に支配されそうだった心が急に安心したのか不意に可憐の頬を涙が伝う。








「...あ、れ..?」




夏油はゆっくりと近付き、ベッドの上がると、その片隅に置いてあった薄手のブランケットを可憐にかけてそのまま優しく抱き寄せる。彼女の頭が夏油の胸元にくるような体勢になった。













優しい温もりに包まれると、可憐の目からきっと彼女の意思とは関係なく涙は止まらなかった。夏油は何も言わずに彼女の頬を伝う涙を優しく拭う。可憐は彼の胸元の服を弱々しく握り、震える声で彼に謝った。









「..ごめ、ん」
「謝ることなんて何もないだろ」
「....いまだけ、もう、泣いたりしないから、ちょっと、...まって..」
「どしてもう泣かないの?」
「.......だって、」
「ずっと、無理しすぎだよ。


意識戻った日からずっとさ、泣かないで無理してるだろう?無理に笑ったりして頑張り過ぎ。


泣いても良いんだよ、可憐。
そばに居るから。」







それ以上涙がこぼれないように可憐はゆっくり呼吸をしてから口を開く。












「....す、ぐる」「ん?」
「..こわい、すごくこわいの」
「...うん。」
「....でもね、」「ゆっくりでいいよ。」
「わたし...ちゃんと、頑張りたい」

「知っているよ。だから、私も悟も硝子もいる」
「.....うん、」
「だから、無理しないでくれ。」
「....ごめん」

「いつでも泣いていいよ。
その代わり、一人では泣かないこと。」
「...うん、」

「約束できる?」
「...傑はたまに、わたしを小さい子だと思ってるでしょう、」



「そんなことないよ、ほら約束は?」
「.....わかった」「よし、」






「ねぇ、」
「なんだい。」



「今日だけ....一緒に寝てくれる、..?」



「いつも一緒でも構わないよ?」
「....ばか」
「私の部屋のベッドは、背があるからダブルにしてあるから一緒に寝ても狭くないよ。」
「..いいです、」
「連れないなぁ。」
「そゆこと、簡単に言うと、美人なお姉さんに言うとき信じてもらえないよ」
「そんなのいないって」
「これから出てくるかもしれないでしょ」


「可憐」「..ん?」
「....いや、何でもない。」











「今日は一緒に寝よう」
「....うん、」





「可憐、いつだって私は一緒に寝るし、手も繋ぐよ。だから、安心して。」














「泣いたっていいし、
怖いときは怖いって言っていいんだよ。

心に嘘をつかないっていうのは、大切なことだから。



ね?」



身体を一度離し、可憐の目を見て頬に手を添えて真剣な顔の夏油に言われた言葉は、彼女がそれまでどうにか堪えていた涙を溢れさせるのには充分過ぎた。












「....はい、良くできました。」
子供のように声をあげて、夏油の胸元に顔を埋めて、堰き止めていた涙が溢れて止まらなくなってしまった可憐を優しく抱きしめて、夏油は彼女に気付かれないように髪に優しくキスを落とす。












(もう遠慮しないって、決めたから)











優しさの中に、溺れてしまえばいいんだよ
さぁ息をしてごらん



















夏油さん編でした。
ときめきます。夏油さん。笑
優しい、ひたすら優しい。好き。((え






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