うん、悪くはなかった。
わたしの人生って、全然悪くはなかった。

















同じ入り口から病院に入ったはずなのに、振り向いたら近くにいた二人の姿は見えなくて、病院そのものが呪霊の領域になっていることに気が付いた時にはもう遅かった。わたしの前に現れた、わたしと背丈が変わらない卵のような呪霊はみるみるうちにその殻を破り両生類の様な爬虫類の様な、なんとも言えない風貌で、ニタニタと笑いこちらを見ていた。こいつはきっと、今この瞬間に成ってしまったのだ、特級呪霊というやつに。人間が扱う言語とは程遠いそれで何かを言っていて、理解するのは初めから諦めて、冷静に呼吸を整える。

元々の報告にあった特級呪霊は、おそらく悟か傑の所にいるはずで、入った瞬間から分断された所から考えれば目の前の呪霊はわたしが祓うしかない。自分の命が犠牲になろうともそんなことはどうでもいい。









悪くなかった。
わたしの人生が仮に此処で終わっても悪くない。唯、目の前のこいつさえ祓えれば、全くもって悪くない最期だ。








人を喰った呪霊からは、とても嫌な匂いがする。それを嫌って猫瓏はわたしの肩の上で威嚇する様な声を出していて、瓏鷹は無意味かもしれないが共に此処に入った二人を探しにに向かわせた。






猫瓏に空気中の水分を集め、呪力を込めて身体を大きくする。肩に乗る猫が、あっという間に狩りをする虎くらいの大きさになり、猫瓏の威嚇は迫力を増した。











「さーて、行くか。」
やけに頭の中はクリアだった。幾度も共に戦ってきている猫瓏を撫でて、大きく呼吸を吐いてからわたしは禍々しい呪力を出す目の前の呪霊に意識を集中させる。イメージは限界まで多く作った氷柱に閉じ込めること。猫瓏と共に直接呪霊を叩きながら、隙を見て閉じ込められたら上々だ。











「氷樹蓮。」
集中力を高め、自分の呪力を最大限に引き出して術式を発動させた。

































―――――――うん、悪くない。悪くなかったよ。わたしの人生。






身体全身が痛み、視界が歪む。恐らくあちこちから血が出てて、仰向けでわたしは倒れていて。どのくらい経ったのだろう、三十分くらいは経ったのだろうか、無我夢中になりすぎて自分の傷と流し過ぎている血に関してはもうよくわからなくなっている。いつもなら体力だってちゃんと計算して闘えるのにそう上手くはいかない。
歪み霞む視界の片隅で力を振り絞りこちらに来ようとする猫瓏が見えた。助けなきゃ、猫瓏が消えてしまう。いやそもそも、恐らくまだ消える気配のない特級呪霊を祓わないことには意味がない。
















「っ、....!!」

―――――-今やらなかったら、後悔する。



仮に死んだとしても、後悔するよりマシだ。
(あぁ、わたしも大概狂っている。)
人間、死ぬ気になれば最後の力はいつもよりも膨大に発揮できたりするんじゃないか。
(いま、出来ることをしなくては。)




















――――-わたしは呪術師なのだから。



























「瓏神氷蕾...っ!!」






消費する呪力の膨大さと、わたしの体力が見合わなくて技として完成していても使うことは出来なかった瓏神氷蕾。
一時間以内に術式を使い空気中の水分を水や氷に変えたものを一度全て見えない水分に戻し全てひとつにまとめ上げ、式神に全て還元し、式神が呪霊を取り込むというもの。闘いの中で消された分の水分も一時間以内のものならば全て還元されるため、式神に集まる水分の量は膨大で、ほとんどの呪霊を取り込むことができる。式神の中に取り込まれた呪霊は水の中で人間で言う溺死の様な形で祓われ、呪力が失われると式神は元の大きさに戻るというものだ。























―――――うん、これで良かった。


自分の中で何かが壊れるような感覚があって、不意に全身の痛みが遠のく感じがした。禍々しい呪霊の気配を感じなくなって、身体の力が抜けてしまうのと同時に、わたしは意識を手放した。















(わたしの人生、結構よかったと思うの、)
























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八月二十八日
□□県の廃病院における特級呪霊討伐任務に特級呪術師五条悟と夏油傑、一級呪術師藤堂可憐が派遣。

計二体の特級呪霊と三体の一級呪霊を祓除。
なお、藤堂一級呪術師は意識不明の重体である。





















無機質な文字でタブレットの画面に記される文章を何度読み返しても現実は変わらない。
タブレットの電源を落とし立ち上がると、医務室の奥にあるベッドで眠る可憐を家入は静かに腕を組み見つめる。

あの日、家入のもとに運ばれてきた可憐は血だらけで、氷の様に身体は冷たかった。運んできた夏油の服には彼のものと彼女の血が混ざってこびりついていたし、一緒に任務に行っていた五条と夏油も珍しく多数の怪我を負っていたが、それが霞むくらいに可憐は重症だった。




休みを入れつつも、丸々二日家入は彼女の手当てに費やし、傷も塞がったものの意識だけは戻っていない。明日になれば、任務の日から一週間が経ってしまう。いつも感情を顔に出さない家入も、流石に彼女を見る目は辛そうだ。そんな家入に、昼間医務室にきた五条も夏油も何も言うことは出来なかったし、二人もまた誰も声をかけられないほど憔悴していた。







【特級呪霊討伐】という天与呪縛に変化を及ぼすきっかけとなりうることを、可憐は成功させた。誰も闘いを見ていた訳ではないから定かではないが、呪力も体力ももうほとんど無い状態から特級呪霊を祓除するほどの力を発揮したのならば、それは恐らく劇的に呪力量が向上したに違いない。つまり、彼女の記憶は今後制限されてしまう可能性が大きくなった訳だが、そんなことがどうでも良くなる程に、いつまでも可憐の手は氷の様に冷たいのだ。









記憶がどうであろうと、まずは生きていなくては意味がない。生きていなくては、駄目なのだ。知っていたはずなのに、死ぬかもしれないという可能性は誰しもが無意識に脳内から消してしまっていたらしい。











「なぁ、可憐。そろそろ寝過ぎて、猫瓏が怒り出すんじゃないか。」

家入の小さな呟きは、闇に溶けてしまって、きっと何処にも誰にも届くことはない。

















抗える訳もなく。
きっとありふれた運命が真横を通り過ぎてゆくのだ




























「....こ、こは、」
曖昧な視界の中で、手を伸ばす。白い天井がやけに眩しくて目を逸らした。





「...生きてる、」
小さくつぶやくと口の中が乾燥して痛くて驚く。カーテンが突然開かれると、天井に向けてただ伸ばされた手を硝子が握った。










「...あれ、硝子、わたし生きてる」
「いつまで、寝てんだ、この馬鹿。」
「へへ、ごめん」
「五条達呼んでくるから、待ってて。
まだ立ち上がったりするなよ、一週間以上寝たままだったんだ。まだそのまま寝とけ。」





医務室から硝子が出て行く音がして、離された手をだらんとベッドに投げ出す。身体がびっくりするくらいに重くて、頭が割れそうに痛い。でもその痛みが生きていることを教えてくれる。













「....どうして、だっけ。」


空気の中に、わたしのなんてことない不思議がふわりと浮いてすぐに消えてしまった様な気がした。

















時にそれを定めともいうらしい、
運命というやつ
















それから、肩で息をした悟と傑、それから学長が医務室に慌ただしく入ってきて、涙こそこぼれてなかったが、今まで見たことのない様な崩れてしまいそうな表情で、わたしに声をかけてくれた。そこでやっと、わたしは死にかけていて、奇跡的にいま息をしていることがわかった。











そして、その奇跡の代償について、学長が順番に分かりやすく教えてくれた。その代償が、重いのか軽いのかは今のわたしには全然わからなかったけど。









わたしはこれから、【居場所】と【人】に対する記憶が極端に制限されてしまうこと。
それと引き換えに、特級呪霊さえも抑え込める莫大な呪力と動体視力を得たこと。

そして、その影響で起こりうることをなるべく避けるために行動範囲を最低限にし、任務は悟か傑と同行。また傑と一緒に暮らすということを説明された。








わたしが知らないところで、みんなが考えてくれていたのであろう、わたしの生きる道。きっとわたしがこの世界から出て行くことはあり得ないってわかってくれた上で考えてくれた最善策。わたしのことを見る、心配そうな表情の、真剣な声色だけで、もうわたしが言えることなんて何もなかった。












「....ありがとう、」


誰かに忘れられることは、その人の中で誰かが死んでしまうとの同じことだと思うのに、わたしはどんどん誰かを何かを忘れて行く。いっそ忘れられる側だったらよかったのに、なんてそんな事を願っても現実はこれっぽっちも変わらないから。ただただ生きて行くしかないのだ。










不意に悟がわたしの頭を撫でて小さく聞いた、
「俺との、約束覚えてるか?」と。







久しぶりに聞いた懐かしい口調に、わたしは小さく笑って頷いた。













『一人で、泣かない』
そんな約束もいつか、忘れて消えてしまうのだろうか。












そしたらどうかもう一度、約束してくれるだろうか。

























可憐ちゃんの秘技は
瓏神氷蕾(ろうじんひょうらい)です。
セリフの中に読み仮名を入れていたんですが、シーンとしてもシリアスだったのであえて入れずに書きました。どうでもいいかと思うんですが読み方を一応紹介です。笑





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