プロローグ








今思えば、自分の目を真っ直ぐに見て無邪気に笑った彼女に心はすぐに奪われていたんだと思う。







「青空みたいな目の色!」
そう言いながら顔を覗き込んで来た彼女の目は、夕焼けみたいなオレンジ色で。






そのオレンジ色の中に自分が映って溶けてしまうような錯覚に陥って何も言えずにいると、右手を差し出されてその日から忘れる事のない名前を教えてくれた。









「はじめまして!
わたし、可憐!あなたのなまえは?」





まだ何処か拙い話し方とその声は、今でも昨日のように思い出せる。子供同士の自己紹介なんて記憶の片隅にも残るはずないのに、覚えている。だって、その時は気が付かなかったけれどあの日からどうだっていいと思っていたこの世界が、がらりと表情を変えたのだから。








「...五条悟、」
「あ!五条家のおぼっちゃん!」
「は?」
「わたし、左京家のお嬢さん!」
「自分で言うのかよ、ばーか」
「ばかって言ったらだめなのよ!」
「うるせー」








五歳とか六歳とかまだこの世界の事なんて何も知らなかったような時に彼女と出会った。それを境に自分から見えるこの世界は変わったんだからこれを運命と呼ばないで、なんと呼ぶかなんて分かるはずがないんだ。










ブルーモーメントのきみへ
いっそのこと、
青と橙色が溶けて混ざり合ってしまえばいいのに。
















「あ、そーだ。次の授業、二年と合同ね」
「めっちゃ急!」
「体術に変更ー。二年の授業、傑がやるからそこに混ぜてもらって」
「五条先生、任務ですか?」
「うん、午後からね。その前にちょっと寄りたい所があってさ。悪いけどよろしく」




野薔薇にも言っといてね、と付け加えながら五条悟は立ち上がる。授業の終わりのチャイムが鳴ってすぐにトイレに行ったらしい釘崎の椅子に座っていた五条は、教室に残される事になる二人の男子生徒にヒラヒラと後手を振りながら教室を出て行った。







「先生どこいくんだろ」
「さぁ、なんだろうな」
「でもまぁ次3限だし午後から任務なら移動も考えて早めに出たいのかもしんないしね」
「...そんな事まであの人が考えてたら今頃伊地知さんは苦労してねぇよ」
「んー!確かに!まっ、俺座学より体術のが好きだし、釘崎待って早くグラウンド行こうぜ」
「ああ。」


気まぐれが平常運転の五条に生徒達は何かを特別気にする様子もない。すぐに別の話題にすり替わった。










 















ピッ、ピッ、ピッ、
という規則正しい音だけがやたら大きく聞こえる部屋は、シーツや壁も白に統一されてカーテンさえも淡いベージュ色だ。



ベッドの近くには精密機器が置かれ、備え付けの布団の上にはブランケットが掛けられている。窓の近くには写真立てや花瓶が飾られている棚もあり、簡易的な椅子も置かれていた。










「綺麗じゃない?ガーベラ」


五条はクリアでシンプルな形をした花瓶に手慣れた手付きで部屋の中に備え付けの水道で水を入れてオレンジ色のガーベラを二輪挿した。



彼が声を掛けた相手は白いベッドで横たわったまま、応答はない。精密機器に繋がるコードはその人の生命運動だけをあらゆる数値にして表示する。







「可憐の目の色に、よく似ててさ買っちゃったよね」


花瓶を窓際の棚に置いて、五条はベッドの近くにある簡易的な椅子に腰掛ける。いつもと変わらぬ口調で話しかけながら、可憐と呼んだ女性の頬に優しく触れた。



五条の声にも、触れられた事にも、反応せず目を閉じてまるで御伽話の中に出てくるお姫様の様に眠ったままでいる彼女はとても美しい。
焦茶色の綺麗な髪は肩に触れる程のストレートで乱れることも無く、いつだって整っている事だろう。








「本当は授業だったんだけど、傑に一年も二年もまとめて見てもらう事にして来ちゃった」



「まっ、この後任務の予定なんだけどさ明日からまた出張入れられてて、ちょっと次いつ来れるかわかんないからさぁ。」



「マジで人使い荒いよねー。僕そのうちキレちゃうかも」



「そういえばもうすぐ交流会なんだ。僕たちの時もあったよね、ほとんど遊んでたようなもんだけどさ」









一方的な会話は、眠ったままの彼女への近況報告ばかりで相槌が打たれる事はなくても身振り手振りを加えながら五条は話していたが、不意に口を閉ざした。












「...可憐」



優しく彼女の前髪に触れて額に手のひらを添えた。そのまま自分の額と彼女の額を合わせて小さく名前を呼ぶ。何度も、何度も風が吹いたら消えてしまいそうな声で。



可憐のベッドしかない、白だらけの病院の個室で五条のその小さな声は誰にも聞こえない。










「あと少しだからさ..本当にあと少しだから。

約束、忘れないで。
大丈夫だから..絶対大丈夫だから。」



額を離して手を握る。
何度も繰り返す言葉は、五条が自分自身にも言い聞かせているような気もした。






オレンジ色のガーベラが生けられた花瓶の横に置かれた写真立てには、学生服に身を包んでいる五条と、今はベッドで眠っている左京 可憐が二人で腕を組み楽しげに笑う写真が入っている。


美しい白髪に黒くて丸いサングラスをつけた五条の隣にいる彼女は、オレンジ色の目を嬉しそうに細めていた。
















――――――左京 可憐

彼女が呪術界において自他共に認める最強の男、五条悟の最愛の人。







今は白いベッドの上で目を閉じたままの彼女と五条が、いつかまた、写真に映る二人のように並び笑い合える日が来るのかはまだ誰にもわからない。



世界の均衡さえもその掌の上にある男は、今日も人知れず会いに行く。

たった一人の、最愛の人に。

どんなに話しかけても、手を握っても頬に触れても、言葉一つさえ返してくれない最愛の人に、会いに行くのだ。











これは、誰よりも強い彼がなんて事のない幸せを取り戻すまでの物語だ。


くだらない事に溢れる世界なんて、
君のためにいとも簡単に壊せるのに。

君が笑う事さえ出来ない世界を、
君は大切だというから僕は守らなくてはならない。


その先に、
また君が笑ってくれる未来があると信じて。

今日もまた僕はこの世界を生きていく。












「..また来るよ。可憐」

君が好きな花を探して、真っ白い扉をまた開けるから、どうか待っていて。









- ナノ -