目の縁に紅をひき、唇にも微かに紅を乗せる。

魔除けの意味もある化粧を施し、黒地に白い糸で花が刺繍された着物を身に包んで。

帯は化粧と同じ紅色で、家紋がついた帯締めをキュッと締めれば背筋が伸びた。





肩につく焦茶色の髪に椿油を付けてから櫛で整えてから、バードゲージベールと呼ばれる黒いネットで顔が隠れるヘッドドレスを付ければ可憐の身支度は完成だ。




自室である和室に置かれた鏡台の前で、身支度を整えると可憐は軽く息を吐き出す。









今日は、五条家で当主就任の儀式が執り行われる日。


五条家と縁が深い左京家の当主である彼女にとっても大切な式典だ。当主に就任してから、表舞台に顔をほぼ出した事がない彼女が緊張するのも無理はない。











「平常心、平常心。大丈夫、わたしは大丈夫」


小さく何度もそう呟いて、ヘッドドレスの位置を少しだけ調整すると可憐は鏡台に置かれている小さなネイビーの箱の中から指輪を取り出した。








「..よし。行こう」

右手の中指に、シルバーの指輪をはめると立ち上がる。背筋を伸ばし、静かに自分の部屋を出ていく彼女の姿はとても凛としていて、美しい。













―――――――二〇一三年 秋



この儀式の日を境に、
二人の運命が、再びまた少しずつ交わっていく事になるとはまだ誰も知らない。

















時計が止まってしまったのなら、また丁寧にねじを巻いてみるよ。そしたらきっと、何もなかったかのように動き出せる筈だから。




















「左京家当主様、入られます」







その声のあと、大広間の襖が開かれるとそちらに部屋にいた誰もが目を向けて空気が少し騒めいた事は私でもわかった。





この儀式において、付添人というのは特に何かやる事がある訳ではない。主役である悟の横に控えて祝いの品を時に受け取ったりする位で、どちらかと言えば悟がよく話している御三家に関係する人間達を観察する機会を与えられたようなものだった。




呪術師として特級を持っていようと、術師の家系出身ではない私は御三家やら術師の家柄に関しては知っている事の方が少ない。



御三家が絶妙なバランスで力関係を保っている事と、五条家が悟のワンマンチームである事は知っているがそんな事は術師をしていれば何となくわかる事だ。



そんな私でも、【左京家】という名前が出ると場の空気が変わる事はすぐに気が付いた。五条家の懐刀である左京家の当主が今日この場に来るらしいと、こそこそと話しているのも聞こえるくらいだ。




もちろん、その噂の当主というのが可憐だという事もわかっているのだが私が思っている以上に彼女は守られ、人の目につかないように生きているらしい。









天才という噂だぞ
とはいえ数百年振りの逸材と同世代では肩身も狭いだろうに
誰も見た事がないのだから実在しないのではないか?
前当主がひた隠しにしているのだろう




何処の誰かから聞いたかもわからない噂話さえも盛り上がる程に彼女の存在は謎に包まれていて、この儀式で悟の次に注目を浴びている事はきっと私だけではなく悟も気付いている筈で。









様々な思惑を持った人達の注目を浴びながら、大広間に入ってきた女性は顔が隠れてしまう髪飾りのせいで表情こそよく見えないがとても美しい所作で一番奥に座る悟の元まで足を進める。



大広間の入り口から、悟と私がいる場所まではそれまでに挨拶をしにきた人達が道を開けるように左右に順に座っていて、みな正座をして軽く頭を下げながらも可憐の事をチラチラと見ていた。



可憐の一歩後ろを前当主の彼女の父親が歩き、一段高い場所で椅子に腰掛ける悟の前まで着くと音も立てずに二人は膝を着き正座をする。



三つ指をつき、頭を下げて。
発せられた可憐の声は学生時代と変わらずよく通る美しい声をしていた。










「お初にお目に掛かります。

左京家当主、左京 可憐と申します。

先代、先々代、それ以前から所縁があるにも関わらずご挨拶が遅れました事、大変申し訳ございません。


この度のご就任、誠におめでとうございます。心からお祝いを申し上げますと共に、今後益々のご健勝をお祈りしております。



また、左京家といたしましてはこれまで以上に五条家をお支えし、今後とも呪術界繁栄の為努力していく所存にございます。至らぬ事も多いかと思いますが、今後ともどうぞよろしくお願い致します。」








述べられた言葉はとても丁寧で、これまで悟に挨拶にきた人達の中で一番心の籠っているものだった。しかし、二人が幼馴染である事も恋人同士であった事も、彼女の術式の事も知っている私としては聞くのが辛くないとは言えない。

私以上に悟にとってはダメージが大きい挨拶のように思えたが、彼が今何を思っているかまでは表情からは読み取れなかった。










「....人払いを。」


悟がそう指示を出せば、五条家の使用人達は速やかに対応する。流れるようにそこにいた客人を部屋から出す様に動き出せば、あっという間に大広間には悟と私、それから可憐と父親だけが残された。













「楽にして頂いて構いません。」
「..お心遣い感謝致します。では、失礼して」





可憐は悟の言葉に何処か嬉しそうに頭を上げると髪飾りを外す。肩に触れる長さの髪が風に揺れて、見えなかった表情も見える様になる。















―――――――少し大人びた表情をした、彼女のオレンジ色の目が、蒼い目の悟を真っ直ぐに捉えた。













「改めまして、左京可憐です。

五条家の新たな当主様を、力の限りお支えしていけたらと思っております。今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます。」




「当主となりました、五条悟です。

...昔から所縁のある左京家をこれからもお守り致しましょう。ご当主も、周りの声が煩わしいかと思いますが気になさらずに。五条家は何時でも味方で御座います。」









悟の僅かな動揺さえも上手く隠した挨拶に、可憐は瞬きをして少し驚いた顔をしたが安心した様に微笑んでお礼の言葉を述べると悟の目を真っ直ぐに見て言葉を続けた。










「青空の様な、美しい眼の色ですね」




ふわりと笑った可憐のその表情は驚く程に昔と何も変わらなかった。まるで、時が止まっていたかのように。











「..貴女も、夕焼けの様な綺麗な眼をしていますね」









一瞬、詰まった悟の言葉。
まるで初めて会ったかのように話す彼女の言葉が全てを意味しているのだろう。

けれど、突き付けられた現実さえも素知らぬふりをして優しく小さく微笑んで話せる程に悟ももう子供ではないのだ。








「本日は、誠におめでとうございました。またお会いできます日を楽しみにしております。」

可憐が深く頭を下げて最後にそう挨拶をして、顔を上げてから髪飾りを付ける。それから、また静かに立ち上がり父親と共に部屋を出て行った。



儀式の客人は彼女達が最後だった様で、襖が閉まるのを見守ってから悟はすぐに立ち上がると何もなかったかの様に私の名前を呼んだ。






「あー、疲れた疲れた。とっとと帰ろ」
「..ああ、そうだね」





いつも通りの口調の悟に、すぐに私が何かを聞ける筈もなく。正座のせいで痺れた脚をどうにか従えて、私もその場を後にした。






















「昨日はお疲れ、悟」
「ん?あー、全然。
むしろ傑もお疲れ。付き添い人やってくれて助かった。」
「私は全然。よそ行き仕様の悟が見れて面白かったよ」
「何それ」







五条の当主就任の儀式の翌日。

高専の教員室でデスクに足を乗せて何やらパラパラと資料を見ていた五条に声を掛けたのは、任務から戻ってきた夏油だ。







「昨日、着物の着てたからかな。なんか背中が凝ってるんだよね」
「えー?そんなに筋肉あんのに?ウケる」
「やっぱりあれは慣れてないと厳しいね」
「とか言って、案外似合うとか思ってるでしょ」
「さぁそれはどうだか」



例の如く、教員室には二人以外誰も居らず夏油は適当に五条の隣の椅子に腰掛けると長い脚を組んで少し考えてから「元気そうだったね」と呟いた。






「可憐?」
「..そう。大人っぽくなってたね、着物のせいもあるかもしれないけど」

「あの着物さ、左京家の当主の正装なんだよ。昔、可憐の父親が着てて綺麗だってよく言ってた。」

「へぇ、じゃあ今は可憐しか着れないんだね」

「そ。父親のを仕立て直したんだろうし、嬉しかったと思うよ。いつか着たいって言ってたし」

「なるほど。さすがよく覚えてるじゃないか」
「そりゃね。覚えてるよ」







五条の口調があまりにいつも通りで、夏油はそれ以上何を言っていいかわからなくなってしまう。手持ち無沙汰になってポケットに入っていたスマホを取り出して特に目的もなく操作する。








「...可憐さ、僕が昔あげた指輪付けてたんだよね。右手の中指に」

「え?」
「お守りがわりにってあげたやつだったんだけど、昨日それ付けてたんだよね」

「だったら、悟の事もしかして覚えてるんじゃないのかい?」
「いや?それはないね、確実に」







資料を机に置いて脚を下ろすと、座り直して五条は夏油の方を見て強く言い切った。








「何故?」

「青空みたいな眼だって、言ってたでしょ」

「..ああ、確か青空の様に綺麗な眼だって言ってたね」

「そ。だから、僕の事は覚えてないよ」
「だからどうして?」




「何歳だったかなんて覚えてないけど、初めて会った時そう言われたから。

僕の目を見て、初対面なのにそう言ったの。
だから、昨日が可憐にとっては僕と初対面って事。」



「...指輪は?」
「さぁ、たまたまじゃない?

だけどあんな儀式の場に付けてくるなら普段からもしてくれてんのかもしれないし、ちょっと希望が見えたかも」



「希望?」







眉間に皺を寄せる夏油に、五条は学生時代の頃を彷彿とする子供の様に笑う。







「記憶は無くても、どっかに破片みたいに僕の事が残ってるかもしれないでしょ。

これで、もう何も気にせず僕は可憐に会いに行ける。」

「当主にもなったし、お父さんにも話もつけたし、ね?」

「そゆこと。...まっ、後は僕がやるべき事をやるだけだね」












―――――――悟のこと、よろしくね

かつて可憐が残していった手紙に書かれた言葉が夏油の中で不意に思い出される。










「ああ、そうだね。」











―――――――可憐、きっと悟はもう大丈夫だよ。今も昔も変わらず、君の事しか見えていないんだから。







親友の密かな決意を大袈裟に応援する訳でも、無理だと否定する訳でもなく、ただただそっと今まで通り何でもない様に夏油が返事をすると五条は満足気にポケットに詰め込んでいたらしいアイマスクを付けて青空の様な眼を隠した。





「さー、任務行くかー」
「行ってらっしゃい」





ヒラヒラと手を振り、気怠そうに出ていく五条を見送ってから夏油はふと手に持ったままだったスマホのロック画面に目を向ける。




卒業式に撮った、四人での写真。
最後の四人で撮った写真は、全員が笑っていて。



また四人で並ぶ事さえも、叶うかどうかは五条次第だという現実に夏油だって気が付いていた。










「...残酷な、話だね」

神様がいるなんて、
信じている訳じゃないけれど。
そう呟かずには、いられなかったのだろう。














さぁ、はやく、止まった時計の針を動かして。















東京郊外にある廃れた神社。
昼間だというのに人が誰もいないその場所から、近くに停められている黒塗りの車へと歩いてくる女性がいた。



膝丈の黒いワンピースは、特殊素材で出来ていて指の付け根まで覆う仕様になっているが肘から下はレースの様な見た目で美しい。


グレーのタイツを合わせ、黒のローファーを履いている彼女は左京 可憐。


控えめなオレンジっぽいアイシャドウと朱色の口紅のバランスがよく似合う。肩までの髪は少し乱れたらしく手櫛で整えながら歩いている。






左京 可憐はその術式により付与された天与呪縛の影響で基本的に一人で任務に出向く。人目がない場所が殆どだが、人目がある場合は自分で特殊な帳を下ろし対応する。


任務に付き添うのは基本的には小さな頃から彼女の身の回りの世話をしている付き人の女性だけ。母親よりも少し年上のその女性は、可憐に昔から【漣(れん)】と呼ばれている。
主な仕事は車の運転などだが、呪術師でもあるので結界術のサポートをする事も時にはあるらしい。可憐と同じくらいの背格好だが髪が長く美しい黒色をしていていつも低く結っている。目鼻立ちが美しい女性だ。





この日も二人で任務に出かけ、可憐はなんの問題もなくそれを終えて車に戻って来たのだが、出迎えたのは漣だけではなかった。











「..お疲れ様でした、お嬢様。」
「お、つかれさま?」




「お疲れサマンサー!」






車の前で待っていた漣の横にいたのは五条な訳だが、アイマスクで眼を隠し全身黒の服を着ていたのではすぐに彼だとわかるはずもない。



まして可憐は数週間前の当主就任の儀式でしか彼を見た事がないのだから。




困った顔をしている漣に、可憐も不思議そうに五条を見る。眉間に皺を寄せて考える様な顔をしてから、何かを思い出したように何度も瞬きをした。







「もしかして、五条家の当主様ですか?」
「あったりー!さすが、よくわかったね」

「漣がいながらにして、部外者をわたしの任務地まで入れるなんてあり得ませんから。」

「優秀な付き人って事だね」
「..恐れ入ります。」

「わざわざご当主様がここまでいらっしゃるなんて、何か急用でございますか?」

「んー?ううん、全然?」
「えっ」





ますます困った顔をして彼を見上げる可憐。五条は揶揄う様に笑ってアイマスクを首まで下げると、青空の様な目で彼女を見た。






「僕と、ご飯行かない?」
「..へっ?」
「これで任務もうおしまいでしょ?まぁ、時間的にお昼ってよりおやつだけどさ」
「確かに任務はもうないですけど、でも」
「ん?」
「任務以外で必要以上に..外に出たりはしないので」
「うん、勿論知ってるよ」
「..だったら、」






二人とも背が伸びていて、学生時代よりも目線が高い。女性の中では背が高い部類に入る可憐も、成人男性の平均身長よりも遥かに高い五条の前では小さく見えてしまう。


車に軽く寄りかかっていた五条が身体を起こし、可憐と向き合うと二人の目に互いの目が映り込んだ。








「危ないから出歩かないんでしょ?

だったら、僕とだったら大丈夫じゃん。ほら問題なし!だから行こ!」

「...ですが、」

何処か困った様に眼を伏せる可憐を見て五条は言葉を続ける。




「五条家と左京家の関係性とか気にしてるのかもしれないけど、僕たち同い年だし当主同士だし、対等でしょ。」

「左京家は、五条家に護られている家です。..対等だなんて、滅相もございません。」

「まぁこれまでは確かにそうだったかもしれないけど、この先はどうなるかわからない。でもこれからの呪術界を引っ張っていくのは僕達の世代だ。だから、親睦を深めるっていうのはアリじゃない?」






その言葉に可憐は何も言えず、でもどうしたらいいかわからない顔をして漣の方を助けを求める様に見る。





「..可憐様、先代から許可は頂いております。」

「..えっ?」
「五条様でしたら心配する事もございません。お嬢様がお望みでしたらぜひ、お出かけ下さいませ」



予想外であったであろうその言葉に可憐は驚いた顔をしたまま何も言えずにいると、漣は優しく微笑んで言葉を続けた。









「いつだって家の為、呪術界の為に頑張っていらっしゃる事をこの漣は知っていますよ。

たまには、若者らしく外で遊んでいらしても大丈夫です。楽しんでいらして下さい。」

「よっし、じゃあ決まり!
帰りも家まで送るから安心して。」

「よろしくお願い致します。」




あれよあれよと話が進む中、可憐が慌てて「待って待って!」と右手を挙げる。







「ほ、本当に?」
「勿論。僕、嘘ついたりしないもん」
「...わたしと、当主様で、ですよね?」
「うん、そりゃそうでしょ。てか、その呼び方やめて?同い年って言ったじゃん」
「..そうです、けど」









少しだけ唇を尖られせて伏し目がちになるのは可憐の困った時の癖だ。昔からのそれに五条が気付かない筈もないのだが、気にもせずそっと彼女の髪に触れる。










 


「んー、そうだな。
なんでもいいけど悟って呼んでよ」

「..五条さんじゃ、だめでしょうか?」
「えー、僕は名前で呼ぶのに」

「..さ、悟さんからでも、いいですか?」

「うん、勿論。」










その時、五条がとても嬉しそうに笑ってた事を知っているのはきっと可憐だけだろう。



(ちょっとずつ、また動き始める二つの時計の気配をどこかで感じたりして。)






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