あのね、別れてほしいの
好きなの、誰よりもいちばん。

けど、一緒にはもう居られないんだ










消えてしまいそうな声で紡がれた言葉。
涙を浮かべた彼女を抱き締めたくて手を伸ばすのに、触れることはできなくて。















「....っは、」



呼吸が苦しくなって、目が覚める。
無機質なコンクリートの見慣れた天井が目に入って、夢から覚めたのだとすぐにわかった。



息を深く吸って、吐きながらそのまま起き上がる。ひとりで眠るには大きすぎるベッドは、五条が立ち上がると真っ白いシーツに皺を残した。




広めのベッドルームとリビングが主な間取りになっているこの部屋は、五条が暮らすマンションの一室。

タワーマンションではなく、ワンフロアにひとつの部屋しかないこの低層タイプのマンションは少しだけ彼のイメージには合わないかもしれない。しかし、最低限でしかもシンプルな家具しか置かれていないその部屋は、まるでモデルルームのようで高級感に溢れていた。





洗面所で水で顔を洗うと、少しずつ意識がはっきりとする。タオルで顔を拭いて、適当に化粧水をつけると五条は歯ブラシに歯磨き粉をつけて口に咥えた。




自分が使った化粧水の横に、
もうひとつ化粧水の瓶が並び
彼が歯ブラシを使っていても、
洗面所にはもうひとつ歯ブラシが置かれている。












―――――――二〇一六年
五条が虎杖達の担任になる前の年。




まだこの部屋には、
五条だけでなく他のだれかの気配があった。


キッチンに並んだ色違いのシンプルなふたつのグラス、玄関の脇に置かれた小さなスリッパ。
ベッドサイドの小物入れの中にある華奢なネックレス。





それは当然のことなのだ。
少し前まで、ここには五条と一緒にもうひとりが住んでいたのだから。










歯磨きをしながら、リビングのカーテンを開ける。そこに広がった青空は、五条の眼の色とよく似ていた。







『おー、今日洗濯日和だね!』

不意に、聞こえるはずのない声を探してしまう。








「.....」

眉間に皺を寄せて、五条はカーテンを閉める。
リビングにあるダイニングテーブルの上に置かれたスマホにはもう既に伊地知からのメッセージが入っていた。




美しい外の天気から逃げるように、五条はリビングからまた洗面所へと戻る。消すことの出来ない、どこまでも感じる気配からも逃げるようにして。












無いものばかりに目がいってしまう。
もっと探せば、
あなたの温もりはあちらこちらにあるはずなのに。目の前にどうしても、あなたを探してしまうんだよ。





















―――――――二〇〇九年 夏。









「おめでとう、可憐。」
「ありがと、傑!」



五条と家入が揃って任務に出ているこの日は、休日で高専での授業はない。とはいえ、高専最終学年である五年生になった彼らはもう授業よりも任務の方が多い。ましてや夏の繁忙期なら尚更だ。


しかしながらこの炎天下で二人はどこかに出かける訳でもなく、高専近くのスーパーに買い出しに向かっていた。




二人の話題は、昨日可憐が満を持して一級呪術師に昇級したことだ。Tシャツにハーフパンツの夏油と、半袖の黒いワンピースを着た可憐は二人ともラフなビーサンでペタペタと炎天下に晒された道を歩く。









「二年生になってすぐ一級になった傑に言われてもなぁ。卒業したら特級認定確定でしょ?」

「まぁまぁ。私は術式も珍しいしね」

「何言ってるの、傑は術式的には近接苦手でもおかしくないのにバリバリ強いし、クレバーだし言うことなしの特級だよ」

「ははっ、ありがとう」
「傑はずっと安定して強いからすごいよね。悟とかわたしはなんかムラがあるもん」
「まぁ悟は性格もあるだろうけどね」
「それは間違いない。」
「私だって荒れて迷惑かけた時あったろ」

「えーっと、三年のときだっけ?
灰原と七海が任務先で大怪我して帰ってきて大変だった後のすっごい田舎の村の任務のやつ?」

「そうそう。あの時はちょっと精神的にきてたかも」

「でもさ、そう言う時同級生とか仲間がいるのっていいよね。あの時も傑が体調悪そうって話になって悟と硝子と美味しいお蕎麦探したりしてさ、ふふ、懐かしい」








少し伸びた焦茶色の髪を、茹だる暑さを少しでも減らすために可憐は高く結い上げている。
その髪が風に揺れるのをぼんやりと夏油が見ていると彼女と目があった。






「お取り寄せ蕎麦パーティ、またいつでもやってあげるね」

「うん、よろしく頼むよ。」
「わたしの時は何がいいかなぁ、なんでも嬉しいけどお取り寄せして美味しいアイスとか!」

「可憐になんかあった時は、ひとまず悟の力量次第だろう?」
「慰めたりするの苦手そうだけどなぁ」
「そこはまずは彼氏を頼らないと」
「んー、まぁ確かに。でもみんなでお取り寄せアイスパーティはしたい」
「じゃあ、何かのお祝いでしよっか」
「あ!わたしの昇級!」
「確かに。それもありだね」
「それかさ、卒業祝いにみんなで好きなものだけ買ってたくさん食べるのやろ!」
「そしたら悟と硝子にも何がいいかリサーチしないとだね」
「うん、そーしよ!七海達にも聞かないとね」







可憐はいつだって誰かのことを考えているときが一番楽しそうだ。

目的地のスーパーに着いて店内に入ればあまりに冷やされた空気に少しだけ驚いて、二人でお目当てのものを探す。

夕飯より早くには帰ってくる二人の同期も交えて全員で真夏に鍋をしようという無茶苦茶な計画を遂行するための買い出しだ。





「呪術師は夏に忙しいからさ、夏休みなんてあってないようなものだけど学生の夏休みは今年が最後って思うとなんか切ないよね」

「あー、確かに。そういえば、悟に聞いたけど実家に帰るんだって?」

「そう!八月の末って言ってるけど任務入りそうだし、九月になっちゃいそうだけどね」
「またお父さんと訓練かい?」
「ちょっとはやるだろうけど、今回は話があるって呼び出されてるの。」
「話?」
「ほら、卒業してからどうする?みたいな話だと思うんだけどさ」






現在の高専の仕組みは、卒業してから一年間はそれぞれ自由に過ごしてから高専所属の呪術師として活動する事になっている。

しかし、五条、夏油という卒業と同時に特級認定が決まっている二人と一級を持つ可憐。

それから卒業後に一般の大学の医学部に編入し医師免許を取ることが決まっている家入という面々が揃うこの学年には特例措置として卒業後にすぐに呪術師として働く事を許可されていた。






「悟のお家は悟のワンマンなところあるから、当主どうこうとかも含めて今後のことは自分の好きに決めれると思うけど、うちはそうじゃないからさ」

「可憐も次期当主だもんね、いろいろ面倒だったりもする?」

「んー、どうなんだろ。
そこはお父さんと相談しなきゃかも。わたしは高専所属でそのままみんなと一緒がいいんだけどね」

「でも同じ呪術師なんだから、いつだって会えるから大丈夫だよ」

「ふふ、そうだよね、ありがと!」





葉物野菜に、お手ごろ価格なお肉。
豆腐にきのこに、
好奇心で選んだ新発売のお菓子やジュース。
夏油が持ったカゴはあっという間に一杯になって買い忘れがないか確認して会計へ向かった。










「今度誕生日きたら、みんな二十歳だって」
「思ったより大人にはなれなそうだね」
「あははっ、確かに!」





五年の月日は、彼女達を強くする。
それは勿論、呪術師としても一人の人間としても。そして、互いを信頼する絆も深くなる。



時に命を託す相手、時に命を捨てることを強要せねばならぬ相手。仲間という言葉は支えにもなるが時には苦渋の選択を迫る相手にもなりえるのだ。









「わたし、みんなが同期でほんとによかった」





大きなレジ袋を抱えて、暑さで茹だるような帰り道でも明るく笑った可憐につられるように夏油も表情が緩んだことは言うまでもないだろう。























少し先のことを言ってしまえば、
夏油と可憐が考えていたみんなの好きなものを食べる卒業祝いがされることはなかった。





卒業式の日は、
誰よりも嬉しそうに笑っていたのに。



いま、思えば
その瞬間をまるで記憶に焼き付けるかのように思えたりして。


























「可憐、今、君には二つの選択肢がある。」






「術式を放棄して、普通の女の子として生きるか


術式を放棄せずに、
二十歳になったら左京家の当主を継ぐか。」










その日は、
九月になったばかりで真夏日の気温だった。


可憐の実家にある彼女の父親の部屋は昔から変わらずよく整理されていて、その和室に着物で座る彼はいつもよりも何処か厳しい顔つきをしていた。


父親と向かい合うように可憐が座れば、あとから部屋に入ってきた母親が父親の少し後ろに腰を下ろす。






父親の唐突な言葉に、
可憐は何もいえずに瞬きをするだけ。




左京家当主、左京 宗滴と
その妻である左京 香耶乃(かやの)。

可憐を手塩にかけ育てた二人は、左京家の中だけでなく呪術界内でもかなり評価されている実力者である。









「当主、きちんと順を追って説明なさって下さい」


夫である宗滴の事を、香耶乃が「当主」と呼んだ事で可憐の背筋は少し伸びる。

今目の前で話されている事は、家族の中の会話ではなく【左京家】としての会話だとわかったからだ。










「可憐、君の術式は彌初花(いやはつはな)だね。」

「はい」

「左京家相伝のものの中でも珍しい術式の彌初花に関する情報は元々かなり少ないのは知っているね。」

「はい。それに結界術に纏わるものも多いので情報漏洩を防ぐ為にも書面で情報を残すことは少なく、口伝にて継承されていることが殆どです。」

「..そう、だから君の術式に関しても殆ど残されてはないんだ。しかも可憐の前にその術式を持っていた当主は江戸時代まで遡らなくては存在していない。」

「....悟と同じ術式で六眼持ちの術師が五条家の当主だった頃ですか?」

「そうなるね。でも、今私がしたい話に五条家は関係ないんだ」

「では、なんのお話ですか」






宗滴が深く呼吸を吐き出す。
それから背筋を整えて、真っ直ぐに愛娘の方を見た。







「彌初花を持った先の当主を側で支えていた側近が残した手紙が左京家の家宝として残っている。

そこには当主が二十歳になった時を境にして能力が底上げされた事と、記憶に障害が出た事が記されている。


そして、その当主は三十歳を少し過ぎて亡くなっているんだ。」






可憐は目を大きく見開き、母と父の顔を順番に見ると大きく深呼吸をする。





「...今と当時じゃ医療のレベルも違うし、三十歳で亡くなるのも珍しくないでしょ?」

「...そうだね。だから、可憐が彌初花を持って生まれた日からずっと調べていたんだ。」

「.....はい、」

「私の見解は、彌初花を持つ術師が二十歳を超えた時に天与呪縛を与えられる。

そしてあらゆる事を忘れていく事と引き換えに、呪力と結界術の威力が跳ね上がる。」

「...あらゆる事、」

「人や場所などを忘れていく記憶喪失とは違う。

身体があらゆる事を忘れていくんだ。生きる為の事をね」






どんな事でもわかりやすく噛み砕いで話す父親の言葉が、初めて頭の中にうまく入り込んで来ない感覚に可憐は戸惑う。

背筋が硬くなる感覚に襲われて、呼吸が浅くなっていることに気がついた。





「先の当主は、ある日突然眠ったまま亡くなったそうなんだ。...まるで、身体が生きる為に必要な事のやり方を忘れてしまったかのようにね」


「..いつか、わたしも呼吸の仕方を忘れて身体の動かし方を忘れていくと?」

「...そしてきっと、周りの人や場所などもだんだんと分からなくなる。」

「でも..呪術師としての実力は上がる?」

「左京家の人間が一ヶ所あたり五人がかりで結界を作っている鬼門を全て一人でしかも、オートで抑え込める程にね」








鬼門、と言う言葉が出ると可憐は少し驚いた顔をする。

日本には呪術師が人知れず押さえ込んでいる五大鬼門というものがあり、そこの結界が崩れると呪霊が雪崩れ込むと言われている場所だ。


その場所を結界術でよく知られている左京家が筆頭となり抑え込んでいるのだが、一ヶ所につき最低でも五人の術師を常にその場に置かなくてはならず術師への負担も大きく人手不足の呪術界にとっての課題でもあった。





その鬼門を全て一人で、完全に自動で抑え込めるならば左京家だけでなく呪術界にとっても大きな価値がある。







「.. その当主は、鬼門を抑え込めていたのですか?」
「ああ。左京家の別の書物にもきちんと記されている」
「...そう、ですか。」

「可憐」





頭の中の整理がすぐにはつかない様子の彼女に声をかけたのは母親の香耶乃だった。







「あなたの術式は左京家に伝わるものの中でも特別なもの。

生まれてすぐに、あなたが彌初花を持って生まれたとわかったわ。」

「...どうして?」
「不思議でしょうけど、あなたは生まれた時にこれを握り締めてたの」






香耶乃は着物の袖口から小さな巾着を取り出して、中のものを掌の上に優しく出した。

それは薄桃色の小さな勾玉で、可憐は初めて見るそれに驚いた顔で母親を見る。





「先の彌初花を持った当主の後にもね、一人だけ実は同じ術式を持った男の子が生まれているの。

その子も、小さな勾玉を握り締めて生まれていてね。

でも、その子は当主にはなっていない。
なぜだと思う?」

「..身体が強くなかった、とか?」

「いいえ。
子供の時にわざとでは無いでしょうけど、勾玉を壊してしまったのよ。家の他の子供同士で遊んでいる時に、何かの拍子で呪力が勾玉に込められてしまったんでしょう。」


優しい口調で話される言葉に耳を傾ける可憐の方を真っ直ぐに見つめて香耶乃は言葉を続けた。





「勾玉が壊れた途端、その子は呪力を感じることも呪霊が見えることもなくなってね。

術式はなくなり、普通の男の子になったの。」

「..えっ」

「そのせいで左京家から迫害されたとかそう言う話はないわ。左京家にも術式を持たずに生まれる人も少なくは無いからね。」

「..それはよかった」

「あなたが持って生まれてきた彌初花は、左京家にとって特別な術式。だから昔からずっと研究が重ねられているの。


今わかっていることは、
生まれた時に持っていた勾玉を壊せば術式はなくなるということ。

それから、
二十歳を超えると天与呪縛が与えられて記憶喪失の可能性があるということ。


そしてきっと、」






「天与呪縛から、十年後、その術師は生きているかはわからない。」









母の言葉を遮るように可憐が口を開いた。
その言葉にただ香耶乃は頷くと、そっと勾玉を巾着へと戻す。






「..当主。」
「なんだい、」


「二十歳になったら当主を継ぐという事は、誕生日が来たらすぐに実家に戻るという事でしょうか」

可憐は姿勢を整えて、父親の方に身体を向けると床に指をつき軽く頭を下げて尋ねる。





「いつどんな形で天与呪縛の影響が出るかわからない。

すぐに家に戻り、私が側近としてそばで支える形で当主として役割を果たしていってもらう事になるだろう。

結界術を使える術師は、術師本人が狙われる事も多い。

必要以上に外にも出ず、姿をなるべく隠して生きてもらう事になる。」

「....はい。全ては、左京家の為、呪術界の為に生きて行く覚悟は元より出来ています。」

「可憐...今すぐに判断する必要はないわ」

「...いえ、いつ判断しても答えは変わりませんから。」

「..それなら、」
「術式は放棄しません。

わたしは当主として生きていくことを変えません。



ですが一つ条件を飲んで頂きたく思います。」









床につく寸前まで頭を下げて、
紡がれた次期当主から現当主への頼み事。


きっと、
これは娘から父への最初で最後の願いだ。

















「呪術高専を、
 みんなと一緒に卒業させて下さい。」











震えることもなく伝えられたその言葉が
どうしようもなく切なく、でも頼もしく。

けれど、ささやかな願いと引き換えに彼女が差し出すものはあまりにも大きいなんてことはわかっているはずなのに。

あまりに真っ直ぐな目に、
何かを言う事はもう出来なかった。














「...卒業式の翌朝、迎えを行かせる。

それまでも何か些細な事でも変化があればすぐに報告するように。」



「..ありがとうございます。

次期当主として恥じぬ様、今後とも精進して行く所存で御座います。」








頭に浮かんだ最愛の人の顔から目を背ける様に、可憐は目を閉じて再び深く頭を下げた。














- ナノ -