秋の風が冬の気配を少しずつ連れてくるようになった頃。
可憐は任務が入っていない週末を選び、金曜日から久しぶりに実家に帰っていた。
「久方の雨は降りしきり、撫子が彌初花に恋しき我がせ」
古き良き日本家屋の中に、まさか訓練場があるなんて誰が思うだろうか。
その訓練場に、聞き慣れない古語が静かに響き渡っていた。
呪術界でも有名な家の一つである左京家は、結界術は勿論だが本家分家関係なく生まれる術師の質の高さにも定評がある。
その評価を裏付けているのは、持って生まれた術式の強さだけではなく幼少期から徹底的に施される教育だ。この訓練場もかつての左京家当主が建てたもので、これまでも何人もの術師がここで鍛錬を積んでいる。
現在の左京家当主
左京 宗滴(さきょう そうてき)。
可憐の父親である彼はもともとは本家とは縁遠い分家の出身であり、左京家との血縁はほぼないに等しい。
生まれ持った術式の弱さからも呪術師として生きていく選択肢さえも無かったであろう彼は本家の一人娘であった可憐の母親と出会い、決して強いものでは無かった術式を努力を積み重ね武器と変え、術師として認められ結婚し、左京家の当主となったまさに努力の人である。
そんな彼の娘である可憐は、左京家相伝のものの中でも珍しくそしてとても強い術式持って生まれた。
可憐に幼少期から厳しい訓練を課してきた宗滴だったが、それに答えるように娘もまた努力を積み重ね学生ながらにして一級相当の実力を既に持つまでに成長している。
「待てど来ぬ、君をやねたく山吹の彌初花を惜しみせん」
呪術師にとっての強さを推し量る物差しは様々だ。
術式、呪力量、身体能力、などあげ出したらキリがないがその中のひとつが【いかにシンプルに力を発動出来るか】にある。
術式の発動には、術式ごとに差があれど必ずしも呪詞・掌印・舞・楽と言った何かしらの手順を踏まなくてはならない。
その手順をいかに減らす事が出来るか、
呪術を極めるという事は足し算ではなく引き算を極める事なのだ。
可憐の術式・彌初花(いやはつはな)にも発動させるためにあらゆる手順が存在する。
普段はその手順を短くするために鍛錬を積んでいるのだが、今日はそうではない。
呪詞を唱えながら、舞を踊る。
軽やかで美しいその所作は彼女の術式の中でも難易度が高い結界術を発動させる為の手順。
左京家に伝わる術式の中で最強と名高い彌初花。可憐が鍛錬を積み重ね、既に扱うことのできる術式による技も結界術もかなりハイレベルだ。
それにも関わらず、手順の一切を省略する事なく発動させるその結界術は、並の術師では破る事は勿論、結界に気づく事さえも叶わないだろう。
「いざ、咲き誇れ。天香桂花(てんこうけいか)」
何もなかった訓練場に瞬く間に木々が生い茂り、季節の垣根を越えて様々な花が開花する。
しかし、その植物たちはほんの少し可憐を包み込むように現れてすぐに霞のようになって消えてしまった。
「....あっれー?」
何処か罰が悪そうに腰に手を当てながら可憐は訓練場の片隅で腕を組み様子を見ていた自身の父親の方を見ると彼に手招きされそれに従う。
―――――――左京宗滴
夏油と同じくらいの長身で、濃い灰色の着物に身を包み可憐と同じ焦茶色の短髪をオールバックにセットしている彼はとても端正な顔立ちだ。
組んでいた腕を解き、目の前に娘が来るとそれまで僅かに険しかった表情を緩める。
「流石にまだ高専二年で、天香桂花が出来るようになられたら困るからよかったよ。私の立つ瀬がなくなってしまう。」
「えー、今のは結構手応えあったんだけどなぁ」
「舞の精度も上がっているし、あとは呪力の込め方じゃないかな。私もこの結界術が出来る訳ではないから憶測だけどね。」
「お父さんの結界術にはまだ勝てないかー。」
「だから、そう簡単に抜かれたら私の立場がないんだよ」
父親の言葉に楽しそうに笑いながら可憐は身なりを整える。普段から高専の制服で任務にも出るので訓練も同じ服装だ。
宗滴が腕時計に目をやれば、可憐も覗き込む。
まもなく昼時を指していて朝から訓練場にこもっていた二人は顔を見合わせた。
「お母さん、今日のお昼ご飯何って言ってた?」
「可憐が来ているなら外で食べるつもりなんじゃないか?」
「わ!ほんとに?楽しみー!
でも明日帰るからお母さんの豚汁はどこかでお願いしよっと」
「相変わらず好きだね、母さんの豚汁」
「おうちの味ってやつだもん、寮で食べるのとは違うからさ」
「娘にそう言われたら母さんも張り切って作るんじゃないかな」
優しく笑う父親に可憐は肩をすくめると少し弾んだ足取りで訓練場を出ていく。
久しぶりに見た娘の背中は、父親からはどう映っているのだろうか。
何もかもを知れるはずがない。
目の届かぬ場所で、人知れず咲く花のように。
あなたの強さも弱さも、知らずにいるのかもしれないのだから。
「そういえば、悟君とは上手くやってるのか?」
実家で週末を過ごし、早めの夕飯を済ませた日曜日の夕方。
実家から高専まで可憐は父親の車で送ってもらう事になり、助手席で鼻歌混じりに外を眺めている彼女は父親からの予想外な問いかけに思わず鼻歌のリズムを乱した。
「...う、うまく、とは」
「あれ、付き合ってるんじゃないのか?」
「..んーーーー?」
実の親に言った記憶のない幼馴染との交際を尋ねられ動揺しない年頃の女の子の方が少ないだろう。
交際のことを言うべきなのか隠すべきなのか悩んでいるのか、言葉を濁す時点で正解を見せているようなものなのだが可憐は一生懸命に言葉を探しているようだった。
「悟君から聞いたんだよ。夏の終わりじゃなかったかな、任務の帰りにうちに寄ってくれてね」
「....えっ?」
「どうせ可憐は報告しないだろうからって。お付き合いさせて頂いてますと、私と母さんに挨拶しに来たんだよ。」
その様子じゃ知らなかったね?と何処か楽しげな父親の横顔を可憐は何度も瞬きをして見る。
「悟君も随分大きくなったね、男としても呪術師としても立派になったじゃないか」
「そんな、小さい子供じゃないんだから」
「小さい時から知ってるからね、大きくなったと思うんだよ」
「..ふーん」
「それにしても、付き合ったのは流石に驚いたなぁ」
「...それはね、わたしもびっくりしてる」
「でも、父親としては何処の馬の骨かも知らない男と付き合われるよりよっぽどいいよ」
「そういうのがね、過保護っていうの」
「男親なんてみんなこんなもんさ」
「えー..」
「悟君なら、私も母さんも安心して任せられるよ」
赤信号で、ゆっくり踏み込まれるブレーキ。
滑らかに車が停まると、宗滴は助手席の可憐の方を見る。どこに目を向ければいいか分からずフロントガラスから見える景色をぼんやりと見ていた娘の頭をポンポンと小さい子供にするように撫でた。
「大切にして貰いなさい。
それから、お前も彼を大切にしてあげなさい。」
「..うん、ありがとう」
青信号に変わる直前ようやく父親の方を見た可憐は何処か恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑っていた。
◇
張りぼてだらけの校舎は、広さに対してそこにいる人間が少な過ぎていつだって広々としている。
秋の乾いた風が吹き込むグラウンドにいる学生はたった五人で、だだっ広いグラウンドがより寂しく見えた。
「硝子は?」
「一級案件の任務に付き添いで行ってるよ」
「へぇ、だから俺らと一年で合同授業な」
「体術の合同授業は久しぶりだね、楽しみ。」
黒い揃いのジャージ姿で五条と可憐は軽くウォーミングアップをする。夏油は長い髪を結び直すと二人に混ざった。
「実家で鍛えてきた可憐の成長が見れるのも楽しみだよ、私は。」
「うっわ、嫌なこと言うなぁ。そんな数日戻ったくらいで劇的に変わるわけないのに」
「いーや、親父さんとどうせ訓練場に篭ってたんだろ?」
「うん、割とそうかも」
「ほらみろ。それなら劇的に変わってもおかしくねぇよ」
五条の言葉に可憐は首を傾げてながらグラウンドの方に目を向けて右手の人差し指と親指を擦り合わせる。その手元に気がついた五条は「なに、新技でも試すの」と尋ねた。
「っえ、なんで」
「なんかやけに緊張してるみたいだから」
五条の言葉に驚いた顔をしたのは可憐だけでなく夏油もで、何度も瞬きをして自分を見る二人に五条は思わず眉間に皺を寄せる。
「だーかーら、昔から可憐は普段通りじゃない時に指を擦り合わせるんだよ。」
「へぇ、そうなのかい?」
「あっ、んーー...でも確かに癖かも」
「すごいじゃないか、悟。可憐の事だとよくみてるんだね」
「..うっせ!」
「で、可憐は新技?」
夏油の言葉に、今にも悪戯をしそうな子供みたいな笑顔を見せた可憐。
彼女が実家で鍛え上げてきた新しい技に、同期である二人も後輩二人も苦戦させられたのはまた別のおはなし。
「何が劇的に変わらないだよ、バーカ」
「まっけおしみー」
合同授業が終わってから、迎えた昼休み。
近くのコンビニへ買い物に行きたいという可憐に付き添ったのは五条で、夏油は早々に食堂へ向かった。
高専からそこまで離れていない目的地につくまでの間先程の授業の事で文句を言う彼に、可憐は楽しそうに笑うだけ。
「上手くできてよかった、実戦でも使えそう」
「結界術に強い術式のくせに、好戦的な使い方するのマジで親父さんゆずりな」
「守るだけが、結界術じゃありませんから」
「俺の術式でも一瞬回避するの遅れるんだよな。
植物使ってるから厄介だな、マジで」
「悟の術式が毒とかそう言うのも全部オートで判別するようになったら、通用しないけどね」
「俺に通用しなくても、別に術師としては問題ないだろ」
「うわ、無意識最強発言!」
「なんだよそれ」
「そのまんま」
恋人らしい会話よりも、術師としてのそれをしながらも五条の指先が不意に彼女の手に触れたらどちらかと言うでもなく二人の手は握られる。
僅かに冷えた手が、重なり合って熱を生む。
その熱が恥ずかしいような、でも心地いいような。
「...お父さんたちに、悟があいさつしにきたって聞いた」
「あー..おう。」
「..ありがと、喜んでた。ふたりとも。」
「そ。ならよかった」
「言ってくれてもよかったのに」
「お前絶対嫌がるだろ」
「んー..うん!」
「ほらな」
五条が何処か呆れたように言っても可憐は何も気にしてないように笑う。
「なんだよ、にやにやして」
「ふふ、うれしかったの。悟がうちの家に行ってくれたこと」
「..そ」
「大切にしなさいって、お父さんに言われたよ。悟のこと、大切にしなさいって。」
手を離して、隣にいた彼より先に進み振り返る。
笑ってわずかに細くなったオレンジ色の彼女の目は、真っ直ぐに蒼い目を写し出す。
―――――――大切に。
やけにその言葉が頭に響く。
日々、年齢なんて関係なくその命を天秤に掛けて命の保障なんて何処にもない世界に生きるふたりにとって、その言葉は決して軽くない。
「俺も、大切にするよ。」
「うん、」
「ほらコンビニ、行くんだろ」
「うん、」
大きく一歩を踏み出せば、すぐに彼が隣に追いついて。
手を握って、見えてきた目的地に揃って足を向ける。
「悟、」
「ん?」
「好き。だいすき、」
「ん、俺も好き。」
恥ずかしいのを必死に隠して、平然を保って答えたその言葉に自分以上に恥ずかしそうにした彼女の表情をきっと五条は忘れないだろう。
触れて名前を呼ぶだけで、弾む心になんて名付けたらいいかなんてぼくは知らないよ。
―――――――二〇一八年
「ねぇ、可憐。」
あの時みたいに、
君は笑ってくれる事もなければ
声を聞かせてくれる事もない。
「...僕さ、話したい事、たくさんあんの」
真っ白のシーツが張られたベッドに腰掛けて
そこに眠る彼女の頬に手を添える。
「可憐、」
「...早く、起きて、二人で話そうよ」
(それで、また僕の名前を呼んでくれないか)
答えてくれることのない最愛の人に、五条は優しい口付けを落とした。