誰かの痛みがこんなにも自分の心を抉るなんて、過去の自分は知ることもなかった激情で
とんがった柔らかなナイフ









「ひとまず、命に問題はない。あとは意識が戻ったときに何か後遺症が残るかどうかだ。

あの傷はやはり呪詛返しのようなもので呪霊が遺したものだった。

七海が対峙したことと祓除したことでそれが発動して、左目と頸の傷の奥から毒が見つかったから、そいつが体内に出たんだろう。

お前がとっとと祓除してここまで連れ帰ったから間に合った。お前も休め。悪いが、私も休む。起きたらまた詳しい話をするから、またあとでな」



かなり呪力を消費した様子の家入は、端的に説明するとすぐに七海のいた仮眠室から出て行く。仮眠室にいたとはいえ、七海も眠れるはずもなくただ横になって心をどうにか落ち着かせることに努めていただけだった。





ふらつく脚をどうにか従えて、七海は医務室へ行く。心のどこかでそれが怖くて足が一瞬すくむが、そこにいるのは自分の恋人だ。命は助かったと家入は言った。それだけでも、今は喜ばなければいけない。医務室のドアを開け奥のベッドのカーテンを静かに開ける。そこには、眼帯を外し、仰向けで横になる可憐の姿があった。顔は血と土で汚れ髪も少し乱れているが、左目の傷も首筋に広がっていた痣も消えていて、静かに寝息を立てている。



ベッドの横に置かれた簡易的な丸椅子に腰掛けると、ひんやりと冷たい左手を両手で握った。眠る時、必ず可憐は片手で七海の温もりを探す。それに応えるようにいつも七海は彼女の手を握った。いま、彼女の手は温もりを探そうとはしてくれないけれど、いつものように握り、その手を自分の額へ持っていく。










「.......可憐。」
返答がないのはわかっていもいつものように名前を呼んだ。目を閉じると彼女の呼吸が小さいがよく聞こえて、それはずっと緊張状態だった七海の心の糸を少しだけ緩めるのには最適で、彼もまたそのまま意識を飛ばした。









-------------





医務室に差し込む光が、夕暮れのそれになり、少しずつ外が暗くなってきた頃に七海はふと目を覚ます。握った手の先を見ると変わらず彼女は眠っていて、小さな椅子に座ってベッドに突っ伏して寝てしまったため少し痛む身体を無理矢理七海は起き上がらせる。カーテンの先で物音がして、どうやら家入が珈琲を飲んでいるらしかった。手離すのが惜しい気持ちを抑え、七海は静かにカーテンを開け可憐を一度見てからまたカーテンを閉めた。






「眠れたか?」
「はい、かなり寝てしまったかと。」
「私もさっきようやく起きれたところだ、珈琲飲むか?」
その言葉に甘えて使い捨てのコップに珈琲を淹れてもらう。家入の使う椅子の近くにあった椅子に適当に腰掛けた。






「痣なくなってただろ?」
「えぇ。左目も、頸も。それから首筋のものも。」
「いま可憐の身体に残っていた呪いは全て消えているはずなんだ。意識が戻らないことには後遺症などがあるかはわからないが、今のところ身体に別状はないはずだよ。


これは私の仮説だが、仮に可憐の呪力を乗っ取って、自分の呪いを植え付けていたのだとしたら、呪霊が祓われた以上可憐の呪力がまた戻る可能性はある。もちろん左目は義眼のままだけどな。まぁ、それがいいことなのかどうなのかは私にはわからない。」





「.......呪力が完全になくなるという仮説は?」
「もちろんそれもあり得るさ、」
「後遺症は......何が考えられますか?」
「毒が一番回っているのは、左目と喉だな。左目に関しては既に義眼だが、右目に影響が出るかもしれない。喉から入った毒のせいで、話せなくなるとか味覚がなくなるとか、そういうことは充分考えられる。

でも、普通の怪我や病気じゃなく原因は呪霊だ。どんな形で発現するかは蓋を開けてみないとわからないね」





七海は家入の言葉を静かに聞いて珈琲を飲んだ。何も味を感じない。不味いわけではないのだ、いま何を食べても砂のような味がする事だろう。






「五条さんは、」
「ん?」
「五条さんはこの件のことは」
「内密に調査していたがまさかのこんな形でビンゴになるなんて思っていなかったからさ、学長には伊地知が今朝報告したんだ。

で、学長が海外での任務が終わり次第報告しろとのことでさ。まだ知らないよ。」


「そう、ですか。」
「ほっとした?あいつが知らなくて」
「いえ、そういう訳では....。」
「今あいつがいたってなんもできやしないから、いまは可憐のことだけ考えな。


私はここにいるからひとまず七海は家に帰って休め。なんかあったらすぐ連絡する。

伊地知を呼んでくるから家まで送ってもらえ。」






七海の肩を軽く叩いて家入は、医務室を出て行った。なんとも言えない静寂が彼を襲う。伊地知から電話が来るまで、七海は触れるでもなく静かに眠る可憐を見ていた。






-----------




「すいません、電話で呼び立てる形になってしまって。」
「いえ、問題ありませんよ。忙しいのにこちらこそすいません。」

疲弊した表情でも七海はいつも通り大人で冷静な立ち振る舞いをする。学生時代から彼を知る伊地知も、不用意に声をかけたりはしない。七海はいつも通り運転席の後ろに座り、腕を組み外を眺める。しかし、少しだけ違ったのは珍しく彼の方から口を開いたということだ。





「伊地知くんは、卒業後ずっと補助監督を?学生時代から呪術師ではなく補助監督志望でしたよね。」
「えっ、あっ、そうですね。呪術師には向いていないと自覚があったので」
「可憐とも、任務に行ったことありますか?」
「はい、何度もありますよ。」
「彼女はどんな呪術師だったんですか?」


あまり質問も含め自ら任務のこと以外で口を開かない七海からの言葉に伊地知は少し慌てながらもゆっくりと答える。七海が知らない彼女のことを、ふと知りたくなったのだろうかと頭の片隅で考えながら。







「可憐さんは優秀な呪術師でした。特に一級に上がってからはとても忙しそうでしたね。七海さんが高専を出てから一年後くらいに昇級したんだったと思います。


よく任務もご一緒させて頂いていましたが、左目の能力だけで祓除が難しいこともあるので、近接や結界術の腕もかなりあげて、それからは難しい任務もそつなくこなしているイメージでした。


高専で後輩育成も尽力されていて、私からしたらいつ休むんだろうと思っていたくらいです。学生時代から、明るくて優しい先輩でしたが、それは呪術師時代も変わらずでした。あっ、もちろん今もですよ。」

「.....そうですか。」
「そういえば、七海さんのこと、一度だけ任務の帰りに話したことがあるんです。」

「え?」

「ちょうど任務が都心の住宅街でして、帰り道に七海さんが勤めてる会社がありそうなビジネス街を通った時に、ちらっとですけど。」

















『ねー伊地知くん。

私がもし任務で死んじゃったらさ、ななみんには知られないよね?もう高専関係者じゃないし』

『そう.....なりますね、おそらく。』

『じゃあもし、私がすごーくカッコいい死に方した時だけ、伊地知くん頑張ってこのオフィス街からななみんの勤め先探して伝えてね』


『えぇ?!』
『可憐さんは立派な最期でした!って伊地知くんが思えそうだったら伝えて。そうじゃなかったらいいや、』


『どうしてです?』
『えー、せめて思い出の中だけはかっこいい先輩でいたくない?』


『そもそも死なないで下さいよ。
可憐さんがいなくなったら誰が五条さんを押さえるんですか』


『伊地知くんと学長』
『学長はともかく、私は寿命が縮んでしまいますよ、、』
『たしかにーー!』


『でも、とにかくよろしくね。
伊地知くん!!!私の遺言だぞ!!』

『はぁ......。』















「私が何を言っても気休めにしかなりませんが、可憐さんは大丈夫です。

けろっと起きて、何でもなかったように笑っている気がします。」

「.......そうですね。


ありがとう、伊地知くん。」



手短な七海の礼に伊地知は、いえ、とだけ答えてそれ以上なにも言わなかった。



それから暫く車を走らせ、無事七海の家に着く間に七海は少し眠ってしまったようで伊地知に起こされ到着を知ると、車から降りる。




「明日は休みになっているので、なるべく身体を休めて下さいね。
何かあったらすぐに連絡します。」
「.....わかりました。

そうだ、伊地知くん。」「なんでしょう」


「五条さんに、可憐の一件伝えておいて頂けますか。」
「それは、」

伊地知は真剣な七海の表情を見て続けようとした言葉を飲み込むと、わかりましたと頭を下げる。そんな彼に七海はお疲れ様でしたと労いの言葉をかけて静かにマンションへと入って行った。






----------





「ただいま、」
返答なんてあるはずがないがいつもの癖で帰宅の挨拶をしてしまう。ずっと一人で暮らしてきたのに、誰かがいる家に慣れてしまうと妙に部屋は広く寂しく感じる。


綺麗に掃除されているリビングで、ソファに力無く腰掛けると、ダイニングテーブルに置かれた数日前に可憐が買って花瓶にいけたダリアが目に入った。二人とも植物に詳しいタイプではなかったが、彼女は近くの花屋で綺麗な色の花を見つけて買ってくるのが好きだった。七海は立ち上がると花瓶の水を新しくする。




どうしようもない孤独感が不意に七海を襲った。














『ねぇ、ななみん。どうして私って左目見えないのにちゃーんと目が合うんだと思う?』

『......確かに、見えていないとは言われないとわからないくらいに普通ですよね。』

『これは私が勝手にそうだって思ってるんだけど、


呪力があるものをきちんと写してくれる私の左目は、きっと人の温もりも感知できるの。世界の光を拾うことはできなくても、人のあたたかさは拾えるの。』


『ちょっと無理がありませんか?』
『えー?そう?だって現に、いま、私とななみんちゃんと目が合ってるでしょう。


そーいうことで、いーの。』










どうしてこんなことを思い出すのだろうか。
学生時代のなんてことのない思い出なんて。
自分が思っている以上に自分の中に彼女の存在は大きくて、いろんな記憶に溢れていた。
高専で毎日のように聞こえたよく通る笑い声も、後輩たちを労う優しい言葉も、時に悔しそうに歪めた表情も。
四年ぶりに再会して、片目は見えなくても何も変わらなかった笑顔も、自分にだけ見せた恥ずかしそうな赤い顔も。






いつだって、変わらない貴方に隣にいてほしかった。心のどこかで置いていくとしたら自分が彼女を置いて行ってしまうのだと思っていた。だから、彼女がもしかしたらいなくなるかもしれないなんて、考えないように目を逸らしていたんだ。どうしようもなく怖くて、立っていられ無くなってしまうような気がしていたから。









「.......可憐。」
彼女の選んだ美しい花は、残酷なくらいに鮮やかな色で花瓶の中で咲いていた。










どうか此処にいて











可憐の意識が戻ったと家入から連絡を受けたのは、それから三日後のことだった。











prev | next

TOP


- ナノ -