世界を誰かが操っているのならばそんな世界は投げ捨ててしまえ
銀盤のワルツ






「一年」という時間はみんなに平等にあるがそれは公平にではないのかもしれない。少なくとも七海が再び高専に足を踏み入れて、クソだと逃げた世界を再び生き始めてから一年。可憐と共に歩くと決めて、自分の最優先事項が書き換わったのが約半年前。

七海にとっては、いつか振り返った時にターニングポイントと言える一年だっただろう。そして、そのタイミングで七海は一級呪術師に昇級していた。






△県の廃校になった中学校における追加の索敵調査は、人知れず(あくまでも五条家入七海伊地知の内輪で)水面下で進められているが、これと言って決定的な手がかりを掴むまでは至っていない。
強いて言うのならば、あの日払った一級呪霊の一つに片割れのようなものが存在し、それが生きているという仮説。何か条件を満たせばその残った片割れによって可憐の身に何かが起こるのかもしれないが、左目の傷と後から出てきたうなじの傷以外、彼女には何も変化はなかった。それは考え方によっては不気味だが、やれることが見つけられない以上不幸中の幸いとして経過を見ることしか出来ない。また、可憐本人は自分の呪術師としての最後の任務について調査が行われていることも自分の傷についても気が付いていない。それほどに、うなじにできた傷は小さいものなのだ(左目の傷と同じサイズだがうなじにあったのでは本人の目にも映ることはない)。

五条は「もし何かあったらすぐに僕の目で何かしらわかる」と言っていて、ひとまずは油断することなく彼女のことを見守るのが今できる最善だった。





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「お疲れ様です。いまマンションの前に到着しました。」
「お疲れ様、わかった。今降りるね」


電話を切った可憐は足速に部屋を出る。電話の相手は伊地知で、今日任務だった七海を送ってきてくれたのだ。いつもなら自分で部屋までくる七海だが、今日は違う。事前に伊地知から連絡が入り、2人1組で向かった1級案件で早々にもう1人の術師が離脱してしまい、事実上1人で戦闘の後、無事に祓ったとのことだった。
しかし七海へのダメージはかなり多く、出血もかなり多かったらしい。高専で家入の治療を受けて帰宅許可が降りたが体力的にかなり削られているようで1人で歩くのは難しいとの判断のもと、伊地知がマンションまでいつも通り送り可憐がマンションの下まで迎えに行く手筈になっていた。





マンションの下に降りると、車の前に律儀に立つ伊地知が見えて、可憐は軽く手を振る。


「早かったね。車空いてた?」
彼女の腕時計はちょうど5時を指したばかりで、渋滞にハマらなかったと伊地知が答える。

「お疲れ様です。可憐さん。」
「お疲れ、伊地知くん。ありがとね、連絡。ちょうどわたしが休みでよかった。」
「可憐さん2連休でしたよね。その前に14連勤でしたもんね、、。

七海さんなんですが、15分ほど前に寝てしまって、、」

そう言われて後部座席を覗き込むと腕を組んだまま眠る彼の姿があった。スーツのジャケットは着ておらず、ネクタイも取り、シャツは第二ボタンまで外れている。今朝きっちりセットして行った髪も乱れていたが、規則正しい寝息に可憐は安堵の溜息を吐く。






「建人、着いたよ。」
何度か名前を呼んで肩を揺する。七海はうっすら目を開けたので「降りれる?」と可憐に聞かれると静かに頷き車から降りた。




七海の肩を持ち支えると、伊地知から荷物を受け取る。大きめの紙袋の中にスーツのジャケットや珍しく外してしまったらしい闘う時に使うナタが入っているホルダーも入っていた。

「上まで私も行きますよ。重いでしょう。」
「大丈夫よ、ありがとう。意識あるみたいだから連れていけるよ。


これから高専戻るんでしょ?硝子にお礼言っておいてね。

伊地知くん、いつもありがとう。また何かあったら連絡いれるね」


学生時代からの後輩である伊地知に優しくそう言って、七海を支えながら部屋に入っていく。第一線を離れたとはいえ、今でも定期的にトレーニングも続けているし、高専でしっかり鍛えて一級呪術師としても働いていた可憐の体幹はやはりしっかりしていて、20cmほど自分より大きい七海のことも割となんなく支えていた。






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「シャワー浴びれるなら浴びた方がいいよ」
部屋まで七海を支えて入り、一度寝室のベッドに彼を寝かせる。自分で靴紐がややこしい革靴も脱いでいたので意識はしっかりしていると判断して、彼女は彼に聞いた。



「浴びてきます、」
ふらふらしながら浴室に向かう七海を見送ってから、可憐は伊地知から受け取った紙袋からスーツのジャケットを取り出し、ハンガーにかけて軽くブラシをかけ、玄関に脱がれた革靴もできる限り埃を落とす。戦闘用のホルダーは寝室の椅子にそっと置いた。それからバスタオルと一緒に部屋着を用意して脱衣所へ。

脱がれたシャツとスラックスも回収し、寝室でハンガーにかける。




「これはクリーニング行きだな」
シャツには少し血がついていて、スラックスにも汚れが目立つ。足元が悪い現場だったのだろうか、革靴も泥のような汚れがついていた。シャツだけ洗面所で落とせる限り染み抜きをしてから洗濯ネットにいれて洗濯機に放る。

寝室に戻り、スラックスとよく見ると血がついていたジャケットをクリーニング行きの服をいれる袋の中に無造作に入れ、スラックスのポケットから取り出したネクタイは汚れていなそうだったのでハンガーに一度かけ、軽く皺を伸ばした。





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いつもより心なしシャワーが長いのは疲れからうまく身体が動かなかったからで、七海は浴室からふらふらしながら寝室へ向かう。寝室は綺麗に片付いていて、ベッドにすぐに寝転ぶ。



「髪の毛濡れてるけど大丈夫?」
パタパタと足を音を立てて寝室に入ってきた彼女に聞かれるが、仰向けのまま七海は目元に手を乗せたまま頷くだけ。



「はい、これ飲んで。脱水になっちゃう。」
枕元に腰掛けて可憐はグラスいっぱいの水を渡し、一緒に持っていたタオルで軽く彼の髪を拭いた。

「ありがとうございます。」
七海は小さく答えながら起き上がり水を一気に飲み干す。それから彼女が髪を拭くのを制し自分で適当に髪を拭いた。

ちょっと待っててと言い残し、空になったグラスと少し濡れたタオルを彼から受け取り持ってまた可憐はリビングへ消える。七海はまたベッドに仰向けに寝転んだ。








「はい、ホットタオル。少し寝て。食べれそうだったらご飯食べよ。」
戻ってきた可憐は優しく七海の目元にホットタオルを乗せて、額の髪に触れた。

「........一緒に、」
「クリーニング出しに行ってくる、出しそびれちゃうから。 

だから少し一人で寝てて。はい、いい子。」


ホットタオルを少しだけ目元からずらして彼女をみて少し子供のようにいう彼が面白いのか、可憐は笑って、頭を撫でて、またホットタオルを彼の目元に綺麗に乗せ直す。



「すぐ帰ってくるね。」




照明を落として、彼女は静かに部屋を出た。







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足速にクリーニング屋に向かう。マンションから5分程にあるそこはよく利用するのでもう顔見知りだ。さっきの七海のものと一緒に自分の服も出した。

気のいい店主に礼を伝えて、足速に自宅へ向かう。途中スーパーに寄ろうか悩んだがあの疲れ方ならそこまで食べれないだろうと予想し、家の冷蔵庫の中を思い出す。買わずに作れるという判断を下したようだ。




「ただいまー」と静かに家に入り、そのままキッチンへ向かい、夕飯の準備を軽く済ませる。消化のよさそうな雑炊にしようと決めて、鶏肉や野菜を小さく切ってバットに置いた。キッチンを軽く片付けてから、静かに寝室へ足を運ぶ。





6時を少しだけ過ぎて夕暮れ時の寝室には綺麗なオレンジ色の日差しが入り込んで、その光は規則正しい寝息を立てる七海の顔を優しく照らす。ホットタオルはもうずれてしまっていて、端正な彼の顔が少し赤く照らされている。





「ふふ、よく寝てる」
隣に腰掛けて彼の少しだけ濡れた髪をかきあげると、その腕を不意に掴まれて抱き寄せられた。





「........起きています、」
「あは、おはよう。お疲れ様。」
七海はそのまま彼女を抱き締めて身体を横に倒す。可憐を後ろから抱きしめたような体制になった。

「まだ、寝る?」「こうしていたいだけです。」

「頑張ったね、」子供をあやすそうに言う可憐に少し不服そうに溜息をついてから七海は「少し試していることがあるのですが、なかなかうまく行きませんね。」とゆっくり話す。





「前に言ってた、縛りを作って呪力制限するやつ?」「えぇ、体力がやはり削られます。」

後ろから自分を抱きしめる彼の手を触りながら可憐は何を言うわけでもなく身体を委ねた。一級呪術師になるとやはり任務のレベルは急激に上がる。それを見越して少し前から七海は自分の戦闘方法に縛りを設けることにしたのだ。予め決めた時間よりも多くその日労働していると、時間外労働として呪力が跳ね上がると言う、七海らしい縛りだった。とは言え、呪力を制限して戦う時間が増えるため本人のポテンシャルをさらに引き出さねばならないので、慣れるまではかなりしんどいはずだ。






「えらいえらい、」「今日はすごく子供扱いをしますね」「楽しいの」


「すいません、何から何までやって頂いて」
「クリーニング出しに行っただけじゃない、明日になったら出し忘れそうだし。」
「だけじゃないですよ、でも本当にありがとうございます。」
「一緒に住むってこういうことだよ、」

だからいいのと話す可憐はやはりどこか嬉しそうな声を出す。



「それに、肩貸してもらって。助かりましたがどこか痛めていないですか?重かったでしょう。」
「これでも案外鍛えてるんだから大丈夫。
それに建人がふらふらで帰ってくるのレアだしね。」




悪戯に笑う彼女に、後ろから首筋に口づけを落とした。可憐はくすぐったそうに首をすくめてから、七海の手にまた触れる。


「手、あったかいね。子供体温みたい。まだ眠い?」
「そこまで眠くはありませんが、まだ身体が重いですね。」
「そっか。」




「あと少し、こうしていても?」
後ろから聞こえる七海の声はいつもの落ち着いた感じというよりかどこか子供みたいで、可憐はなんだか面白くなって小さく笑ってしまう。




「なにかおかしいですか?」
「ううん、たまには建人が疲れてくるのも新鮮でいいなって。子供みたいで可愛い。」

こんなこと言えばいつもなら眉間に皺を寄せて押し倒されてしまいそうなものだが、今日の七海はただ抱き締める腕を強くしただけだった。






「あと少しだけ、寝たら夕食頂いてもいいですか?」
「ん、今日はお粥だよ」
「ありがとうございます、楽しみです。」
「まだ準備しただけだから作ってきてもいい?」
「いえ、駄目です。」





子供のように言う七海の手に指を絡めながら料理を作るのはとりあえず諦めて可憐も静かに目を閉じた。背中の温もりとゆっくりとした呼吸が心地よくて、せっかく準備したご飯を食べるのは思っているより先になりそうだ。








自分のために何かをしてくれることがどんなに嬉しいことかなんて、最近までしらなかった
どんな貴方でも、







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