わかっていたのに、傷つけた
すくわれたいけど今じゃない







「頭を冷やしてきます。」
そう言って七海が部屋を出て行ってから、30分ほどが経っていた。律儀な彼は全ての洗い物を終えてから外に行き、残された綺麗な皿や鍋を何も考えないように淡々と拭き、淡々と片付けてから、可憐はソファに腰掛けた。




ソファに深く腰掛けて、ふと大きな窓から外を見る。外はすっかり暗くなっているが、時計はまだ夜の9時を過ぎたところだった。








(言い過ぎた。確実に言い過ぎた。)
七海がどこかで、五条に対して引け目を感じていることをずっと可憐は違和感として感じていた。特級呪術師である五条に対して、四年のブランクを持つ七海が引け目を感じることも、その五条と自分がかつて恋人であるという現実が七海にはマイナスに働いていることも、すべてわかっているからあえて言葉にはしてこなかったのだ。





好き、という恋愛感情の言葉を、夏油が呪詛師になったことを聞き、崩れ落ちそうな五条を支えるために彼の気持ちを受け入れたあの日から、五条に対して彼女は言ったことはない。それでも五条が特別な存在で、恋人として過ごして来た過去は可憐にとって消してしまえばいいなんて軽々しくは思えない大切なものだ。そんな彼女を、優しすぎると五条はよく表現していた。



記憶がギリギリあるかないかの年齢で、突然家族を失い、左目の力を見込まれてこの世界で育ち生きてきた彼女はいつだって、生きることに必死で自分の気持ちには鈍感になる。好きという恋愛感情はなくても、大切という意識が五条を受け入れて隣で歩いて来たのだ。



でも、可憐にとって七海への気持ちは違う。はじめて入学してきた彼を見た時から心の何処かを奪われていて。失いたくない人として、ずっと彼女の中に七海はいるのだ。再会できなくても、何処かで幸せになってくれていたらいいと思っていた彼に再会し、好きという気持ちを伝えて隣に立てたのに、七海は心の何処かで五条の存在を見ている。それは、辛いというよりも歯痒く、切ないものとして可憐の心に引っかかる。







「ちゃんと、好きなんだよな。」
呟いた声は1人でいるには広すぎる部屋に漠然と消えた。










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『ずっと私の後ろに悟が見えてるんじゃない?』

独特な可憐の表現は、自分でも恐ろしいくらいにしっくり来た。




高専時代から、彼女へ特別な感情を持っていたけれど彼女はいつも五条さんの隣を当たり前に歩いていて、それがもう日常で、そこに自分の気持ちを差し込むなんてことは出来なかったし、

高専を卒業して呪術師から逃げても、頭の片隅でいつも可憐がいて、再会した時も気持ちを通わせた時も自分でも驚くくらいに胸は高鳴っていて、嫌というほど彼女への気持ちの強さを自覚した。




それと同時に、自分が五条さんに代わって可憐を護れるのかと不安が過ぎる。五条さん本人に啖呵まで切って、気持ちを伝えたのに、ふとした時に思い出してしまう。確かに嫉妬ではない、そんな簡単なものならすぐに捨てられた。これは、自分が弱いから引け目に感じてどこかで彼女ではなく五条さんに遠慮をしているのだと。彼女に何かあった時、隣にいるのが五条さんだったらよかったと後悔するのが怖い。それ以上に、可憐を失うのが何より怖いのだ。失いたくないから、あの最強の男が護ってくれた方がいいのではないかと、弱い自分がすぐに顔を出す。








(失いたくないだけ、か。)
道端の自動販売機で買った大してうまくもないブラックコーヒーを飲み干すと、それを握りしめて、ゴミ箱へ捨てる。家の近くを意味もなく歩いていた七海は、目的地を失っていた自分の足を、彼女の待つ自宅へと向けた。








「だから、絶対だよ、手、離さないでね、」
「死んだらだめ、絶対生きて」

そう右目から涙を流して伝えてくれた可憐の手を今握れるのは自分だけなのだ。








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七海が静かに帰宅するとリビングに電気がついていて彼は少し安堵のため息を吐く。

リビングのドアを開けると、可憐がソファの端っこでお気に入りのクッションを抱き締めたまま外をぼんやりと眺めていた。おそらく七海には気が付いていない。驚かせないように、七海は静かに彼女の名前を呼んだ。



「あっ、おかえり」「ただいま」
少し安堵の表情を見せた可憐の隣に静かに座ると、七海は冷えた身体で優しく彼女を引き寄せる。







「身体まで冷えてるよ」
「寒いですか?」「ん、へーき」
可憐は静かに七海の胸に身を預けると静かに口を開いた、


「ごめんね、嫌な言い方した」
「いえ。本当の事ですから。」
「たまにね、悟と付き合えばいいって言いたそうな顔してたよ、」
少しだけ意地悪く言う彼女に七海は何も言わず頭を撫でてからゆっくりと口を開いた。





「私は弱い人間です。だから、貴方をもし護れなかったら、私ではなく五条さんが貴方の隣にいたならよかったと思うんです。


私が貴方の隣にいる事よりも、貴方が生きていることが私には最優先事項です。だから、」




「悟が隣にいても、私は死ぬかもしれないよ。そんなのわかんないじゃない。」
七海の言葉を凛とした言葉で可憐が遮る。








「私は誰かに護って欲しくて一緒にいるんじゃない。楽しいこととか嬉しいこととか、なんでもないことを一緒に笑って、悲しいことは分け合いたいの。


こんな世界だけど誰にも死なないでほしい。生きてなきゃ意味ないもん。わたしだって生きてたい。でも護って欲しい訳じゃない。

きっと、悟も建人も勘違いしてる。
護ってくれるのは嬉しいよ。でも、そのために一緒にいるんじゃないでしょう。」






「こんな世界で生きてくって決めちゃったんだもん、一緒にいられるなら、それが叶うなら、


ただ好きな人の隣にいることが最優先事項だよ。」









七海の胸元から顔を上げて、また真っ直ぐに彼を見つめて可憐は言葉を紡ぐ。その言葉は裏表のない正直な彼女の気持ちだった。








「わたしは建人が好きなの。だから一緒にいるの。強いとか弱いとかじゃない、建人だからいるんだよ。」






その言葉に口付けで答えるのは、何かを誤魔化しているような気がして七海は少し考えてから、ゆっくりと彼もまた言葉を紡いだ。









「私は可憐に初めて会った日からずっと、貴方が大切で、貴方の真っ直ぐなところがとても好きです。


隣に居て頂けますか。私が良い時も悪い時も。私は貴方がどんな時でも必ず隣にいますから。」



日本人離れした綺麗な目は、もう迷いを感じさせることはなかった。そんな彼の言葉に彼女はとびきりの笑顔を見せて、少し崩れた七海の髪をくしゃくしゃと乱した。








「もちろん、いつでも隣にいるよ」
彼の乱れた髪を耳にかけながら、可憐は触れるだけの口付けをした。









やくそくしよう
見えない未来のことまでも







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