氷菓童話
- ナノ -

深海の約束学

放課後の購買部――そこでは秘密の取引が行われていた。

訪れた生徒は人が居ないことを確認して「ミスター・リズベットに配達でーす」と声を上げる。
身長にしてはぶかぶかとした大きさの制服を着ている青年の手に握られているのはマンドラゴラや、それ以外の魔法薬の素材となり得る物だった。
そして「今月はおやすみなさいでしたっけ?」と続けて、エミルの店は開かれる。
青年はカウンターテーブルに取引の物を並べて、店の主人を喜ばせた。


「この素材を取って来てくれたんですね、さっすがラギー君です!」
「いえいえ、毎度ありっす。これ位お安い御用ですよ」
「ラギー君のお陰で私たちが勝手に入れない植物園にある珍しい植物も手に入るのでありがたい限りです!」
「エミルさん、やっぱ商売柄不思議な物欲しがりますよねー。まぁオレとしては小遣い稼ぎにもなってランチも豪華になっていいんですけどね」


サバナクロー寮のラギー・ブッチ。エミルとよく取引をしている客の一人だ。
寮長であるレオナも利用しない訳ではないが、彼が代理で来ることが多かった。
アズールとは違った意味でがめつい所はあるけれど、彼の方が格段に素直だと言える。平気で嘘を吐く狡猾な所はあるが。

ラギーが植物学でくすねてきた素材を確認したエミルはその出来の良さに「ナイトレイブンカレッジは流石ですね」と微笑んで、マドルを手渡す。
購買部の関係者という立ち位置にはなるが、勝手に各施設を歩き回れたり、素材を勝手に頂ける許可を貰っているという訳でもない。そういったハードルをクリアする為に、一部の生徒とこうした関係性を築いている。
エミルは目当ての品物を手に入れられ、ラギーは小遣い稼ぎが出来るというまさにギブアンドテイクの関係性だ。

よくお世話になっていることもあり、エミルは準備をしていた箱に幾つか入ったドーナツを取り出して、カウンターテーブルに置いた。


「ん?これは?」
「これは普通に私のプレゼントなのでお気にせず。私も食べたかったから買いに行ったドーナツです!」
「マジっすか!ししし、持つべきものはいい商談相手っスね」


エミルが渡したのは学校外の街で買える有名なスイーツ店で買えるドーナツだ。ラギーが事前に今日に商品を渡せそうなので、と予告をしてくれたから、準備が出来たのだ。ドーナツが彼の好物であるということは知っているからこその配慮だった。


「ラギー君はバイト上手ですよね。私みたいな人間が本当に助かります」
「そりゃどーもっす。モストロ・ラウンジの給仕のバイトも結構実入りがいいけど、エミルさんとこの方がこういうサービスもあるからいいというか。あ、そういえばフロイド君が言ってたっすよ」
「え……なんと言ってましたか……」
「『ハマシギちゃんほんとに来てくれないんだよねー』って。そりゃあ、商売的にも競合するでしょうけど、もしかして一度も行ったことなかったり?」
「んー、実はまだ。でもフロイド君は数分後には『別に興味ねーし』って言ってますから」
「ま、そりゃ確かに。あの人達”本気”にさせると正直、オレもレオナさんもあまり関わりたくないのが本音っすよ」


ラギーは意味深に笑いながら、同い年の少女を見下ろす。
それは別に商売の取引をするオクタヴィネルの三人のことを単純に指していた訳ではない。

(情報通とは言っても流石にここまでは知らないんでしょうねー)

違うクラスとはいえ、ジェイドとアズールが時々彼女の話をしていることを。
モストロ・ラウンジとエミルは程々に距離を保ちつつもいい取引相手らしいが、彼女の販売ルートや商品の権利を買い取りたいという思惑とはまた違う何らかしらの興味を抱かれているのだろうとラギーは何となく感じ取った。
それでも一年間は駆け引きを続けられている辺り、気さくで朗らかに見える彼女も非常に食えない一面があるのだろうが。

巻き込まれても助けはしないだろうけれど、果たして彼女がどこまでのらりくらりと彼らを煙に撒き続けられるのか。
ラギーは箱に入っていたドーナツを一つ手に取って齧りながら「また何か手に入りそうだったら持ってきますねー」と声をかけてエミルの店を後にするのだった。


各寮への入り口に設置してある鏡から行けるオクタヴィネルの寮は、ガラス張りの通路が設置してあることで色んな生徒が行き来できるようにはなっているが、海中にある珍しい寮だった。
全員が全員ではないが、オクタヴィネルの寮の生徒は、出身地が珊瑚の海、或いはその海の中でも北の深海のエリアの生徒が比較的多いのも要因だろう。

モストロ・ラウンジの開店時間前の放課後。ジェイドはフロイドを呼びに向かったのだが、その表情はやる気のないものだった。
フロイドが今日の給仕に対してまだ気が乗らないとぼやいて廊下を歩きながら開店前の掃除を放棄している様子を見て、ジェイドは眉を寄せて困ったような顔をする。兄弟のことながら、この気分屋な所は困ったものだ。
こうなってしまうと無理矢理連れ戻すのも難しいのだ。この状態のフロイドを臆せずに叱咤出来るのはアズールくらいだろう。


「そういやハマシギちゃんの説得は上手くいってないわけー?」
「えぇ、難航は相変わらずしていますが……ただ、糸口は掴めましたよ。フロイドのお陰でもあります」
「えー?オレ?っていうかさージェイドが珍しくない?別にアズールにすんごい言われてる訳でもないのに、連れてくるの諦めないし、こんだけかかってるのもさー」
「エミルさんがそれだけ手強いと言いますか。アズールもさらりと商談をかわされると悲しんでいる位ですから。しかし、その代わりに彼女がいい提案をしてくれることもあるらしいので、良い関係だそうですが」
「ふーん。けどなんかアズールよりジェイドが楽しんでるじゃん」
「ふふ、えぇ。まぁそうですね」


フロイドは良く分かっているものだとジェイドは兄弟の適当そうに見えて的を得ている意見に感心した。
アズールにとってはあくまでも対等な商談相手という認識が強いのだろう。それに対して自分はどうか。
商談をするために――或いは自分達の商売を有利にする目的で利用するために。そうではなかった。それは断言出来た。

自分が、楽しんでいるのだ。


気だるげだった筈のフロイドの視線が窓の外に向かっていることに気が付いて、ジェイドは「どうしました?」と声をかける。するとフロイドはメインストリートの方で他の生徒と会話をしている女性を指差した。
それは恐らくエミルの姿だった。生徒と立ち話をしているようだが、流石に上から見ているとなると、その表情までは見えない。


「校舎近くまで来てるの珍しいー。んーでもあの生徒ってハマシギちゃんの顧客だっけ?絞めてこよっかー?」
「いえ、僕が行きましょう。フロイドはそろそろモストロ・ラウンジへ向かってください。気が抜けた新入りを絞めるのも悪くはないでしょう?」
「あはっ、いいじゃんそれ。遊んでこよっかなぁ」


二人の会話しているその表情をもしも通りすがりの生徒が見ていたら、間違いなく背筋を凍らせていたことだろう。


早足でジェイドは目的の場所へと向かうと、エミルを囲っている三人が彼女の顧客ではないことはすぐに解った。
別に彼女の顧客リストを知っている訳ではない。だが、その三人はモストロ・ラウンジの利用者で、過去アズールに契約違反をしている者達だ。
そんなだらしない生徒を全員弾く訳ではないとはいえ、彼女の店を利用させることはしないだろうと考えればすぐに解ることだった。
所謂ナンパというものなのだろう。購買部の外なら、連絡の交換も出来るだろうと踏んだ生徒が彼女を呼び止めたのだ。エミルは朗らかに笑いながらも自然と会話を受け流して、踏み込ませないようにしていた。

(そして、相手に気付かれないようにやはり触れさせないようにしている)

困った様子のエミルに助け舟を出すように、ジェイドが声をかけると生徒達は振り返って、覗き込んでくる圧のある背の高い男に息を呑んだ。
学園内で決して敵に回してはいけない人物の一人の筆頭だ。


「エミルさんに何か御用でしょうか?」
「げ……ジェ、ジェイドさん……!何でもないです」
「それじゃあまた、エミルさん……!」


ジェイドの姿を見た途端に、彼らは蜘蛛の子を散らすように走り去っていってしまった。
流石、生徒達もジェイドの噂は知っているのかと感心する。その物腰の柔らかさと丁寧な対応が表面にあるせいか、恐らく目に見えて分かり易いフロイドとアズールほどではないが、リーチ兄弟には下手にかかわらない方がいいという認識はあるのだろう。


「助けてくれてありがとうございました、ジェイド君。サムさんの所のバイトの女の子と思われていたのか、話を切ろうとしても誰かが会話を続けようと広げてくるので困り果ててた所です」
「いえ、お役に立てたのなら何よりです。乱暴はされていませんか?」
「えぇ、大丈夫です。この通り!」
「……本当でしょうか?」


ジェイドはすっと目を細めて微笑み、確認をするという建前で素早く彼女の腕を取った。
助けられて油断をしていたせいか、突然の行動にエミルは反応しきれなかった。目を開いて表情が凍り付いたのが分かったが、ジェイドは構わず手を袖口に差し込む。


「やはり……」
「っ、は、離してジェイド君!」
「あまり無粋に介入するのは良くないとは思っていましたが……確信を持てました」


ジェイドが触っているのは上着の袖口の間に見える地肌だった。
人の肌の筈なのに、それは氷の如き冷たさだったのだ。氷結の花のように、今日は周囲の空気を凍て付かせている訳ではなさそうだが、単に体温が驚くほど低い。
人魚は人の体温よりも低いと自覚はしているが、それどころではない。


「エミルさん、貴方は氷の魔女の眷属でしょうか。それも……かなり強力な力の持ち主ですね」
「……はぁ、白状します。マレウス君やリリアさんに制御方法を聞いたりしましたが、私の魔法は時々制御しきれなくなるの」


観念したようにエミルは手袋を外して、ジェイドの手に触れる。
氷を手のひらに落とされたような冷たさは、彼女の特異体質を物語っていた。
時々コントロールしきれない程の強い魔力を所持しているのなら、相談する相手のチョイスがその二人というのも納得というものだろう。
自分以外に既に知っている者が居たことに、驚きはしたが。情報がオクタヴィネルに入って来なかった辺り、マレウスとリリアというディアソムニア寮の寮長と副寮長が口外をしなかったという証拠だった。


「ただ、正直驚きました。……ジェイド君が、私の花を触っても寧ろ慣れた温度だって平気な顔をしてるなんて」
「人魚の中でも特に冷たい深海に居ましたからね。……貴方の目的は、魔法を制御する方法を学ぶ為ですか?」


今までならば、この問いかけに対して美味いことすり抜けられていたが、エミルは正直に首を横に振った。
魔法を制御するという目的なら、普通に魔法学校に通うことも選べただろう。
しかし、エミルの希望は違った。


「……これ自体を無くすため。魔法を無くした所で、体質までは改善出来ないので、それでは意味が無くて」
「なるほど……アズールに頼むといい、とは言いませんよ。ですが、個人的に協力させて頂いてもいいでしょうか?」
「……本当?」


――彼女には意味はないかもしれないが、これはいい人間を装う甘い罠だ。
リドルのユニーク魔法のように、魔法を一定時間封じる魔法や、アズールの金の契約書のように人の魔法を奪う魔法は存在している。
それを利用すれば彼女の魔法自体を消すことは出来るが――そんなのは、彼女もアズールのユニーク魔法を知っていればすぐに考えたことだろう。
彼女の体質自体はそれではどうにも出来ない。


「えぇ。僕にも情というものがありますから。あ、そういえばその目的が達成されたらエミルさんは如何なさるんですか?」
「え?半分の儲けを占めていた商品の生産は出来なくはなりますが……この学園に留まる理由はなくなるので、旅にでも出るかお店を構えるか悩みますね」


――その発言を聞いた瞬間に、ジェイドの中で今後の方針が瞬時に固まっていく。
成程、本当に彼女は別にここで真剣に金儲け的な商売をしたい訳ではないのだ。あくまでも魔法及び特異体質の消滅という目的に特化している。しかしそれは種族自体を変えるようなものだ。
人魚も海の中での姿ではそのまま陸で暮らすことが出来ないという課題を、魔法薬で足を生やすことで陸でも生活が出来るようになったことを考えれば、決してこの種族だから諦めなければいけないということはないのかもしれないが。


「エミルさんが真剣に悩んでいる件ですから。微力ながら、協力させてください」
「……こういう時、ジェイド君ほど有能な方ですと凄く心強いですね」
「おや、モストロ・ラウンジの一員としてではなく、あくまで友人としての提案ですよ」
「まさかジェイド君からそんなことを言われるなんて」


人のよさそうな気さくな性格と会話をする彼女であるが、何時も表情の裏側に本音を一つ残しているように見えるとジェイドはエミルのことを認識していた。
しかしふっと一瞬零した解けた表情が見られて、ジェイドは思わず目を丸くした。
年相応の、等身大の彼女の表情が初めて見られたような気がした。そこには氷の商人としての顔も、ミスター・リズベットとしての顔もなかったのだ。

――これが見られるのは、悪くないですね。


各寮への入り口に向かう道の途中にある購買部にエミルを送ったジェイドは、オクタヴィネル寮に戻ってモストロ・ラウンジの給仕に務めていた。
彼らの噂が流れようと、モストロ・ラウンジに来る客の数が減る訳ではないのは、純粋にこのカフェの食事や飲み物は食堂よりも凝っていて美味しかったし、海の中という神秘的な光景と拘り抜かれた上品なインテリアで彩られた店内の雰囲気はシックで、いい店だったからだ。

制服から寮生専用のスーツに着替えて、客人たちに完璧なサービスを提供して持て成す。今日は自分がメインに行うというよりも、新しい生徒達の監督を行っている立場だが。

売り上げと、新たに締結できた契約に満足げな様子のアズールに、ジェイドは思い出したように声をかけた。


「アズール。今後エミルさんに何かお代で渡す物があったら、一度僕にご相談いただけますか」
「えぇ、それは構いませんが……何かありましたか?」
「ふふ、秘密です」


意味深に言葉を濁したジェイドの様子に、アズールは顔を顰める。モストロ・ラウンジの経営的に、アズールの契約的に何か益がありそうなら隠しはしないだろうに。
だが、ジェイドが隠すことを下手につつくのもアズールはあまりしようとはしなかった。何せ、優秀な分、彼は味方ならば非常に心強いのだが。
敵に回ると厄介極まりないのだ。

アズールとジェイドが会話をしていることに気付いたフロイドは、空になった配膳用のトレイをくるくると回しながら、ジェイドがモストロ・ラウンジに来る前以上に機嫌がよさそうなことに気付いて「なになにー」と笑った。


「あは、なんか、ジェイドめっちゃ楽しそう」
「そうですね、フロイドの魔法ではありませんが……阻止するのは楽しいですね」


――獲物を狩る時は、狩りをするための場所を整えて。
逃げ道を無くすように囲ってから。
それが鉄則でしょう?