氷菓童話
- ナノ -

溢れる体温

白い雪がしんしんと降り積もり、目の前が見えなくなっていく感覚。
自分の力に飲まれて黒い波紋が広がっていくオーバーブロッドとは異なり、それは静寂という言葉が適切だった。
しんと静まり返った白い空間の中に、ぽつんと置き去りにされるような。

──雪の女王の末裔とはいえ、その体質まで氷のような冷たさを持って産まれて、実の姉妹にも気味悪がられた幼い頃の自分を思い出す。
力が特別強かったらしいけれど、別にこんな能力欲しくもなかった。ヒトと決定的に違う体温。屍人よりも冷たいその体が気味悪いと思うのは人からしたらごく当たり前の感覚だろう。なにせ、自分自身も気味が悪いと思って居たくらいなのだから。
雪山に行っても。全く、寒くなかった。
周囲の空気の方が自分よりも温かいことが多いのだから当然だろう。寒いと言葉にしてみても、本当の寒さを知らない。
そんな人間が、心の底から、凍死してしまうかもしれないと思うほどに寒いと感じた。

──そんな中で、不思議と手が温かいような気がした。


「……ぁ」

差し込む光に手を伸ばすと同時に、目を開いたエミルは、白い天井と海の生物を模した装飾のランプが目に入ったと同時にここがオクタヴィネル寮だと察する。
アズールがオーバーブロッドを起こしたと同時に、生徒達の能力を無尽蔵に吸収し始めた中で避難誘導を行っていた。
混乱する頭を整理しようとしていた中で、自分を覗き込む顔にエミルはぱちぱちと目を瞬かせた。


「起きましたか!エミルさん」
「……ジェイ、ド。え……私、氷を割られて……」


エミルを覗き込んで安堵したように手を取り、「体温も元に戻りましたね」とジェイドは微笑んだ。
元に戻った、といっても普通の体温に戻った訳ではなく、エミルの本来の零度近い体温に戻ったということだ。
ジェイドに握られた手の温かさを噛みしめながら指先を滑らせると、雪がはらりと舞ったことに、エミルは肩を竦めた。


「やっぱり……私の魔法を無くすのはダメ、なんですね」
「……えぇ。エミルさんの身体はあのままだと内部から凍って……死に至ったでしょう」
「……マレウス君やリリアさんに示唆はされていたんです。私の体質と魔法は密接に関わっているから魔法を無くすという方法は無理ではないかと」


予期していたからアズールにこれまで魔法を預ける方法を取らなかった物の、魔法ごと捨てる方法は根本的に駄目だと思い知らされて、エミルは大きくため息を吐いた。
寒い、何て感覚を抱いたのは初めてのことだった。あれは間違いなく死の淵に立たされている感覚だったのだろう。
ジェイドの表情をちらりと覗き見ると、何時もの余裕が伺える笑みはそこになかった。安堵と、少しの怒りが混じっているようだった。


「どうして貴方にとって関係ない、店の客人でもない寮生を助けたんですか?そのせいで、死にかけたというのに」
「……、本当に、関わらないでおくことだって出来たのに。アズール君の被害者を彼の為にも極力減らしたかったなんて、一瞬過って、その時には動いてる私が居ました」
「エミルさんが今回関わっていないと思っていたので、僕も対処が遅れました。その尻尾を掴ませない動きは流石ですが……無理をしないで」


ジェイドの険しい表情もご尤もだと、申し訳なさそうに謝った。

――彼女が死ぬかもしれないと思った。
自分がたった一人だけだと定めた番である彼女が。別に、普通の人間だったら魔法や運動能力等を取られた所で命に関わることなんて無い。
それはエミル自身も見通しが甘かった点だ。たまたま魔法を無くすという方法をこれまで選択していなかっただけで、遅かれ早かれこの方法を試していたら同じことになっていただろう。


「予想外なことは好きですが……こういうのは、僕も御免ですよ」
「ジェイド……」
「はい?」
「触られてる所、あつ、くて」


離れた手はそのままエミルの頭に移り、頭を撫でられる感覚と額に口付けられる感触に、どくりと鼓動が跳ねて、身体が熱いような気がしてくる。
この手は冷たいままだけれど、熱が灯っていると訴えるエミルに、ジェイドは熱の塊を飲んだ気分だった。

「僕が熱を与えられるなら、もっと差し上げますよ。あなたは僕の番ですから」

――本当なら。こんなことが起きるくらいなら。
貴方の体温を戻す方法は僕が探しておきますからと言って、自分の元に縛り付けておいた方が安心出来るのかもしれない。
足につけたアンクレットという足枷のように、勝手に何処かに行ってしまわないようにした方が。
体温を直す方法が見つかれば、この学園から居なくなってしまう気の彼女が居なくなる心配もないというのに。

そんな本音は呑み込んで、エミルの唇に指を当てる。
つうっとなぞった後に、唇を重ね合わせてリップ音を立てながら触れた感覚に、目の前のエミルは目を丸く開いて。
徐々にその顔が真っ赤に染まって、毛布代わりに掛けていたジェイドの寮服の上着で顔を隠した。


「ちなみに、アズールが非常に申し訳なさそうにしていましたよ」
「私の場合は特殊なケースなので、別に気にすることは無いのに」
「ふふ、今なら彼の珍しい心からの謝罪を貰えるかと。アズールも、無事で何よりでしたが」


利害関係の一致で一緒に居ると零しているジェイドだが、その声に安堵が滲んでいることにエミルも安心したように小さく笑った。
エミル自身もアズール本人との縁があるからこそ心配したという所も勿論あるが。ジェイドにとっては曲がりなりにも友人である彼が無事で良かったと思う感情は、決して偽善ではなかった。

何故この談話室に自分が寝かされていたのかと問いかけると、あまりの冷たさに寮の入り口に近いこの場所までしか運び出せなかったのだとジェイドは答えた。
彼らでさえ長距離運べない程に冷たくなっていたなんて想像するだけでも肝が冷えるが、無事に戻って来られて良かったとエミルは自分の身体を擦った。

――オクタヴィネル寮の入り口を通って走る足音に目を向けると、アズールとフロイドか談話室に向かって来ていた。
起き上がっているエミルの姿を確認して、アズールは目を開いて酷く安心しているようだった。
気を失う直前はオーバーブロッドした姿だったが、元に戻っていた。エミルはアズールにどうも、と挨拶をしながらジェイドの後ろからひらひらと手を振った。


「エミルさん起きましたか、ジェイド!」
「あっ、目ぇ覚ました?この指何本に見える?」
「え?あ、八本ですね」
「うん、せいか〜い」


フロイドが右手を開いて左手で三を作ったのを冷静に答えると、フロイドは満足そうに拍手をして、ぺたぺたと体温を確認するようにエミルの顔や手を触っていく。
もう既にアズールには事情を説明しているのだろうかとジェイドに小声で問いかけたが、「アズールには後ほど伝えようと思っています」と語った。
ここまでくれば、事情を知ってもらっていた方がいいだろう。弱みになるかもしれないと思って伝えていなかったが、この状況ならば言っても支障はないだろうと頷いた。


「……すみませんでした、エミルさん」
「アズール君、謝らないでください。そうですね……それなら、この分は、アズール君に関する今回の情報と等価交換です」
「そ、それは……」
「いいよぉ、何から話す?昔のアズール?ちょっとダサかったさっきのやけ起こしたアズール?」
「フロイド、お前……!いや、エミルさんには話す義務がありますけど……!」


恥ずかしそうに聞かないでください、と嘆くアズールをよそに、アズールの昔話を喋りはじめる。
秘密保持契約も今回の場合はあったものではないと、ジェイドは悪戯にくすくすと笑った。
今回エミルとの関係性を誰にも伝えていない中で起きた一件だったが、そろそろ伝えるべきなのかもしれないと思案しながら。


――翌日、一連の騒動が収まった日からエミルはミステリーショップに復帰していた。
サムから一日休んでも良いとは言われたけれど、あの瞬間は人生で初めて寒いと感じたほどだったというのに、魔法が戻って来ただけで不思議と体調も元通りだった。
店番をしているエミルの元に昼休み訪ねて来た生徒は、エミルの体調を確認しながらもこんこんと注意をしていた。


「エミルさん、普段と違うことするからッスよ。情報だけもらってはいさよならってすればよかったのに」
「ラギーさん痛い所をつきますね……」
「っていうかその後ろの明らかなプレゼントの箱、もしかしてお見舞い品ですか?エミルさんが逃がした生徒からの」
「えぇ、そうなんです。皆さん一応そこは律義ですね」
「あんまり人のために動くと自分が損してからじゃ遅いですからね。商売人の鉄則じゃないッスか」


昨日間近でエミルが倒れたのを見ていたラギーが体調確認も兼ねてミステリーショップを訪れていた。
エミルらしからぬ行動で危険な状態になったことは確かに自分の落ち度であると、反省していたこともあって、ラギーの指摘は的を得ていた。
彼らサバナクローの生徒が今回手伝ったのだって人の為ではなく、自分達の為だ。その潔さは清々しくもある。

扉に取り付けてあるベルがカラン、と音を立てて開き、店内に入って来たのはイソギンチャクが頭から生えていないエース、デュース、グリムと、監督生だった。


「ちーっす、エミルさん。調子どうです?」
「リーチ兄弟が珍しく焦ってたからかなり不味い状況かと思ったんですが、回復してよかったです」
「ふふ、ありがとうございます。起きたらすっかり元通りでした」


氷の魔法も、ユニーク魔法も。
それから冷たすぎるこの体温も。すべてが元通りだ。
自分の願いはゆっくりとその方法を見付けて叶えて行くしかないのだろう。
これまで通り。この学園で体温だけを普通のに戻す方法を商売を通して探りながら。


「オンボロ寮が無事に戻って来たみたいで良かったです」
「本当にありがとうございました。あの日、アズール先輩の契約書に関するヒントをくれましたよね」
「あ、ラギー先輩居るからあっちの話はしない方がいいんじゃないか?」
「ご安心を。ラギーさんは常連です」
「え?君らもリズベットのお店教えてもらったんスか」


一年生でまだ知っている生徒はサバナクロー生でも少ないのをラギーも知っていた。
知っている人間が教えれば彼女の店を知る人間は増えるが、何せ適当な人間に言いふらすと自分の信頼にも関わって来る。
トレイやケイトといった既にリズベットの店を知っている先輩に教えてもらったのだろうかと一瞬考えはしたが、ラギーの質問に「昨日、エミルさんに声をかけてもらって」とデュースは正直に答えた。


「そうだ、ユウさん、グリムくん。ちょっとご相談してもいいですか?」
「はい、なんでしょうか?」
「オンボロ寮の使ってない一室とか……店の倉庫用にお借りしたりできませんか?勿論家賃はお支払いします」
「家賃……?そ、それってツナ缶何個分くらいなんだぞ?」
「あ、ツナ缶は別にサービスさせてください」


突然のエミルの申し出に、ユウの目は丸くなるが、その申し出方が胡散臭くはなかっただけでも、好印象に映った。
流れるように具体的にはこんな数字で、とエミルがさらさらと書いた紙を見たグリムは目を輝かせて監督生の肩を叩いた。


「ふなっ!?ユウ、受けるんだぞ!オレ様達が使ってない部屋を使って貰うだけでおこづかいとオレ様の食料が確保されるなんて最高なんだぞ〜!」
「アズールの話の後だから滅茶苦茶良心的っていうか、学園長と比べてもちゃんとしてる話を初めて聞いたな」
「ほんっとそれ……」
「使ってない部屋が何個もあるので、ぜひ」
「ありがとうございます、ユウさん、グリムくん!」


快く引き受けた彼らの会話を聞いていたラギーは、一見良心的に見えるエミルの提案ではあるが、そもそもエミルの今回の件に関わった真意に気付いて苦い笑顔に変わった。
ただただ人が良すぎる行動に疑問を持っていたが、彼らがアズールとの契約に勝った場合に賭けたのだろう。


「……わぁ、ユウくん達にエミルさんの店教えて、危険を冒しても甲斐甲斐しく助けたのこういうことッスか……抜け目ねぇっつーか……」
「何でしょう、ラギーさん」
「いーや、やっぱりただの善意だけよりよっぽど信頼できるなと思っただけッス。敵には回したくねーけど」


たった月1万マドルでオンボロ寮の使用権利を貰ったエミルの商売人としての抜け目なさに、今回の彼女の行動の理由を察したラギーは肩を竦めた。
善意にも見える分、しこりは生まれない上手い商売方法ではあるが、その手腕に「だからアズール君もエミルさんとの商売は気を揉むって言ってるんスよ……」と零したくもなる。
エミルは否定も同意もせず、笑顔でラギーの指摘に応える。

――勿論、今回動いた理由はそれだけではないけれど、本音は明かし過ぎないに限る。
エミルは昨日の体温を思い出しながら手をぎゅっと握り、アトランティカ記念博物館にいつか行けるようになればいいな、と微笑むのだった。