氷菓童話
- ナノ -

雪の枷

今日はアズールとの約束の三日目。タイムリミットは日没だ。
双子を突破する方法ではなく、監督生はサバナクローの協力を仰ぎ、アズールの契約書を破る方法を選んだ。
しかし、怪しまれないように監督生たち全員アトランティカ記念博物館へと向かい、リーチ兄弟の相手をする。

その作戦が決まった日。ラギーはモストロ・ラウンジに向かう前に、ミステリーショップへと足を運ぶ。
それは情報を彼女に売るためだ。このミステリーショップに店を構える商売人の少女、エミル・リズベットに。


「ラギーさん情報をありがとうございます。これ、お代です」
「シシシ、毎度ありッス〜」
「そんな計画をしてるなら……私もモストロ・ラウンジに行きます。もしかしたらアズール君がドリンクを持ってきてくれるかもしれませんし」
「またまたーホントはユウくん達がここに居られないから心配してるんでしょ?オレ達にはない良心ッスよ」
「……ユウさん達もそうですけどね」
「?」


作戦が上手くいくかどうかも気になるけれど、契約を物理的に破棄させられた時のアズールが少々気になる。
開店直後のお店に、サバナクロー寮の生徒達を終結させるという作戦を聞き、エミルもまたサムに声をかけておき、ジェイドが今日は一日アトランティカ記念博物館の前で見張っていることを知っている上で「今日、モストロ・ラウンジに食べに行きますね」という連絡を入れる。

何となく、胸騒ぎがして、放って置くべきではないような気がしてしまうのだ。
そんな偽善にも似たお節介なんて自分らしくもないのに――もっと商人らしく合理的に、結果を待っていればいいというのに。
そうしきれないのは、何だかんだアズールともこの一年間、縁があったからだろうか。
試験勉強をしたくないあまりにアズールに頼った生徒達の考え方も正しくはなく。アズールの言葉巧みに達成不可能な条件を与える行為も正しくはなく。
どちらもどちらではあるから、そこに対して善悪を判断するつもりは無い。だからこそジェイドの行動にも何も言わないし止めない考えなのだから。


サムに声をかけて、エミルはバイトも早々に切り上げて、モストロ・ラウンジへと足を運んでいた。
ジェイドが居ないと解っている日に来るのは初めてのことだったからそう言った意味でも新鮮だ。
オクタヴィネル寮の生徒に一人カウンター席を用意してもらい、ドリンクを早々に頼んだエミルは、店内が騒がしくなっていくのを聞きながら「レオナさんの統率力、すごいですね……」と呟く。
レオナの号令で、何時もは統率力が無いように見える個性の塊のサバナクロー生がここまで一致団結するのだから、思わず感心してしまう。

(あ、ラギーさん……)

店内にラギーが入って来たことに気付き、エミルは不自然に見えないように視線だけをそちらに向ける。
普段だったらホールの混乱はジェイドかフロイドが居ればすぐに収まるのだが、今日は二人ともアトランティカ記念博物館に居る為、一切の制御が出来ていない状況だ。
どうしたらいいかわからなくなったらしいオクタヴィネル寮の生徒はVIPルームに待機していた支配人のアズールを呼びに行ったようで、彼がホールに姿を現した。
開店と同時にここまでの客入りになっていることなんて滅多にないこともあり、アズールは困惑しているようだったが。

ラギーが素早くアズールのポケットから鍵を盗んだ瞬間を見たエミルは、きっとこれで大丈夫でしょうね、と胸をなでおろす。
何時もは聞こえるジャズミュージックもなかなか聞き取れないほどの様々な話し声がモストロ・ラウンジを飛び交う。
今日は仕方がないけれど、やはりこの場所は落ち着いた空間の方が心が休まるものだと噛みしめていた時、アズールがその後ろ姿に気が付いた。


「エミルさん……?今日来ていたんですね」
「アズール君、大丈夫ですか?……何か今日、騒がしいというか……こんなにフードやドリンクが勢いよく出てるの珍しい気がして」
「そうでしたか。はぁ、飲み物の在庫や食料の在庫が尽きそうですよ。購買部に買いに行かないといけませんね」


購買部という名前を出された時に、エミルは目を鋭く細める。金庫にお金を取りに行くという考えに至るということは、金庫の鍵を漁るはずだ。
ラギーとレオナを彼が追いかけるのも時間の問題。そして後はユウ達がジェイドとフロイドが来られないよう、なるべく足止めをするだけだろう。
エミルはグラスを傾けて、ドリンクを喉に通す。
ポケットを漁っただろうアズールの顔面が蒼白になるのを横目で見ながら結果を見守るのだ。

ラギーとレオナの手際は、驚くほど良かった。想定していたよりも早くモストロ・ラウンジに戻って来たその腕には、大量の金の契約書の束が抱えられていた。


「シシ、エミルさんどーも。バッチリっすよ」
「レオナさんの手にある契約書……!上手くいきましたか」
「はっ、当然だろう。お前も契約書を破棄する瞬間を見るか?」
「いえ、大丈夫です。あとは、宜しくお願いします」


エミルの回答にそこまでの興味はないのかとつまらなさそうに肩を竦めたが、ラギーとレオナは寮の入り口に向かって走り去っていく。
――悪徳商法とはいえ、彼が積み重ねてきたものが全て砂となって消える瞬間を見るのは、少し心苦しかった。

「とはいえ、そこで止めようとしない私も……とても、善人ではないんですけどね」

サムに言われた「いい人」という言葉を思い出したエミルは、ぼんやりとモストロ・ラウンジの水槽を眺めて、ジャズミュージックに耳を傾ける。
ジェイド、貴方も珍しく出し抜かれましたね、と苦笑いをしながら。
まさか普段利益があってもあまり積極的に動くことのないレオナ・キングスカラーをユウとグリムが脅して、味方に付けるとは思っても居なかったのだろう。
過去に一度アズールと取引したことがあるレオナとしては今回のことは都合がいいと利害の一致はしたみたいだが。

その時、ざわっと一際店内が騒がしくなったことに気付いて、エミルは水槽から視線を移した。
店内に居るホール担当の生徒の頭に生えていたイソギンチャクが光の粒子となって消えたのを見て、がたっと席から立ち上がる。


「まさか……!」
「あれ、イソギンチャクが取れてる。どうなって……!」


無銭飲食を疑われないように机にちゃんとマドルを置いたエミルはモストロ・ラウンジを飛び出し、外が見えるガラス状の通路に出る。
ここからアズール、ラギーとレオナの姿が見えるけれど、会話までは聞こえない。寮の入り口にまでいかないと、分からないだろう。
それでも、レオナが彼の契約書を全て砂に変えたことはイソギンチャクがなくなったことからもすぐに解った。

これで、監督生たちもアズールに勝ったことになり、無事にオンボロ寮も元に戻る。
全てがこれで終わりそうだと胸をなでおろしかけた時、エミルは蒼く輝く海の違和感に気付いて眉を寄せた。
黒い炭のような靄が海の中に広がり、深海とも異なる禍々しい色に海が色付いていく。まるで瘴気が海に大量に流れ込んでいるような景色に、嫌な予感でどくどくと心臓が煩く跳ねる。

「まさかこれ、アズール君ですか!?ジェイドとフロイド君は……!?」

異変に気付いた生徒達が次々と寮から、モストロ・ラウンジから出てくる。
海の色やただならぬ気配に、異常を察知したのだろう。呆然と海を眺めて足を止める生徒に、エミルは声を張り上げた。


「皆さん、逃げて下さい!そこから離れて!」
「エミルさん……!」
「まさか……オーバーブロット……!?」


アズールに標的にされた寮生たちが何かを吸い取られた瞬間、倒れて行く。
彼のユニーク魔法である金の契約書は、制御装置のようなものだった。他人からすべての能力を吸い取ってしまっていることに気付き、エミルは「急いで鏡舎に避難を!」と声をかけてモストロ・ラウンジに残っている生徒達を誘導する。
そして一番の標的になっているらしい寮生たちの避難誘導の為に、寮へ繋がる通路を駆け抜ける。
ちらりとアズールが居る方に視線を向けると、ジェイドとフロイドが戻って来ているのが見えて、ほっと胸をなでおろしたのも束の間。

目が一瞬、錯乱状態のアズールと合ってしまったような気がして、息を呑んだ。
そして彼が指差す方向には何人かの寮生が居て、エミルは手袋を素早く外した。
――自分も今、標的に、認識された可能性があるけれど。


「冬よ凍てつけ!氷の心臓を溶かすのは少女の泪のみ」
「ははは、寄こしなさい、全てを!」


溶ける氷の鏡――メルト・スノークイーン。

雫が指先から零れたと同時に、冷気が周囲の気温を一気に下げる。
泥自体を凍らせる雪の花が、海底に咲いた。
ジェイドはその魔法に、エミルの存在に気付いて目を開いた。氷の花が咲き、逃げ遅れた生徒を守るような壁となっていた。


「そこに座り込まず、逃げてください!足を止めずに!」
「ひっ……は、はい……!」
「放って置けばいいのに……本当に、馬鹿ですね、私……!」
「ふな!?あれエミルじゃないのか!?」
「げっ、興味ないスタイルだったのに律義に生徒誘導してたんスか!?危ないから離れた方が……」


厄介ごとからは早々に逃げて、もう鏡舎の方には戻っているだろうと、付き合いもそこそこ長くなっているラギーでさえ思っていた程なのに。
何の気まぐれか、彼女はモストロ・ラウンジに居た生徒だけではなく、寮生まで誘導しているなんて。先ずは自分の身を守るべきです、と言いそうな彼女が。

フロイドのアズールに対する包み隠さない正直な言葉に、アズールの感情が黒い波となって溢れ出る。
オーバーブロッド寸前の状態で、彼が見ていたのは、生徒達を避難誘導したとある少女だ。


「あぁ……貴方は、本当に素晴らしい強力な魔法の持ち主でしたね。氷の城を建造できる位に……」
「アズール!!」


――魔法を無くした所で、体質までは改善出来ないので、それでは意味が無くて。
――エミルの体質は魔法と密接に結びついている。
そんな会話が、走馬灯のようにジェイドの頭を過る。

アズールの所持する薄紫の結晶にインクが零れ落ちて行くように。漆黒に染まり切ったその瞬間。
標的を一人に絞り、逃すまいとエミルを囲うように黒い泥が彼女の周りに円を作る。命の危険を感じたエミルは反射的に氷に圧をかけて、ドーム状に展開する。
これで逃げ切れるとは思ってはいなかった。
思ってはいなかったけれど。巨大な蛸の脚で、その氷を砕き割ったのだ。

「ぁー―」

瞬間、砕け散った氷の破片と目の前がダイヤモンドダストのようにちかちかと輝いて。黒い海水が流れ込んでくるような感覚がして。

ジャックが素早く動こうとしたが、それよりももっと早く動いていたのはジェイドの声を聞いて駆け出していたフロイドだった。
倒れたエミルを担げるのは、実際フロイドとジェイドだけだっただろう。氷の塊を運ぶようなものなのだから。


「エミルさん!」
「なんか普段よりヤバいくらい冷てぇんだけど、ジェイド」


滲む視界に、担いでくれているフロイドと、余裕の無さそうな表情のジェイド。
それから奥の方には監督生やラギーたちが居るのがぼんやりと見えたが、ゆっくりとその視界がホワイトアウトしていく。
意識が切れる直前に感じたのは、エミルにとって初めての感覚だった。

「……さ、むい……」

――からだが、こごえそうだ。


そう呟いて意識を無くしたエミルに、最悪の事態を察する。
担いでいたフロイドはエミルを地面に寝転ばせて、ジェイドは寮服の上着をかける。
振り返ればオーバーブロッドして、元の蛸の人魚に戻っているアズールと、彼の背後に同じような蛸の形を模した巨大な影があった。


「……フロイド、早急にアズールを止めますよ」
「……ハマシギちゃん、魔法無くしたいんじゃなかったっけ」
「このままでは、体内も凍りかねません。アズールと同じく、制御になっていた氷の魔法が無くなっている状態です」


彼女は魔法を無くした所で体温が元に戻る訳ではないだろうと仮定していた。
だから、アズールと契約をして氷の魔法を預けてみることはしないと言っていたけれど、実際の所は彼女が想定していたよりももっと不味い状況だった。
妖精が魔法を無くしてしまうのと同じように。人魚が海の中でエラやひれを無くしてしまうのと同じように。
彼女から切っても切り離せない――切り離してはいけないものだったのだ。

ジェイドはその手にマジカルペンを取り、オーバーブロッドしたアズールと向かい合う。
手に残るのは、何時もよりも冷たい彼女の体温。氷のようというよりも、ドライアイスのような冷気に、ぐっと拳を握り締める。
アズールを救う為にも、エミルを救う為にも。方法はこれしかないのだ。