氷菓童話
- ナノ -

人である君、人魚である僕

人魚が陸で生活していくこと。その苦悩も、苦労も理解しているつもりだ。
冷たい深海の水を纏いエラで呼吸をするのが当たり前な人魚と、吐き出す呼吸は泡ばかりで水中で呼吸が出来ない代わりに地上では口で呼吸の出来る人。
水かきとひれによって一部の種族に例外はあれども水中を速く泳ぐ世界が当たり前だった人魚と、細い2本の脚で地面に足を付けて立ち、走るだけではなく飛行術で海面から手を伸ばした先の海と異なる青さえも飛べてしまう人。
一緒になるということは、何時か。どちらかの生活圏に合わせなければいけないということだ。

一時的に人を人魚にする薬というものも、勿論ある。
彼女を海の世界に連れ込み、脚を奪うことだって出来る。人魚に魅せられて恋した氷の女王なんて、それこそ童話で読むような美しい響きではあるが。
ジェイドは彼女の悲願でもあった"体温を人並みに戻す"という願いを叶えるつもりは無かった。
それは、妖精が魔法を失うのと等しいことである。人魚が一時的に人の姿に変わるというのとはまた話が異なる。
エミルの身体自体だけではなく、魔法自体にも結び付く、所謂彼女の根幹であり、源だ。

人とのプライベートな距離を変えることにあれだけの恐れがあったことを考えれば、人と違うその体温によって相当根深いトラウマがあるのも容易に想像は出来る。
過去を知る人々に根回しを行い、過去の己を変えるべく努力をひたすらに積み重ねたそんな男の補佐として、この学園生活を過ごしているのだから。
体温を元に戻すと寧ろ身の危険がある等以外にも勿論、彼女に触れられる人間が少ない状況は”あまりにも好都合”だったことが主な理由だが。

もっとも、どちらの世界でどう生きていくか。
恋人である以上そのことを考えるのはもっと先の話ではあるのだが、ジェイドの中で既に答えが出ているという単純な話だった。


――彼女は、自分の番なのだから。



「……ジェイド」
「はい、何でしょうリドルさん」
「いや、随分と手際が良いなと思ってね」
「ご謙遜を。リドルさんも流石、配合を間違えませんね」


実験服を着た彼らが行う授業は錬金術。
大釜を掻き混ぜるジェイドは実に機嫌が良さそうだった。元々錬金術も得意な方ではあるジェイドが素直に授業を楽しんでいる――そんな訳がないことはリドルも勿論知っている。
リドルの経験則上、リーチ兄弟は機嫌がいいと大抵ろくなことがない。そんな本音を飲み込んで、妙に機嫌のよさそうなクラスメイトを眺める。
何せこのジェイドという男は、興味関心が湧くものに対する好奇心のままに生きている。それが例え悪童のようなものだとしても。


「何か機嫌が良さそうな時は、教科書通りを君は放棄しようとするからね。得意な筈なのに」
「……!ふふ、リドルさんは良く見ていらっしゃる。ただ、アズールと比べれば得意という程ではありませんよ」


決まった手順で決まった結果を導き出すという事柄に対して、あまりジェイドの興味が惹かれることは無い。
ただ、自分で材料を集めて行って開発も時々行う魔法薬学や、アズールの手伝いで未知の物を作成するという意味での錬金術はジェイドも好きだと言えた。
リドルは常に一位であり続けることを課せられているリドルに対して、ジェイドは人からの評価に対して興味関心は無かった。あくまでも自分の興味関心を満たせるかどうか、それしか尺度が無いのだ。


「ステイ、そこまで。ほう……ローズハートとリーチの所の出来は、ふむ、悪くない。素直に褒めてやろう」
「ありがとうございます。ふふ、リドルさんのお陰ですね」
「まったく……よく言うよ」


リドルは、彼らが一体今何の商売に最も力を入れているかまでは知らない。
何せ、そもそも基本的に関わらないようにしているからだ。金魚ちゃんと呼んで戯れるように追いかけてくるフロイドは除いて。

リドルの指摘通り、機嫌が良いと言えるような状況だと、実に営業にも身が入るというものだ。
今度行われるテストでのアズールの努力の結晶でもある過去問対策問題集を得る代わりに、テスト50位以内に入れなければ契約放棄ということで、この学園にいる間はモストロラウンジでタダ働きをしてもらうという本質がそこにある契約の宣伝。
200人以上の契約者が居る時点で必ず契約を達成できない生徒は出てくるから、アズールの契約という名の商売は上手くいくことになる。
今年の結果もいい商売が出来ると満足気なアズールと、兄弟にとって楽しいと感じられることに興じられるのは、ジェイドが嫌う退屈がそれだけなくなるということなのだ。


ーー昼の営業時間は、昨日サボった分までフロイドに任せているジェイドは、昼食にとある人物を誘いに、校舎を離れていく。

校舎から少し離れた場所に位置するミステリーショップ。二階建ての購買部には相変わらず店の外まで雑然としている。
装飾用なのかクリスタルの装飾に使うかどうかも分からない楽器。夜の灯りを照らす街灯の下には街灯があれば意味をなさない蝋燭。
これらの独特な装飾は元からこの店の店主であるサムの趣味ではあるが。


「いらっしゃいま……」
「こんにちは、エミルさん。おや、お取り込み中でしたか」
「ジェイドか。実験着を着てるなんて、授業だったか何時もの植物園か?」
「えぇ、授業だったんですが、その後にすぐ来たので」
「成程、取引か。それじゃあエミル、俺はこれで」
「いいえ〜またいらして下さいね、トレイさん」


次の客が来たことを察したトレイはにこやかな笑みを浮かべて手をひらひらと振り、店をそのまま出て行く。
パタンと扉が閉じられる音がしたと同時に、エミルの食えない笑みが引きつり、熱い溜息を吐いた。
エミルから伝わる僅かな警戒心は、客人に向けられるものではないことは分かっていた。好意を向ける相手に対して、気恥ずかしさが混じるような戸惑い。
ぞくりと背筋が震えるような感覚に、思わず口元を隠してしまう。


「突然来ると吃驚するんです、ジェイド君」
「ふふ、見慣れないだろう実験着にもしかしてどきっとして頂けました?」


そんなあざとい手に「そういうことを狙って着て来たんだろうと思いましたよ!」と返してくるだろうかと見え透いた質問をしたことに自嘲したジェイドだったが。
反応がないことに気付いてエミルに視線を戻すと、彼女は顔を赤く染めて、視線を逸らしていた。


「わざわざ、言わなくていいんです……」
「……」


素直な男子高校生らしい表情のジェイド・リーチの姿がそこに在った。
恋というのは実に不思議なもので、こんなにも感情を掻き乱してくるものなのかと、感情の一つ一つが新鮮だった。
自分も知らない、経験したことのない感情は泡沫がぱちんと弾けていくような感覚だ。海中に居た時には経験出来る日が来るとは思わなかったものだ。


「エミルさんに惚れ直して頂けるのは良いですね。着てきたままでよかった」
「うう……お昼にこんな所に来ていいんですか?今忙しいんでしょう?」
「試験勉強の話ですか?」
「何というすっとぼけぶり。期末試験の営業、噂を聞きましたよ?相変わらず悪徳商法と言うか」
「他の契約者には他言無用ということで営業して契約をしているのですが、やはりエミルさんもご存じでしたか。それを聞いても、僕を見限らない所に愛情は感じますが」
「……悪気がこれっぽっちもない……」


否定できないのも悔しい話なのだが、ジェイドのこの一面を知ったうえで受け入れたのだから、ジェイドの言葉を否定することも出来なかった。
二人の恋というのは世間一般的な恋心という定規で測ることは出来ないのだ。
それはエミルという氷の女王の末裔が相手ゆえに。そしてジェイドがウツボの人魚であるがゆえに。


「……錬金術用の素材を交換に、エミルさんのお昼時間を頂けませんか?エミルさんの分のお弁当もご用意させて頂きましたので」
「ジェイド君の料理は美味しいのは分かってるんだけど……!な、なんでしょう、そういうのは私がやることの気がするんだけど」
「おや、今度はフロイドではなく僕に振舞って下さるということですか?楽しみにしていますね」
「あっ」


口を滑らせたものだと思っても時既に遅し。
にこにこと微笑み、「彼女からのお弁当ですか。特別感がありますね」と呟く彼に対して今更作りませんとは言えず、「今度頑張ります……」と答えてしまう。
そもそも依頼としてではあるが、フロイドの夜食を作っていたことを考えると、どうして自分には作らないのだろうと思って当然だろう。
ジェイドの料理の腕前を考えると気後れをするのだが、美味しいと喜んで貰うこと自体は悪くない。


「あの、私の部屋で食べますか?……ここの二階ですけど」
「……部屋に男を呼び込む、という意味を深く考えても?」
「考えないでください!?」


つうっと頬を撫でてくる手に、エミルはそんな大胆な誘いをするつもりはなかったのだと耳まで朱色に染めて、警戒心を強めるように飛び退く。
他のお客さんが来る前に、と、エミルは2階への扉前にジェイドを案内し、リズベットの店を開いていた間に奥で待機してくれていたサムに「サムさん、ありがとうございます!もう大丈夫です」と声をかけた。
普段鍵をかけて、他の人が上がれないようにしている購買部の二階は、エミルの居住スペース兼倉庫だ。
一階の様々な世界観が混じったような雑然とした雰囲気ではなく、エミルらしくアンティークの家具と氷のようなランプが置かれている。しかし、寮生の部屋よりも寝泊まりする部屋の感じが強く、あまり趣味の物のような小物が見られない。
寧ろ、空間の半分を占めている棚に並べられた大量の商品とベールのような薄く透けてる布が被されているエリアの方が目立つ。


「こちらがエミルさんの自宅なんですね」
「恥ずかしながら半分は商品用の倉庫だけどね。あ、そのベール取ろうとすると人の温かな体温に反応して手を凍らせる仕組みになっているので触れない方がいいですよ」


プライベートな空間に置いている商品といえども、セキュリティのかけ方も実に彼女らしいことに、ジェイドはくすくすと笑った。
流石は氷の商人たる一店の店主と言った所だろう。
ティータイムを楽しむ為に設置していたテーブルとチェアにジェイドを案内し、エミルは冷えたオレンジ水を用意する。


「今日のお昼は食堂で食べようか悩んでたから正直ありがたいというか」
「ふふ、胃袋を掴むのは大事と言いますからね」
「ジェイド君のそのストレートな下心はせめて隠して貰えませんか」
「突然戸惑わせるような強い下心を出されるよりはいいかと思いまして」


相変わらず悪びれている訳では無い言葉に、エミルはジェイドの手を掴んで冷気を与える。それがジェイドにとって苦痛の温度ではないと分かっている上でしているのなら可愛いものだと微笑むのだ。

ジェイドが用意したというそれはお弁当と言うより、相変わらずそれはモストロ・ラウンジでお金を払って食べるような料理と盛り付け方で、世間一般的な弁当箱に入っている訳ではなく、捨てられる容器に入ったテイクアウトのようなものだった。
卒なく何でも出来るイメージは、まるで完璧な執事のようだが、本性は別にそうではないことなんて知っている。
その本能を出さなければその能力と交渉術や対人スキルに、凄い人、と尊敬されそうだが。ジェイドは何処まで行っても人からの評価に興味が無いのだ。


「ジェイド君のご飯はやっぱり美味しいですね……!」
「ありがとうございます。モストロ・ラウンジに毎日来て下さっても構わないのですが」
「時々行くようにはなったけど……贅沢な味を毎日取るのは人としてダメになりそうなので。フロイド君は夜食食べるけど、ジェイド君は食べるの?」
「えぇ、時々。お恥ずかしい話ながら、僕は燃費が悪いもので」
「なるほど。羨ましい……言ってみたい言葉というか」
「そうですか?」


ーー通説によると食欲は性欲に繋がっているという話を聞いたことがある。
人魚の交尾と交尾以外の意味合いもある人の営みとはまた異なる。それを実感することができるようになったのは二年前から。そして、知識とは異なり、理解するようになったのは最近の話だが、いざその時が来たら貪りそうだ。
そんなことを実感しながら、ジェイドは口に食事を運ぶ。どんなに上品に食べたとしても、咀嚼する鋭利な刃のような歯は貪欲に貪る。

エミルと恋仲になってまだ日も浅いのだから、これからの時間こそがジェイドにとっては愉しみで堪らなかったのだ。