氷菓童話
- ナノ -

泡沫を知らない人魚

今になって、ふと初めて出会った頃のことを思い出す。

自分達がまだ入学したてで、副寮長にもなっていなかった頃。モストロ・ラウンジの経営準備は行っていたが、まだ設立までもう少しで条件が揃う頃。
秋風が段々冷たくなって色付いた葉が地面を色とりどりに染める季節。

上級生たちが「ミステリーショップにどうやら女の子のアルバイトが入ったらしい」という話で多少ざわついていたのを覚えているが、別にその頃の彼女にナイトレイブンカレッジに新しくやって来た女性だという興味関心は持っていなかった。
アズールは水面下で着々と契約を結んだ生徒達の願いを叶え、そして契約違反をした生徒からは担保として預かっていた物を貰って行く。
そうやって営業をする為の基盤づくりを行い、オクタヴィネル寮の寮長の座も視野に入れていた中で、ミステリーショップに足を運ぶたびに「いらっしゃいませ」と店番をしているらしい彼女がどうやら"ただのアルバイトではない"と知ったのはアズール経由だった。

アズールが意地の悪いことに『この条件は叶えられないだろう』と想定して設定した条件をクリアした先輩が居たのだ。
何故その素材を用意できたのかと疑問に思ったアズールが調べると主に二年生・三年生のごく一部の間で『ミスター・リズベット』という名前の店がナイトレイブンカレッジに新しく出来たらしいという話が囁かれていたのだ。
アズールは自分にその店の調査を命じてきた。急にそんな店が新しく出来たのだとしたら――突然男子校に現れたあの少女が無関係ではないだろうと当たりを付けて。


「やぁ、小鬼ちゃん!」
「こんにちは、サムさん。そしてこんにちは、エミルさん、でしたよね?」


話しかけた瞬間、彼女は目を丸くして「えぇ、そうです。こんにちは」と頭を下げた。
今まで何度かこの店を訪れてはいたけれど、彼女とは一店員としての距離感でしか接していない程度だったためか、一度として彼女に声をかけたことは無かったのだ。
だからこそだろう。朗らかに挨拶をするそつないアルバイトの表情ではなく、彼女の本来の表情が一瞬垣間見えたような気がした。
そうして確信する。彼女こそが『ミスター・リズベット』と名乗る商売人なのだろうと。この瞬間に、恐らくは彼女の店を開ける資格を貰っていたのかもしれないが。


「貴方は入学式の時に騒ぎを起こしたフロイド・リーチさんのご兄弟。ジェイド・リーチさんですね」
「おや、フロイドのその話だけではなく、僕の名前を知って頂いているとは。……貴方が、ミスター・リズベットでしょうか?」


その名前を出したと同時に、サムは「ごゆっくり」と微笑んで店の奥に引っ込む。
店の空気、彼女の雰囲気がその名前を出した途端に変わる。

彼女の店を初めて叩く合図だったのだ。そこに居たのは気さくで卒なくバイトをこなす少女ではなく、一人の商人だった。


「……ミスター。初めてのご来店ですね」
「なるほど。やはり貴方だった訳だ。サムさんの店とはまた違うんですね」
「私の店は基本的にマドルでの売買ではありません。物と物の等価交換が基本です。情報も勿論、物に当たります。何でも用意するとまでは断言しませんが、出来る限りの物は用意致しますよ」


それがミスター・リズベットの店の特色だった。サムの店は基本的にマドルで購入出来るものがメインだが、彼女は物々交換を主とした商売だった。


「例えば……赤点を取らない為の試験の情報だとか、そういうのは扱っているのでしょうか?」
「ふふっ、そのカテゴリーは私が手を出す範囲ではないと言いますか"既に寡占も望めない完全独占の市場"ですから、ご期待に添えないかと」


アズールに調査を任されて興味本位で彼女を試すように軽い問答をしてみただけだが、面白い人材がこの学園に転がり込んできたのものだと思わず笑みを浮かべてしまった。
彼女はアズールの商売を恐らく把握している。そして、その話を自分が知っている筈だろうということも分かった上でオブラートに包んで的確に突いてくる。
にこやかに笑う少女だが、相当抜け目が無いことだけはこのたった数分間で理解に至った。


「何か契約の邪魔をしてしまったんですね。商人として求められれば顧客に対応するという精神は"彼"も理解してくださるでしょうけど、申し訳ないですね」
「……ふふっ。エミルさん、アズールと話が合いそうですね」


アズールの商売における考え方と合致してる訳では無いとしても、理解し合える点が多いだろう。
彼女が商人として有能でなければ、そもそもサムが既に開いているミステリーショップのスペースの間借りを許して営業することに首を縦に降らないはずだ。競合を許すような関係性を構築していることに彼女の交渉力の高さを見た気がした。


「ジェイドさん、特になにかお求めの物とかは無い感じでしょうか?そしたらまた来店する際の合言葉をお教えしますが……」
「そうですね……折角なら。テラリウム用のケースとかはありますでしょうか?」
「えぇ、勿論ですよ。常温を保つ物から、冷えた温度を保つものまで色々あります」
「冷えた温度を保つ?そんなものまであるんですか」
「ふふ、見てみますか?」


その会話が、それ以前から見かけてはいたが初めて出会ったと言える瞬間だっただろう。
それからアズールやフロイドも彼女とやり取りをするようになり、その後モストロ・ラウンジを開店させた後も彼女とは付き合いが増えていった。
一年もの間、何故彼女がこのナイトレイブンカレッジに訪れ、普通ならば高額なマドルを取れるものも彼女が求めているらしい貴重な素材だとかを渡せば融通してくれるのか謎に包まれていたが。

ーー今では、彼女にとって協力者であり、何かあった時に無意識に頼りたいと思ってもらえる関係だ。
彼女は夜のオクタヴィネル寮の談話室で待っていた。フロイドへの用事が済めば、彼女は自分に声をかけずに帰ることも出来たのに、わざわざ自分を呼び出してきたのだ。


「フロイドがエミルさんに夜食を運んで来てもらったと自慢しに来たのですが……エミルさんが、オクタヴィネル寮にいらっしゃるなんて」
「夜食を持ってきてほしいとのことだったので、寮長のアズール君に寮に立ち入る許可を申請してくれたんですよ」
「そこに居たのはそうだったんですね。……しかし、避けられると思ってました。僕に声をかけずに、帰るのかと」


ジェイドの率直な言葉に、エミルは気まずそうに視線を逸らし「一瞬、考えましたけど……」と呟く。
答えが定まらないのなら避けようとしただろう。
しかし、確認しなければいけないことがあった。好意を無碍にするのは失礼だと思った。
だからこそ、エミルは今日ジェイドを呼んだのだ。


「ジェイド君と少しお話がしたいんですけど……このオクタヴィネル寮から外の海に出られる場所はありますか?」
「海に、ですか?」


比較的珊瑚の海出身者が多いオクタヴィネル寮の寮生の為に、寮の外の海に出られる場所はある。
入江のようになっているが、土日はともかく平日にそこから外の海に出ようとする者は居ないだろう。
ゆっくり話をするためにも誰か来る可能性のある談話室よりもその方がいいだろうと判断したジェイドはエミルを案内する。

建造物の構造的に、本来なら海中にあるのだからこうした海に出られる場所を作ると海水が寮内を満たして深海都市のように沈めてしまう所だが、魔法の賜物と言った所だろう。
海水が目の前に広がっている為か、潮の香りが鼻をかすめる。


「ジェイド君の故郷はもっと冷たい海ですよね」
「えぇ、この寮がある海は温かい方ですよ」
「私の街も港がありましたが、潮風より雪山の吹雪の方がどうしても馴染み深いんです。ここなら、大丈夫そう」


エミルはジェイドに笑い、マジカルペンを取り出した。そしてエミルが雪を閉じ込めたような宝石の輝きの如きマジカルペンをくるりと回すと、口元に空気の膜が覆う。
そして次の瞬間、彼女は水の中に飛び込んだのだ。

「っ、エミルさん!」

ばしゃん、と音を立てて海面から水中へ沈んでいくエミルの髪は靡く。
彼女の周りの水が薄く、白く凍っていくのが見える。海水も0度を超えたマイナスの温度の海水が流れ込むと、このように凍り付く。

動いていれば海水もかき混ぜられて完全に凍ることは無いようだが、そのままじっと動かずに浮かんでいれば彼女の周囲の水は氷柱のように凍るだろう。
その冷気がもしも海底にまで届いて伝われば、動きの遅いヒトデ等にとっては死を呼び込む冷気だ。それは人魚だからこそよく分かっている。
北の深海といえども、海中は常に2度から5度ほどを保っているとはいえ、海面に出ると外は極寒だ。
度々海面に出ることもあったジェイド達が寒さに耐性があるのは間違いないのだが、エミルはジェイドが海を故郷とする人魚だからこそ問いかけておきたかったのだ。

顔を上げたエミルが指先を滑らせると、氷の花が水面に咲く。


「現状、私は特に体温の低い日は自分の周りの海水を凍らせてしまいます。……ジェイド君が人魚だからこそ、これだけは聞いておきたいんです」


――貴方の世界を、私は壊しかねないから。


「私で、いいの?」


エミルという少女の臆病な躊躇いと、少しの希望。
敬語で相手との距離を測り、本来の自分をあまり見せようとしない彼女自身がそこにはあった。

――心の奥底にある、拒絶されることを躊躇う感情。繊細な雪の女王の血筋の少女。
貴方がいいんですよ。

「貴方以外に誰が居るというんですか」

ジェイドは魔法を解き、姿が変わって行く中でエミルが居る海に飛び込んだ。
海に飛び込んだ時にはその両足は長い尾びれへと変化し、肌は碧いウツボの人魚としての本来の物へと戻って行く。
長い尾びれや水かき。人には無い構造のそれは、種族の違いをまざまざと見せつける。人の形をしている時も190センチあった身長はゆうに2mを超えていて、エミルの手を取ったジェイドは尾を彼女の身体に巻くように靡かせる。


「僕は人魚です。魔法薬で足を得ていますが、本来の姿はこれなんですよ」
「初めて、見た」
「……幻滅しました?」


自分にとってはむしろ見慣れた姿であるが、人からしたらその違いに引かれかねない。今でこそ異種族の恋愛は珍しくないが、それでも事前に知ってもらうべきだと思ったのだ。
ジェイドの問いかけに「私の体温を"死人"だと幻滅しなかったじゃないですか」と微笑んだ。


「エミルさん。僕とお付き合い頂いてもいいですか?」
「……、うん。喜んで」


海の中に潜った二人の体の距離はゼロになり、触れるくらいの口付けは不思議と触れている身体以上に温かかった。
ゆっくりと離れて、背中に尾が触れる感覚に、エミルは恥ずかしそうに視線を逸らした。


「あまり海に浸かるのも身体を冷やしますから、上がりましょうか」
「えっ……?っ!?」


エミルの体を抱えたまま海面に飛び上がったジェイドの突然の行動と浮遊感に命の危険を覚えたのかエミルは叫び声にならない悲鳴をあげてジェイドの首に腕を回してしがみついた。
ジェイドが着地した頃には彼の体は人と同じ形に戻っていて、横抱きにされている状態だったが、着地できずに地面に激突するのではないかという浮遊感は実に心臓に悪かった。


「おや、そんなにしがみついて。怖かったですか?」
「他人事ですね!?ジェイドの性格の悪さは知ってるけど、本当にもう……」
「それを知っている上で貴方は僕を好きで居てくれてるんですから、……これだから離せませんね」


悪戯な微笑みの中に滲んだ、悪意が混じってる訳ではない純粋な愛情がそこにはあった。深い深い水底に近い海のような、強い想いだった。
ジェイドは部屋を出る前際に手に取ったポケットからラッピングされた袋を取り出し、エミルに「渡そうと思っていたものです」と手渡した。


「私に……?開けても?」
「えぇ、勿論です」


嬉しさに目を輝かせながら、エミルはラッピングを開けて中に入っていたプレゼントを取り出す。
小さな貝殻とアクアマリンが飾られているけれど、シンプルなアンクレットだった。金属はエミルの熱を通して冷たくなりがちだが、エミルの手に乗せられたそれは僅かに温かい。普通の人からすれば、普通の体温のような熱なのだろうが。


「気を、使ってくださったんですね」
「エミルさんに丁度いい物が見つかりましたので。良ければ付けさせてください」


アンクレットを受け取ったジェイドは膝を着いて屈み、海に入る際に裸足になっていたエミルの足に手を滑らせる。
紳士的なその立ち振る舞いは流石、物腰の柔らかさは完璧な彼らしいのだが、足に付けてもらうという状況が気恥ずかしくあった。


「……なんかこう、そういう所作が似合うからこそ恥ずかしい……」
「お褒めに与り光栄ですよ。エミルさんに、良く似合う」


エミルの細い足にアンクレットを付けたジェイドはそっと足をなぞった。
ピアスも一瞬考えたけれど――誰の目に見える所からよりも、まずは見えない所から。
愛情を伝えるためのアクセサリーの中でも、これは足枷だ。愛情という足枷。

その真意を伝えずに満足気に微笑んだジェイドは、ふるりと小さく震えたエミルに気がついて「エミルさん?」と問いかける。


「……自分の体温のせいでちょっと寒くて……自業自得ですね」
「寒さに慣れているとしても、風邪を引かれては困りますからね」
「!ぬ、濡れるから……」
「そんなこと気にしなくても大丈夫ですよ」


濡れた身体をふるりと震わせたエミルにジェイドは自分が着ていたブレザーをかけて、暖を取らせる。
体格差は分かっていたことだが、自分の服を着てもらうとより一層分かりやすくなり、ごくりと唾を飲んだ。
男性の中でも高身長であるジェイドの服は、平均身長程しかないエミルには大き過ぎるのだ。温かいのか、裾をぎゅっと握って綻んだ表情を見せた彼女に、ジェイドは無意識に動いた。
手をひんやりとした頬に滑らせ、金とオリーブの色の異なる双眸を細める。
背を曲げて顔を傾けると、戸惑った視線を泳がせながらも、エミルもまた顔を上げて少しだけ背伸びをする。

「ん……」

重ねるだけの口付けだと思ったのだが。
背中に腕を回されてぐっと引き寄せられたジェイドの動きに驚いた刹那、薄く開いた唇に舌が割り込んでくる。
驚いて逃げようとする舌を絡めとり、上顎を丁寧になぞっていく。

「ふ、ぁ……ん……」

深く深く口付けて、エミルの後頭部に添えた手で彼女を引き寄せる。
握り締められる手から伝わる冷気が愛おしく、服を握る手を指を絡めるように取って握ると、びくりと背中が震えたのが分かった。
あぁ、これは不味い。

骨の髄まで、食べ尽くしてしまいそうだ。


「ぁ、ぅ……ジェイド、君……」
「は……ふふ、何でしょう?」
「食べ、られるかと、思った……」
「……」


ぞくりと震えるこれは、高揚感だ。
食べ尽くしたいという素直な欲求に尖った歯を見せそうになる。
きっと無意識なのだろう可愛い誘い文句に、ぞくぞくと胸が踊る。

――今すぐに、食べ尽くしたくなってしまうけれど。今日はやめておきましょう。

「エミルさんが可愛いらしいもので、つい」

遥か昔――海の魔女が人魚の姫に半永久的な変身薬を与える為に課した契約条件に、王子から真実の愛のキスをされるという物があったそうだ。
自分からするのではなく、そもそも謁見の難しい王子を相手にさせるという条件に魔女の狡猾さを感じたが――確かに、一人から愛情を貰うのに三日どころか数カ月掛かったことを考えると。
どれだけその条件が難しいことかと実感出来る。

頬を赤らめて俯き、ジェイドの上着に体を包んだエミルは、自分の鼓動が耳元まで聞こえることに自分のことながら驚いていた。


「……口説かれても真剣に聞いてこなかったせいか照れることは無いと思ってたんですけど……私もちゃんと、女子だったみたいです。……こんなにも嬉しい、んですね」
「……エミルさん」
「私の初恋なんですから、悪戯心で苦いものにしないで下さいね?」
「偶然ですね、僕も初恋ですよ。好きな人の元へ通い続けた程の……初恋ですね」


番になることを前提とした男女の付き合いなのだから、苦い初恋も何も。
エミル・リズベットという少女にとって最初で最後の恋にさせるのだから。