氷菓童話
- ナノ -

羨望と春

薬指をなぞって、口説きながら再度思いを伝えた際に見せた彼女の赤い顔と羞恥心に困惑した顔が、目の裏に焼き付いて離れない。
冷水を浴びて頭を冷やした後も、どくどくと血を巡らせる心臓に、ベッドの上に転がってシーツに顔を埋める。

「意識させている筈なのに……僕に跳ね返って来ている気分ですね」


"私は真剣に将来を踏まえてお付き合いしてくださる方としかお付き合いするつもりはありませんので。"
その言葉が、反響するのだ。


――人に恋をされた経験のなかった少女は戸惑っていた。
人と適度な距離を保ち、プライベートな距離に踏み込ませなかったからこそ、人との恋に向き合う機会が無かったのだ。

損得勘定ではなく、ジェイド・リーチという青年は自分という人間に確かに好意を抱いてくれているのは事実なのだろう。
左手を取られて、プロポーズ紛いな告白を受けた瞬間にエミルの思考は完全にショートし、その言葉に応える訳でもなく脱兎のごとくミステリー・ショップから逃げてしまったのだが。


「誰かと一緒になっても、相手を凍えさせてしまうと思ってたけど……、ジェイド君は……」

彼の性格と性質を把握していてもなお好きだと言える自分も相当変わっているのだろうと認めなければいけないとエミルは溜息を吐く。
幸いにしても、北の深海育ちのジェイドはエミルに触れても凍傷はしないし、その体温が心地いいと言ってくれている。
永久の冬を与えかねないものとして故郷で囁かれていたこともあり、春や夏の間は街を離れて雪山に建造した氷の城で時間を過ごすことも多かったエミルの"氷のような体温を無くす"という悲願。
それがもし叶わないとしても、ジェイドが居る限りは深く気にし過ぎることはないのかもしれないが。

堂々巡りする思考のままサムの店の陳列を整えているエミルの背に、扉が開く音とサムの「いらっしゃい、小鬼ちゃん!」という声が届く。
振り返ることもなく、エミルはぼうっとしたまま気の抜けた挨拶を反射的にした。


「いらっしゃいませー……」
「えっ、なになにエミルちゃんが暗いんだけど!?」
「珍しいな、どうしたんだエミル。そんな調子、この二年で初めて見たぞ」
「あぁ、こんにちはトレイさん、ケイトさん」


声をかけられて漸くミステリーショップに訪れた客が、エミルの店の常連でもあるケイト・ダイヤモンドとトレイ・クローバーであることに気付いて頭を下げる。
しかし、何時もの隙のない程の朗らかな振舞は何処へやら。明らかに調子がおかしいらしいエミルに二人は顔を見合わせて首を捻る。

何か商売において致命的な失敗だとか、プライベートが一切見えないような彼女もプライベートで何かあったのだろうか。
下手に詮索すると嫌がられそうだと思いながらもケイトはトレイに「ねートレイ君ちょっと何があったのかって聞いてみてよ」と耳打ちをする。
当たり障りの無さそうな情報収集には積極的に首を突っ込むが、人のプライベートに関わりそうな内容だと感じ取った瞬間に、人に託そうとするケイトに慣れているトレイは「お前なぁ」と苦笑いをする。


「その、エミル。新しい一年生に客は増えたか?」
「一年生ですか?今年の一年生、根が真面目な子かアズール君のカモにされそうな子が多いんですよね……でも、おかげさまで順調な方ですよ」
「そうか……」
「あっ、そういえば三日前だったっけ。大丈夫だった?」
「何のことでしょう?」
「エミルちゃんが尖塔にリリアちゃんと居るのを知ったジェイド君がそっちに行ったでしょ?」


トレイの問いには何時もの調子で笑みを浮かべて答えたのだが、何気ない興味本位から問いかけられたケイトの質問にエミルの表情は一瞬凍り付く。
しかし、それもたった一瞬で、何事もなかったかのように「ちょっとしたお話でしたので。リリアさんは飛んで来てくださいましたが、ジェイド君は歩いてあそこまで登ったみたいですね」と悪戯に笑う。


「エミルちゃんよくオクタヴィネルと商売出来るよね〜けーくん絶対無理」
「正直アズール君との商談は一番気を揉みますけどね。心配してくださってありがとうございます」
「今度タルトでも差し入れに来るよ」
「いいんですか?うう、ありがとうございます、トレイさん。……そうだ、お二人は今度のマジフト大会のレギュラーメンバーですよね?」
「あぁ、そうだが……」


毎年マジフト大会では商売を行わずに観客として楽しむことに集中しているエミルにとって、二人は大会の主役であるハーツラビュルのレギュラーメンバーだ。
楽しみであると同時に、少し気が借りな情報を得ていることにエミルは口元に手を当てて思案する。
自分の協力者の一人でもあるマレウス・ドラコニアが圧倒的な力を見せ、プロのスカウトが毎年かかるような優勝常連寮だったサバナクローが一回戦で惨敗したという記憶は新しい。
そんなマレウスを今年はあまりにも差があり過ぎる為に出場しないでもらうように頼むことも、学園長が考えていることをエミルは知っていた。
それで何か、ひと悶着が起きなければいいけれど。そう思いながらも口にはせず「今月のマジフト楽しみにしていますので!」と朗らかに笑うのだ。


――営業時間を終えて二階の自室へと戻っていたエミルは、先日受けたフロイドの依頼をこなしていた。
ジェイドがキノコ料理を連日作るから、普通の夜食が取りたいという依頼だ。勿論、対価であるフロイドが授業で作成した代物を受け取り済みである。
アズールにも許可を貰っているそうで、普段寮内に自由に立ち入りできないエミルも寮長の許可を貰えているということで寮内にまで商売しに行けるということだった。

「……いい機会、だよね」

たまたま巡って来た、オクタヴィネル寮へ足を踏み入れる機会。
散々彼の性格を深読みして疑って、散々真っ直ぐな目から逃げた訳だけれど。
何時までも伝えてくれた好意に答えないわけにはいかないだろう。

揺さぶりをかける為とはいえ「遊びで付き合うのではなく将来を見据えて下さる方とお付き合いしたいです」なんて、かなり余計なことは言ってしまったが。
流石に成人を迎えていない自分が、そんな覚悟と責任を相手に本気で要求している訳ではない。

「……ジェイド君も流石に、あればかりは嘘ですよね」

番になって下さる気があるなんて、と呟いていたけれど。
流石に、自分の発言を本気で捉えていないだろう。聡いジェイドならば自分の言葉の裏に隠れた疑いを感じ取っているのではないかと思いたいのだが。

手早く料理を作ったエミルは捨てられるタイプの容器に料理を詰めていき、依頼の品を作り上げていく。
しかし、夜ご飯も食べている筈なのに夜食もこれだけ食べる辺りは育ち盛りの男子高校生といった所だろう。
ジェイドが時々ウツボだから燃費が悪いと零していたが、双子であるらしいフロイドも同じ体質だろう。実に羨ましい体質だ。

エミルは仕事着から休日にしか着る機会があまりない私服に着替えて、ミステリーショップの二階を後にする。
営業時間終了間際のモストロ・ラウンジには行ったことがあるが、その営業時間が終わった夜に何処かの寮に行くこと自体が、ナイトレイブンカレッジで営業をし始めて二年目だが初めてのことだった。
生徒達も流石にこの時間となると回廊の方を歩いている生徒も居なく、談話室か自室で休んでいるのだろう。
オクタヴィネル寮へと足を踏み入れると、出迎えるように待っていたのは、依頼主であるフロイドが談話室で待っていた。


「あっ、ハマシギちゃん〜待ってたよぉ」
「こんばんは、フロイド君。談話室で待っていただいてありがとうございます」
「めちゃくちゃお腹減ってたから待ちくたびれちゃったーあれ、仕事着じゃないの珍しくね?」
「一応営業時間外なので普通の格好してもいいかなぁと」


オクタヴィネル寮の談話室は白を基調とした壁にソファ。そして観賞用の水槽が幻想的で、モストロ・ラウンジとはまた少し雰囲気の異なるホテルのフロントのようだ。
寮が海の中にあって、こうして普通に息が出来るような環境だというのも魔法の力の賜物というものだろう。しかし、理論的に不可能ではないのだろう。
自分が作り上げた氷の城をホテルに改築し、あの環境の中で料理をしたり寒すぎない空調にしても解けないように出来たように。流石に環境の維持ともなると、魔法石の調達などは必須だったが。

手をぶんぶんと振って大股で近づいて来るフロイドに、エミルは手に持っていた夜食を渡す。
良い匂いに舌をぺろりと伸ばしたフロイドは「これでやっとキノコじゃない夜食が食べれる〜」と呟いた。
女子でも気後れする位にジェイドの料理が美味しいのはモストロ・ラウンジの料理を食べても分かる。だが、毎日同じ食材を食べるのは流石に特別な好物でもない限りは飽きるだろう。


「お口に合わなかったら言ってください。女子的にはショックですが、精進しますので……」
「えっ、マジ?これハマシギちゃんの手作りなの?」
「?えぇ。だってそういうお取引でしたし」
「ハマシギちゃん絶対外から仕入れて調達してくると思ってたぁ。へ〜そんなことしてくれるんだったら、また頼んじゃおっかなぁ」
「あまり話が広まると私のお店がお客様ではない生徒の方にもバレそうなので、あまり言いふらさないでいただけると……適当に『学食と比べて結構高いんだよね〜』とか言って下さるとありがたいです」
「オレら以外が頼むなんていい度胸じゃんって脅すのが一番手っ取り早くね?」


こうして寮に出入りしてフロイドに料理を届けている姿を見られてしまうと、「ミステリーショップのエミルがどうやら夜食を手作りして届けてくれるサービスがあるらしい」と、エミルがミスター・リズベットとして店を構えていることを知らない生徒が囁いて噂してしまう可能性がある。
それはエミルにとってはあまり良くない客が店を開ける為のルールも知らずに「エミルちゃん、俺にも夜食作ってよ〜」と言ってくることになるのは少々困る。勿論適当にあしらって断るが。
別に学食と比べて高い値段を設定している訳でもないし、フロイドに貰ったのは彼が錬金術で作った素材だ。彼にとっては授業でもらう素材で作っただけの物だから、タダで夜食を食べられている気分なのだろう。


「……そうだ、フロイド君。ジェイド君を呼んでもらえますか?」
「ジェイド?あはっ。いいよぉ、ついでにハマシギちゃんのキノコ入ってない飯自慢してこよーっと」


談話室のソファで待たせてもらっている間にフロイドは大股でジェイドの部屋へと向かう。
ジェイドが何となくエミルを気に入っているというのはフロイドも分かっていたから、こうして対価を払った上で頼めば手作りの夜食を持ってきてくれるという情報を兄弟に伝えておくのは大事だろう。
上機嫌な様子でフロイドは自室で休んでいるジェイドの部屋を訪ねて、ノックをすると返事が返ってくる前に慣れた様子でフロイドはジェイドの部屋に入った。
ジェイドもまた、ここ一週間ほどやけに機嫌が良いのだ。キノコ料理をもうやめろと言っても一切やめず、契約違反しそうな生徒への脅しや揺さぶりも何時にも増して調子が良さそうだ。


「ジェイド〜」
「フロイド、どうしました?……もしかして、夜食が食べたくなったんですか?」
「キノコはもういいって。今日はハマシギちゃんの夜食があるからそれはいーんだけどさ」
「……エミルさん?」


突然出てきた名前に、ジェイドは目を開いて驚く。
エミルが作った夜食を何故フロイドが持っているのだろうかという純粋な疑問に、フロイドは「依頼したら作ってくれたんだよねぇ〜」と答えた。
我が兄弟ながら誰もまだ頼んだことが無いような依頼をエミルと結べるフロイドの素直な欲求故の勢いに思わず感心してしまう。
それと同時に、自分のキノコ料理を嫌がったうえで、恐らくこの学園生に振舞ったことが無いだろう彼女の料理を入手した上で食べようとしているのは羨ましいという本音があるのだが。


「ハマシギちゃん、なんかジェイド呼んでたよ」
「僕をですか……?」
「談話室で待ってるらしいよ〜」


「俺は飯食べる〜」と上機嫌な様子で自分の部屋へと戻って行ったフロイドの姿を見送ったジェイドは、一人になった部屋で無言になり、ベッドに仰向けになった。
フロイドとの用事があったからではあるが、オクタヴィネル寮に来たエミルが自分に声をかけず逃げることもなく、わざわざ自分を呼び出したというのは期待してもいいのだろうか。

断られようと、いい返事が貰えようとも、彼女が自分の好意に対して向き合おうとしていることを感じ取り、ジェイドはごくりと生唾を飲んでベッド際にあるテラリウムに視線を移す。
もう冷気は放っていない、枯れてしまった氷の花。しかし、枯れたとは言っても透明な輝きを保ち続けている、エミルの手によって作られた氷の花だ。
彼女の身体はこの花のように、冷気が途切れることは無い。それでも嘘でも慰めでもなく、彼女の体温が心地いいのだ。

息を大きく吐いたジェイドはベッドから起き上がり、既に外していたネクタイを締め直し、壁に掛けたブレザーに袖を通す。
机の中に仕舞っていた物を取り出し、身だしなみを整えたジェイドは待たせる訳にはいかないと平静を装い、部屋を出る。
早足になる足音がカツカツと廊下に響き、彼女が待つ談話室に向かう自分に、ジェイドは改めて自覚するのだ。

興味関心を感じられるような相手にしかそもそもプライベートな付き合いはしないし深海の底のような感情も曝け出すこともないけれど。
ジェイド・リーチという人魚なり、恋心を抱いたのだろうと。
朗らかに笑いながらも、隙のない程の話術と時に聡く手を回す狡猾さがある少女。それでもどこか臆病で寂しさを抱えつつ、親しくなればなるほど解けた表情を見せて実に色んな表情を見せてくれる。

――貴方が、番になる前提の付き合いを提案してくださったのですから。逃がす訳が無いでしょう。


「エミルさん」


夜で暗い照明を落とされている談話室のライトで照らされた水槽を眺めるその姿があった。仕事着ではなく、私服を着て。
呼び止める声に、振り返った彼女が暗がりの中、告白をした直後のような解けた表情をしたような気がしたのは、きっと。
気のせいではないだろう。