氷菓童話
- ナノ -

損得と愛の天秤

「……眠れなかった」

欠伸を噛み殺しながら、エミルはミステリーショップの開店準備を手伝っていた。
逃げ帰った後、混乱する思考をシャットダウンしようと目を閉じて眠ろうとしたのに、思考は途切れなかった。
フラッシュバックするかのように脳に焼き付いて再生され、浅い眠りだったせいか起きた時に寝た気がしなかったのだ。

どうしてジェイドが自分に対して告白をしてきたのかーーそれを考えれば考えるほど思考は断線したかのように答えを弾き出せない。

……そもそも、ジェイドが。あのジェイドが特別な好意を持つことなんてあるんだろうか。エミルは冷静に彼の性格を分析する。
兄弟であるフロイドの気紛れ故に予想の付かない行動に対しては高い関心を抱いているみたいだが。
基本的に、人への特別な関心を持たずに、あの物腰の柔らかい口調と態度で内側にある好奇心を覆って一定の距離を保つ。

冷静に分析すればするほど、彼が特に恋愛感情というもので人に執着するタイプでは無いのではないか、と。
何故自分の元に彼が来ていたかと言えば、そもそも自分が商売人だからだ。時に狡猾に駆け引きを行う商売人ではない自分は恐らくジェイドにとっては有象無象の人間の一人として意識の外に出されるのだ。
人を見る目が確かなルーク・ハントからも『ムシュー・計画犯』なんて呼ばれているというのに。
そして、そんな彼に対して好意を持っている自分もまた自分なのだが。


一体何時ミステリーショップにジェイドが再び訪れるか分からず、カランと扉が音を立てて開く度に一瞬肩が跳ねるのだが、昼食の時間まで彼の姿は無かった。
新しい客人に「いらっしゃいませー」と声をかけて顔をあげると、ポムフィオーレ寮の寮長であるヴィル・シェーンハイトがミステリーショップに来たのだ。


「ミスター・リズベット、居るかしら?」
「こんにちは、ヴィルさん」
「おやすみなさい、エミル」


店を叩くための合言葉も答えたヴィルにエミルはにこやかに挨拶を交わす。
ヴィル・シェーンハイトという青年は、この学園において最も完璧主義と言える自分にも他人にも厳しい人だろう。芸能界において学生でありながらトップモデルでもあり、マジカメのフォロワー数も多いインフルエンサーだ。
彼は何時も頼んでいる化粧品をエミルに注文する。特殊な細氷を混ぜ込んであるナイトケア用のパウダーを愛用してくれているのだ。


「……ちょっとエミル、貴方ケアを怠っているでしょう。目に隈も作って酷い顔よ。店の主として客人を迎え入れるという立場を忘れるなんて惰性も良い所よ?」
「言い返す言葉もありません……少し、考え事をし過ぎて昨日あまり眠れなくてですね」
「……顔に出す位悩むのなんて珍しいじゃない。何時も上手く擦り抜けて笑顔振りまくエミルが」
「うっ……言ってくれますねヴィルさん」


ヴィルの評価は的確で、確信を常につくものだ。エミルの営業的な距離感を彼は理解している。
だが、それを否定する訳ではない。ヴィルにとって、ミステリーショップとは別のルートから欲しいものを仕入れてくれるエミルは"使える人間"だからだ。


「でも、アンタの方がまだ人間味はあるかしら」
「え?」
「この間、オクタヴィネル寮のジェイドがポムフィオーレに来たのよ。底の知れなさは断トツね、彼」


突然寝不足となった原因の人物の名前を出されて表情が固まりかけたが、エミルはヴィルの評価通りの笑顔を浮かべて誤魔化す。
そういえば、ハーツラビュルでの騒動前後でジェイドがオクタヴィネル寮から一時的に家出をしたジェイドの話があっただろうかと思い返す。その間にも自分の店を利用してくれていたからあまりそのこと自体には気を留めなかったが。


「アズールに愛想をつかしたから、オクタヴィネルの副寮長を辞めたいなんて言ってポムフィオーレに来たのよ?いつも楽しそうにしてるくせに。直ぐに仲直りして帰ったけどね」
「……そうですね、非道な仕事にノリノリですね。率先してる位と言いますか」
「寮長たちの間でも噂されていたスーパー秘書と名高いジェイドの優秀さは分かったけどね。サポートも完璧、業界人とも直ぐに馴染む。アタシの要求にも先回りしている位で有能も有能」
「完璧主義のヴィルさんがそう仰るのは……珍しいですね」


フェリシテ・コスメティックというブランドの新作リップの手配をそういえばジェイドに頼まれていたことを思い出して、エミルは苦笑いをする。
ヴィルからしても有能な人物であるジェイド・リーチという男。有能という言い方を変えれば底が見えない男。

その話が出た時は『モストロ・ラウンジに行く予定は今後もない』と思っていたせいで深く考えなかったが、彼がポムフィオーレに行った同時期。フロイドがサムにドリンクの販売権を得る為にミステリーショップに来ていたことを、ミステリーショップで手伝いをしていたエミルは知っていた。
エミルの商売に関係することではなかった為に、サムとフロイドの話している様子を何となく眺めていただけなのだが、点と点が繋がった。

(アズール君の案かジェイド君の案かは知りませんが……流石ですね)

結局フロイドは一度乗り込んで来た時はすぐに諦めて帰ったが、もう一度来た時にはサムに手土産を持ってきてドリンクの販売権を譲り受けていた。
ヴィルのその時期のマジカメの投稿内容を思い出し、ジェイドが言葉巧みにヴィルのマジカメの投稿内容を誘導し、売り上げを伸ばす為の広告塔として使ったのだと悟って溜息を吐く。
買い物を終えたヴィルを見送ったエミルは手をひらひらと振り、客人が居なくなったと同時にテーブルに頭を附けて、もう一度大きな溜息を吐いた。

「ほ、ほらやっぱり。人の懐に入り込む技術に長けているんですよ、ジェイド君は」

何らかの目的の為なら息を吸うように嘘を吐いて、人の懐に入り込むジェイドの在り方を思い出し、エミルは自分の頬を叩く。
昨日の告白は、そういうことなのだろう。
何らかの目的を持って彼は自分の懐に入り込み、目的を達成しようとしている可能性もある。

エミルはサムに「放課後、少しの間席を外します!」と声をかけ、ミステリーショップを出て行く。
モストロ・ラウンジやアズールとの契約には細心の注意を払っていたし、特に自分を相手に持ちかけられる話にはエミルは特に警戒して予防していた筈だった。

「……私のこの特異体質の改善への協力は……嘘ではないと、思いたいですが」

友人だと認識してくれていること自体への嘘は流石に無いと思っているし、そこに対しては疑いたくない気持ちがある。フロイドにもアズールにも伝えていないかったその気遣いは、流石に策ではないだろう、と。

滅多に用件が無ければ入ることもない校舎内の中庭へと入ると、エミルはフロイドの姿を発見した。
他の生徒達はエミルの姿に気付いて声をかけようとしたが、中庭でぼうっと寝転んでいたフロイド・リーチの無気力な表情が一瞬で変わり、上機嫌な様子で「ハマシギちゃんじゃん〜」と声を上げたためか、エミルに声をかけることもなく一定の距離を置いた。


「ハマシギちゃんが校舎の敷地に居るなんてめっちゃ珍しいんじゃね?」
「フロイド君に少し聞きたいことがありまして」
「オレにー?」
「フロイド君、単刀直入にお聞きします。……今、アズール君、私と何か契約を結ぼうと企んでいます?」


アズールに問いかけても、煙に撒かれるだろう。
機嫌の波の激しさはフロイドが随一だが、こういう話をした時に一番普通に答えてくれるのがフロイドという認識をエミルは持っていた。駆け引きだとか計算だとか、まどろっこしいことはしないのがフロイドだ。
さぁなんと答えるか。答えずに誤魔化されたとしても表情や声音に出ればそれが決定打となる、とエミルは身構えていたのだが。


「えー?別に今ハマシギちゃんとこに交渉しに行けなんて、アズールに言われてねーけど」
「……え?」
「なーんか期末試験の商売とマジフト大会の商売が最優先ってアズール言ってた気がする。そんな暇ないっつーか、ハマシギちゃんと商談を有利に結ぶのってむずくね?」


予想していた回答と大きく異なった。
フロイドが嘘をついている様子もなく、実際アズールにとって外部から来る一般客が多いマジフト大会と、期末試験という最大の契約締結の機会に注力しているのは本当だろう。
そして、ジェイド自身は自ら積極的に商売における取引をするのではなく、あくまでもアズールのオーダーに応えているだけになる。


「そんな話はいいんだけど、ハマシギちゃんさー夜食作れない?」
「夜食ですか?」
「そーそー、ジェイドがまたきのこ昨日取ってきたからイヤだって言ってんのに食べさせられそうだし、しいたけ嫌いなんだよね」
「は、はぁ……、……ジェイド君ってそういう所ありますよね」
「ほんといい迷惑。オレが飽きたって言ってもやめてくんねーし。なんかやたらと機嫌良かったから暫くやめてくれなさそーだし」
「機嫌が良かった?」


『昨日山登りから帰って来てなんかやたらと機嫌がよかった』というフロイドの言葉に、エミルは顔を引きつらせて「へぇー……」と呟く。
キノコを採取したから特別機嫌がよかったというよりも、昨日という日にちを考えるのなら、確実に自分とのやり取りが関係していると確信してしまったからだ。


「寮長であるアズール君に話して許可を出して頂ければ、私もオクタヴィネル寮にまで行って届けられますが」
「校舎だけは自由で寮とか植物園は許可必要なんだっけ?オッケ〜、アズールに言っとくー」


やはり一番素直に情報を教えてくれるのはオクタヴィネルにおいてはフロイドだと実感しながら挨拶を交わしてエミルはミステリーショップへと引き返す。
ヴィルの話とフロイドの話を合わせて聞いた結果、ジェイドの考えが明確になるどころか寧ろエミルの中で余計に整理が付かなくなる。

「わ、分かりません……」

目的の為なら手段を択ばず、しかし相手に悟られない形で相手の懐に潜り込んで取り入る行為が得意なジェイドと、素直に上機嫌だったらしい感情を露にするジェイドと。
どっちも本当の姿なのかもしれないが、エミルという人間との接し方が商売上の取引相手ということもあり、一体どちらなのかと頭を悩まさずには居られなかった。

ミステリーショップを出てまで情報収集してみたというのに、結局更に訳が分からなくなるなんて本末転倒も良い所だ。肩を落として店の扉を開くと、予期していなかった人物が店内に居たことでエミルは反射的に後ろに飛び退きそうになる。


「……い、いらっしゃいませ、ジェイド君」
「ふふ、こんにちはエミルさん。少しの間外に居ると聞いていたのでそろそろ戻る頃かと思いました」


動揺しないようにしても、つい肩を揺らして表情に出しかけてしまう。
エミルの反応を楽しんでわざとミステリーショップへと足を運んでいるというのは分かっていた。

「昨夜ぶりですね?」

まさにこの通りに。

返事を待っている間は極力接触しないようにするどころか、意識をして頭を悩ませている過程も楽しんでいるのだ。
告白の返事は何時でもいいと言っておきながら、逃げ道を無くされている気分だ。
確信犯もいい所だが、エミルは咳払いをしてジェイドに声をかける。


「ジェイド君」


弄ばれる前に、自分から罠を仕掛ける。
ジェイドという青年に振り回されてペースを乱されるのは色々な意味で危険な上に、このミステリーショップに居る以上、商人としての顔を見せているのだ。
このまましてやられるのはミスター・リズベットの名が廃る。周囲からの情報収集による判断が困難ならば、直接本人と会話をして本音を引き出させるに尽きる。

それだけの交渉術と、駆け引きの仕方を私は知っている筈なのだから。


「因みにですが……私は真剣に将来を踏まえてお付き合いしてくださる方としかお付き合いするつもりはありませんので。私は氷の商人ですよ?遊ばれる気は毛頭ありませんよ」


――ハードルをわざと上げて『学生の遊びの恋なのだから、そんなつもりは流石に無い』と引かれてもらえば彼の嘘は剥がれる。
仮にも好きな相手に対して嫌われるようなことを言っている自覚はあるが、普通の少女としての幸福は諦めている身としては報われなくともいいのだ。

何て天邪鬼。何て可愛くない自分。
少しの期待もしていないなんて、試している時点で嘘かもしれないが。
それでも初めて出来た理解者に心を許して、居なくなってしまった時の痛みを考えると恐れてしまうのだ。
それなら、最初から淡い片想いという感情を胸に抱いたまま何事もなく過ごしてナイトレイブンカレッジを出て行く方が何倍もマシだと。


「……えっ」
「え?」


素で驚いた顔をするジェイドに、エミルもまた目を開く。

それはエミルにとって予想外の反応だったのだ。魂胆が見透かされたことに微笑みながら感心するのでもなく、エミルの言葉自体に純粋に驚いている様子だった。
どうして?
困惑するエミルの誤算といえばーー恋愛というものに初心だったことだろう。


「……まさかエミルさんが番になって下さる気があるなんて、大胆といいますか嬉しい誤算と言いますか」
「えっと、ジェイド君……?」


ーー本当に貴方は予想外のことをして下さります。

くすくすと笑ったジェイドはエミルに歩み寄り、彼女の左手を取る。
故意的に左手の薬指の付け根辺りに口付けを落としたジェイドの行動に、氷のように固まった。
瞳に滲むのは悪意の籠った悪戯心ではなく、もっと本能的な欲望の光。手放すまいと獲物を確実に捕える意志を強固にする最後のひと押しを、彼女は自らの手で偶発的にしてしまったのだ。


「エミルさんの生涯を僕に委ねてくださるのなら、この上なく嬉しいことですね」


ーーこの時、漸く気付いたのだ。
ジェイドの告白は何かの策で吐かれた嘘ではなく、彼の本心であり。

そして、自分の試すような言葉によって完全に逃げ道を断ってしまったことに。