氷菓童話
- ナノ -

呼吸を止める僕たち

ジェイドに案内された山は、野山ではなくハイキング用に舗装がされている山だった。
しかし、海の深海暮らしていた人魚の彼が足を得て、山登りを楽しむことが出来ているのは種族の垣根を越えて学園に入学したからこそだろう。
自分が居た世界には無かった物に触れられる好奇心なのだろう。
一見フロイドの方が本能と好奇心に忠実に生きているように見えて、ジェイドの方が好奇心に素直に生きているのがリーチ兄弟の特徴だった。


「この山、様々なキノコが取れるんですよ。フロイドには持って帰りすぎると嫌がられますが」
「ジェイド君が意外ですね。こんなにも純粋に興味を示すなんて」
「意外だなんて。僕は興味を持った事柄にはどんな努力も惜しみませんよ」


ーー山登り、キノコの採取に留まらず、アズールの補佐として愉しいことを経験するためへの労力も。
そして、恋をした彼女を逃げられないように囲いこんで、落とす為の努力も。


「えっ……その色食べられるんですか」
「えぇ、食べられますよ。これも持って帰りましょうか。新メニューやフロイドの夜食に使えます」
「量は程々にして下さいね……そのペースで拾い続けるとフロイド君の夜食、一週間はきのこになりそうですから」
「僕はそれでもいいと思うんですけど、フロイドはしいたけが嫌だーとか言ってくるんですよね」
「本当にジェイド君は偏ると言いますか……」


植物を育てるために氷結の花を買っていくが、それも恐らくはキノコ栽培のためなのだろう。嫌いでなくても特別好きでもない限り、毎日出されるのは確かに飽きそうだとフロイドを憐れむ。
ただ、夜食を誰かに用意してもらえる状況はかなり羨ましくもあるが。


ーー夕暮れ時の時間帯から登ると、小高い丘とはいえ、頂上に登った頃にはもう夕暮れ時も過ぎて、空には星が瞬き始めている。
春から夏にかけては日が長かったが、冬ももう間近になってきた秋は日が落ちるのは早かった。
舗装されていない山道だとこの時間帯に山にいるのは危険だが、帰れるようにこの山を選んだのだ。

ずっとなだらかに上へ上へと繋がっていた道が見えなくなったところでこの山の頂上だと分かり、エミルは駆け出した。
正直、険しくもないハイキングコースのような道のりだったこともあって、あまり山登りをした感覚は無いのだが、それでも頂上に到達したというのは達成感が強い。
視界を遮るものは何も無い開けた空。星の光を邪魔する現代の街の明かりも近くには無く、よく夜空が見渡せる。


「満天の星空ですね……!」
「実に綺麗ですね。海には無い自然の神秘と景色です」


ジェイドは満足気に空を見上げて、夜にしか味わえない景色を堪能する。
海から顔を出して夜空を見上げることは出来るけれど、それは海中にはない景色だ。陸の景色に思わず目を奪われてしまう。
足を得て、海の世界だけに留まらずに色んな世界を見られていることは、ジェイド・リーチの欲深くもある好奇心を擽り続けるのだ。

街灯が多いナイトレイブンカレッジから見る景色とは全く異なるーー故郷の雪山から見るような夜空。
ここまで案内してくれたことにエミルは感謝の意を述べて、丁寧に頭を下げた。ここでなら、他の人に迷惑をかけることも無く、冷気をどうにか出来そうだ。


「自然の景色を見たいというジェイド君には……人工的に生み出される景色はつまらないかもしれませんが、それでも少しのお礼です」


エミルは制御用の手袋を外すと、指を滑らせて冷気を放つ。
すると、空の空気は冷たく凍てつき、真冬の寒い地域でしか見られないダイヤモンドダストが輝いた。
北の深海でも見られなかった光が反射する細氷。神秘的な光景は視線を釘付けにさせる。

「冬よ凍てつけ。氷の心臓を溶かすのは少女の泪のみ」

エミルが呪文を唱えた刹那。
細氷の景色が一変し、一瞬弾けた音が空に響き渡る。

すると、ダイヤモンドダストが晴れた夜空にゆっくりと光のカーテンがかかる。
空に波のように揺らめく光は、赤や緑、ピンクや紫などの色が発光して、紺碧をネオンの光よりも明るく彩る。
ごく一部の地域でしか見られないはずの極光は、この地域では有り得ないはずの景色だった。


「オーロラですか……!」
「えぇ、私のユニーク魔法の応用です。これを思い切り出せば、私も安定するんですよ」


周辺の空気は細氷と極光の影響によって、気温自体は下がっているが、エミルの身体を纏うように漂っていた冷気が静かに収まっていく。
「自然のオーロラではなく、作り物のオーロラということになりますが」と苦笑いをするエミルに、ジェイドは目を輝かせて空を見上げ、その景色に釘付けになる。


「あぁ、本当に。綺麗ですね」
「ーー」


驚いた。
本当に、驚いたのだ。

ジェイドが反射的に口にした感想は、あまりにも純粋な感情だった。
誰よりも言葉に裏表がありそうな人なのに、今までの誰よりも素直に、お世辞抜きで感想を伝えてくれたのだ。

(あの時と……同じですね。氷結の花を綺麗で勿体ないと言った時と)

落ち着いているように見えて、好奇心と興味に素直に生きている人。
人への接し方は本音と建前を使い分けているけれど、自分への感情に対しては嘘はない人。自分の生き方の軸がぶれないのは、ミスター・リズベットという男性名を商売上名乗ると共に目標にしたかった生き方なのだ。


「エミルさんのユニーク魔法は"水分を凝結させて凍らせる"ものだと思っていました」
「あれだけ氷の商品を揃えていたらそう思われますよね。ユニーク魔法ではなく、氷の女王の末裔としての得意魔法みたいなものなんですよ」


ナイトレイブンカレッジに通う生徒達がそれぞれユニーク魔法とは別に火の魔法や水の魔法などを得意とするように、エミルにとってはそれが氷の魔法なのだ。
だからこそ、これはエミルのユニーク魔法ではなく、彼女の一族は力の強さに違いはあれど、皆凍らせる魔法は得意だった。
エミルの存在によって、力の強さの違いが歴然となってしまった所はあるのだが。

「私は……個体以外にも圧力を加えられるユニーク魔法です。氷って圧力を加えたりすることで多種多様に形を変えるんですよ」

個体という物質に圧力を変えて圧縮するだけではなく、気体や液体にまで範囲はあるが、自在に加えられるのが最大の特徴だった。
例えば、圧力を加えて一気に氷を溶かして融熱を発生させ、瞬間的に発火させることで酸素がイオン化してプラズマを発生させると、このようにオーロラを生み出せる。
圧力によって氷の分子構造を変化させることで、電気を溜め込む氷を生み出せたり、冷気を封じ込める特殊な氷を作ることも可能となる。


「多分使う人によってはもっと有意義に使えるとは思いますけどね」
「教えて下さりありがとうございます。しかし……それを僕に言ってしまって良かったのですか?オクタヴィネル寮の、副寮長である僕に」
「……」


オクタヴィネル寮の三人に情報を下手に売ることは命取り。
そんなことはこの学園に居たら誰もが知ることになる事実であり、アズールと取引をしているエミルは特にそれを心得ていた筈なのだ。
それなのに、一年もの間、個人情報を晒そうとしなかったエミルがこんなにも情報を流してもいいのかと試すようにジェイドは問いかけてみる。
貴方はどういう意図で、ジェイド・リーチという男に秘密を教えたのかと。


「十分過ぎる物をもらいましたから。……本当に、十分」


細氷も、極光も。
綺麗だと言ってくれただけで十分だったのだ。
自分の中で、ジェイド・リーチという青年が特別な位置付けにあると気付いてしまったけれどーーもう十分な物を貰った。

何時ナイトレイブンカレッジを出ることになっても、この想いを経験出来たと言うだけで貴重な財産だ。
消えていく極光を眺めながら、エミルは綺麗に笑ったのだ。


ーーナイトレイブンカレッジに戻ってきたエミルとジェイドは鏡舎で別れ間際の挨拶を交わしていた。
今日は誘ってくれてありがとうと頭を下げて"何事もなかったかのように"エミルという少女からナイトレイブンカレッジを生業とする氷の商人に戻ろうとする。
その距離感を何となく、ジェイドは感じ取った。
彼女が恐らく誰にも見せたことが無いだろう表情で微笑んで夜空を見上げていたのに。

(目的達成後は、後腐れなく居なくなるつもりなんでしょうね)

歩き出そうとした彼女に、ジェイドは「エミルさん」と呼び止める。
これは賭けだ。完全に落としきっていないけれど、それでも少しでも心を溶かしているのなら――意識をさせて、出て行きたくなるように。
彼女の反応は、正直に言ってジェイドをもってしても予期できなかった。


「……秘密を教えてくださった代わりに、僕の隠し事も一つ教えましょうか」
「ジェイド君が秘密を教えるなんてこともあるんですね?」
「えぇ、伝えなければ意味が無いものですから」


珍しいとくすくす笑っていたエミルだったが、『伝わらなければ意味がない』というニュアンスに疑問符を浮かべる。
伝わらなければ意味が無い秘密という言葉の矛盾。
言葉遊びだろうかと思案しているエミルに、ジェイドは彼女の身長に合わせて目線を合わせる。

――本音を言わせるのが得意な僕が、本音を伝えましょう。


「好きですよ、エミルさん。女性として」


全くもって予期していなかった言葉だ。

ホワイトアウトしたかのように頭が真っ白になる感覚。
耳を疑う言葉が耳に届いたのは、幻聴ではなくて?

手がつうっと頬を撫でて、髪を掬う感覚に、熱が膨大に膨らんで顔に集中する。身体は固まる。それでも、エミルの頬は触れると冷たかった。


「……っ、じ、冗談で弄ぶのは良くないですよジェイド君。そういうフリで商品を安く仕入れようとしても駄目ですからね」
「僕が足繁く通って、エミルさんの手伝いをしている時点で気付いてもらえているかと思いましたが」


目線を決してずらさないジェイドのじわじわと逃げ道を無くすような言葉に、何時もはどの状況でどのワードを並べれば程々に受け流す会話が出来るか自在に引き出しを開けて言葉を選び取れるエミルの思考回路はショートしていた。
引き出しが錆び付いたかのように、饒舌に喋れない。


「ふふ、お返事は急いでおりませんので。ゆっくり考えて下さると嬉しいですね」
「〜っ、今日は誘って頂きありがとうございました!」


エミルは逃げ帰るようにミステリーショップに向かって暗い夜の道を駆け出す。
追い掛けられたらすぐに捕まるだろうとは思ったけれど、振り返らず、足を止めずに走る。
身体は冷たいのに、熱を持って沸騰しそうなこの感覚に、身体が溶けるのではないかと錯覚する。

ーーだって、別にこの想いを自覚した時点で満足して、ナイトレイブンカレッジを何時出ても『あそこでの思い出は楽しいものだった』って言えると思って完結させようとした矢先に。


「逃げている時点で……普段のエミルさんらしくないと本人は気付いているんでしょうかね?」

逃げるように立ち去ったエミルの後ろ姿を見送りながら、ジェイドは口元に手を当ててくすくすと笑った。
噛み跡を付けたのなら、頑として話さないのがウツボというものだ。

普段の彼女ならば、口説かれても何人かに囲まれそうになっても口上手く躱して、照れることも無く「そう言って頂けるのは嬉しいですが、街に行けば魅力的な女性が沢山居ますので卒業後が楽しみですね」等、笑顔で友好的に接しているように見えて寄せ付けないというのに。
彼女がそれも出来ずに逃げ去ったという時点で、意識している証拠だった。

明日からまた通うのが違った意味で楽しみだと尖った歯を見せて笑ったジェイドは、オクタヴィネル寮に繋がる鏡に触れる。
彼女の横顔が赤く染まっていたのを思い出して――どくどくと、心臓は血を捲らせるのだ。