水月泡沫
- ナノ -

04

――拝啓、バレンタインの皆様へ。

お久し振りです。
ご迷惑をお掛けしたことを、書面にて謝罪させていただきます。ごめんなさい。
私の我儘で、勝手に家を出て、勝手に支社を辞めることを決めてしまって、屋敷の皆を困らせてしまっていることは重々承知です。
主人の居なくなった家を、今でも管理してくれていることには感謝してもしきれません。正確にはまだオベロン社を辞めてはいないし、支社としての機能が残っている中、その代理業務をしてくれていることはヒューゴ様にも聞いています。本当にありがとうございます。

自分がやりたいことに区切りを付けられたその時は、必ず屋敷に戻ります。
まだまだ子供な私で、ごめんなさい。


「おい、ユウナ」

今日は任務の日だ。リオンは準備の為に自室に居るであろうユウナを訪ねる。
部屋を開けると、ユウナは何かを書いていたようで慌てて隠した。紙のような物だった気がする。何故慌てて隠したのか、怪訝な顔をして尋ねた。


「……何をしている?」
「い、いや、別に……」


ユウナはリオンに気づかれまいと、はぐらかそうとするがその態度は余計にリオンを苛立たせるもので。彼女はあまりにも隠し事が多過ぎる。
しかし、それは悪意のある秘密ではなく、彼女自身が罪悪感を忘れないように戒めている秘密のような気がしていたのだ。そしてその秘密はヒューゴも関わっており、彼女はヒューゴに極力関わりたくないという本心を隠している。


「何だ、僕には見せられない物なのか?」
「ちょ、ちょっと……」


ユウナの手に握られていた紙は、手紙だった。屋敷に届けようと書いている途中だった。
所在は言えないけれど自分は無事であり、帰る事が出来なくてごめんなさい、という事を伝えたくて。
これをリオンに見られれば自分の正体がばれてしまう。あくまでも彼にとっては元護衛剣士なのだから。

「ふん……この後、ノイシュタットへの任務がある。僕は先に港へ行っている、遅れるなよ」

リオンは機嫌を悪くして短くそう告げると、部屋を早々と出て行ってしまった。
漸く関係性が築けてきたとはいえ、自分にはその秘密を打ち明けられないとユウナもまたリオンに対して一線を引いているのだ。彼が不機嫌な様子に変わったのも納得できるものだとロイは唸った。


「アイツも拗ねたっていうか……」
「でも、見られたらまずいし……」
「っていうか手紙なんて出して所在ばれないのかよ?」
「そこはヒューゴに協力を頼むの」
「お前……様、付けなくていいのかよ」
「何か……あの人は好きになれない」


ロイもそれもそうか、と同感して「そこは俺もだな」と答えた。

ユウナにはぐらかされたため、苛立ちを表した表情で廊下を早足で歩くリオンに溜息を吐く。
あいつは何時も何時もそうだ。自分のプライベートのことは隠してしまおうとする。それがあまりにも余所余所しいからこそ、気に入らない。


「坊ちゃん、そんなに苛々してどうしたんです?」
「どうしたも……!アイツは何をやっているんだ!いつもすぐにはぐらかして……」
「坊ちゃん、それは……」


長年リオンを見て来たシャルティエは、リオンがそうやって人に対しての関心をどんな形であれ抱いていること自体が特別なことであるということを知っていた。
シャルティエが何故リオンがこんなにも苛々しているのかを言おうとするが、それは遮られる。

「リオン様?」

その声にリオンは顔を上げる。そこに居たのは、リオンの様子に不思議そうな顔をしている、手に箒を持つマリアンだった。


「マリアン」
「どうしたんですか?そんなに苛々なさって」
「いや、ちょっとね」


リオンの声音も表情も、マリアンの前では優しく穏やかな物だった。それも当然だ。リオンが唯一心を開くのはマリアンだけなのだから。
しかし、リオンが一体何のことで感情を乱しているのかマリアンは直ぐに何か分かったのか、小さく笑ってリオンに尋ねる。


「ユウナさんの事ですか?」
「な、何を言ってるんだマリアン!僕はアイツなんか……」
「ユウナさんが自分の事を貴方に言ってくださらないから苛々してるんでしょう?」
「それは……」


マリアンの直球な問いかけに、言葉が詰まる。
悔しいけれど当たっている。図星だったのだ。ユウナが何処かよそよそしい態度を取るからこんなに苛々していることには間違いなかった。


「リオン様はユウナさんに信頼されたいんじゃないのですか?」
「そんなわけが無い!僕にはマリアンが居れば……」


その言葉にマリアンは首を横に振り、リオンを静かに見据え、期待と願いを込めるように語り掛けた。


「エミリオ。貴方にとって本当に大切にしたい人は誰なのかしら?貴方を大切に、考えてくれる人がいるはずよ。ユウナさんの事を分かってあげようとしないといけませんよ」
「……」


――マリアンと別れてもなお、先程の言葉が頭について離れない。
僕がアイツに信頼されたい?
そんな事、ない。僕にはマリアンとシャルが居ればいいんだ。
マリアンこそが僕の大切な人。なのに。


「坊ちゃん、そろそろですよ」
「……そうだな」


その声には苛々がやはり現れていて。シャルティエもまたリオンの気持ちが分かり、どう声をかけていいか分からなかった。
認めたら自分の今までの思いを全て否定するようだから、坊ちゃんは認めようとしない。でも、どこかでユウナとの関係を認めている部分がある。そこを気づかないふりをしているだけ。
しかし、真の意味で受け入れる為にはリオン自身が気付かなければいけないのだ。


「お待たせしました……」

ユウナが港へ行くと、リオンは苛立ちが表れている表情をして既に居て。先程の事もあってからか少し引き気味にリオンに声をかけるユウナ。
「行くぞ」とリオンは短く告げると一人で先に船へ入って行ってしまった。予想通り、まだ怒っているようだった。それも当然か、と思うと溜息が自然と出てくる。


「あ……やっぱ、凄く怒ってるよね……」
「あれは完全に拗ねたな……」
「ロイ?」
「あー、何でもねぇよ。まぁ、直ぐに元に戻るだろ」


ロイはリオンの気持ちを理解しながらユウナを宥める。リオンは不器用だし、ユウナもそれを今一理解できない。環境もあって仕方が無いといえば仕方が無いのだけど。

(こいつ等、本当にやってけるのかよ…ったく)

ユウナもリオンの後を追って、船へとはいっていく。
気持ちの良い風が頬を撫でた。その風にきっと大丈夫、という言葉を流して。

しかし、船に入った後も、リオンは顔を出さずに部屋に閉じこもっている。ノックしても反応しない。本当に彼を怒らせてしまったのだと、少し不安になってくる。せめて「孤児院に手紙を書いていたのだ」といい訳でもしようかと考えて彼の部屋の扉に手をかける。

「リオン……?」

もう一度扉を叩いて名前を呼んでみる。そして、扉を開ける。

「っ……!」

ベットに横になっている、顔色の悪いリオンが居た。非常に気分が悪そうで、一目見ただけでも気持ち悪いのだろうと直ぐに分かるほどだ。ジャルティエもばれてしまったというような言葉を漏らす。


「コイツまさか、船に弱いのか?」
「リオン大丈夫?」
「大丈夫だ……!」


そうは言っているがどう見ても強がっているようにしか見えない。ユウナは何かあったとき用にバックに入っていたであろう、酔い止め薬を取り出してリオンに渡す。

「はい、これ酔い止め薬。すぐに効くから」

リオンは無言でその酔い止め薬を貰い、また横になる。行く時に言われたマリアンの言葉が頭の中に蘇ってくる。

――貴方を大切に、考えてくれる人が。

認めない。
認めるわけにはいかない。


「リオン、そのまま寝てたほうが……」
「煩い……!出て行け……っ」


このままユウナと居たら、おかしくなってしまう。自分が自分でなくなるような、そんな予感がするから。


「坊ちゃん!」
「何だよ、ユウナが折角……!」


それが何時もの皮肉や素直になれない態度なのではなく、突き放すような拒絶なのだと気付いたシャルティエも、ロイも声を上げて反論する。これ以上関わるなという、明確な一線である。
気を使ってくれているユウナに、それは酷すぎる言葉だろうとロイは不満げにリオンに噛みつこうとするが、ユウナは静かに立ち上がり、ロイのコアクリスタルに触れた。


「いいの……行こう、ロイ」
「でもよ……!」
「いいから」


ユウナの有無を言わせぬ声音にロイも黙って、ユウナと共に部屋を出て行く。その後姿を見送ったリオンは、目を伏せる。


「坊ちゃん、今のはあんまりなんじゃないですか?」
「煩い……」


シャルティエの言葉にリオンは顔を枕に埋めて、呟くように言う。
気遣ってくれたのに、あんな事を言ってしまった。いけないのは分かっている。でもユウナと話していると、自分が変になる。

誰も、認めないはずなのに。


「……坊ちゃん、そろそろ自分の気持ちに従ってはどうですか?」
「僕の気持ちだと?」


シャルティエの声が静かなこの部屋にやけに響いて、耳に付く。

「僕は……」

――マリアンさえ居れば、シャルティエがあればそれで十分なのに。
その時、船がガタンと大きな音を立てて揺れた。


「おい、ユウナ……」
「何でだろうね、上手くいかないや……」


ユウナとロイは甲板で潮風に当たっていた。小さな呟きが海へと流れて消えていく。大分話せるようになってきたとはいえ、リオンが不信感を抱くのはやはり当然のことなのだ。

「ユウナ、やっぱ言った方がいいと思うぜ?リオンだってそれで苛付いてる部分もあるんだし……」

何か秘密を隠し続けている様子以上に、大体はユウナへの親しみを感じ始めている自分に苛立ちを感じているんだろうけど、とロイは内心思う。
あの頑ななリオンがそのことを認めるようになるまでまだ少しかかりそうかと思っていたのだが――その時。


「うわっ!?」
「気をつけろ!海から、ご訪問らしいぞ!」


船が大きく揺れて、甲板から見える直ぐ先に現れたクラーケンに息を呑んだ。
並の大きさではないそれに、驚く。レンズの影響でこんなにも大きくなるものなのだろうか。揺れに気づいたのかリオンも部屋から出てきて甲板に入る。


「リオン……これ……!」
「これが討伐する魔物だったらしいな……片付けるぞ!」


リオンは先程飲んだ酔い止めも効いているのか、いつもの動きが戻ってきていた。しかし、クラーケンの足は数多い。リオンが一人で突っ込んでも無意味だ。

「レイ!」

無数の光がクラーケンの足を貫いていくが、直ぐに再生するようで、見る見るうちに足が元の形に戻っていく。
地理的にはこちらが圧倒的に不利だ。この船の半分を覆い尽せるような大きさのクラーケンがもし船を沈めてしまったら、海に投げ出されてしまう。そうなると勝ち目はないし、下手したら船に乗車している人間全員が命の危険にさらされる。


「再生……!?」
「これは確かにマズイな……おい、ユウナ。リオンと連携しろ!」
「ふん、僕に命令するな!」


リオンはもう何も聞く耳を持っていなかった。
そして、一本の足に斬りかかる。しかしその間にもう一本の足が迫っていた事に気づかず。

「リオンっ!」

リオンに迫っていた足に向かって走りこみ、庇うようにして前に立ちはだかり、剣で斬った。その腕は切られたことで消滅したが、再び他の足も襲ってきて弾き返しきれなかった。


「おい、ユウナ!」
「っ……!」


無数の足に体を締め付けられ、宙に体が浮く。その間にもどんどん締まっていき、呼吸までも苦しくなってくる。


「ユウナ!」
「坊ちゃん、あの足を!」


シャルティエに指示された所を斬り、ユウナの体を解放させる。しかし締め付けられた時間が長かったからか、意識が朦朧としている様子。頬には足で攻撃されたのか、傷が付いている。


「リオン……大丈夫……?」
「お前……僕を庇って……!」
「おい、ユウナ!」


あぁ、なんて情けないんだろう。前回に続いて、またこんなミスを犯して意識が途切れかけるなんて。これではリオンが言っていた通り、足手まといもいい所だ。
ロイが声をかけるがユウナの瞼は段々落ちていき、そのまま意識は途切れた。

「貴様……!」

しかし、リオンはユウナのせいではなく、自分の責任であることを重々分かっていた。単独行動をした結果、本来なら自分が危険な目に合う所を、彼女が庇っただけなのだ。
リオンは地を蹴って飛び上がり、クラーケンに刃を向ける。


「塵も残さん!」
「坊ちゃん、頭を狙ってください!」
「浄破滅焼闇!」


リオンの刃は紫の炎を上げてクラーケンを焼き尽くし、魔物は奇声を上げて、その姿は段々と形を失い、ひとつのレンズが地面に落ちた。

「起きろよ、ユウナ!」

ロイが必死に呼びかけるがマスターは起きる様子の欠片も無い。
リオンはすぐさまユウナの元へ駆け寄る。ユウナを抱き起こしてみるが、腕はぐったりと垂れていて。


「坊ちゃん……まずいですよ!早く戻らないと……!」
「さっき締め付けられたからか……!」
「すぐにダリルシェイドへ戻るぞ!」


船も損傷し、危険だと判断した船長は船をダリルシェイドへと引き返した。

――帰ってきて、すぐに屋敷へ運んだものの、ユウナはまだ眼を覚まさない。マリアンが直ぐに冷やしたタオルを用意してくれたが、待っている時間がもどかしくて、落ち着かない。
足手まとい、ではない。今回に至っては自分の気が散っていて、クラーケンに捕まりかけた所を救われたのだ。本来だったらこうなっているのは自分だったかもしれない。
そんなリオンを気遣って、シャルティエは声をかけて落ち着かせようとした。


「……坊ちゃん、大丈夫ですよ。ユウナは絶対に眼を覚まします」
「僕のせいだ……」
「……坊ちゃん。坊ちゃんはユウナを認めないと言いましたよね?……ユウナは、坊ちゃんを信頼してくれているんですよ」


シャルティエは自分が口を出す事ではないとは分かっていても、どうしてもこれは言わなければならないと思って。


「ユウナを……いえ、ご自分の気持ちを認めてもいいじゃないでしょうか?」
「僕の気持ち……」
「ユウナを少なくとも、周りとは違う人だって思っている気持ちです。それは坊ちゃんがよく分かっているんじゃないですか?」


――貴方を大切に、考えてくれる人がいるはずよ。ユウナさんの事を分かってあげようとしないといけませんよ。
シャルティエも、マリアンも皆同じ事を言う。
彼女は突然この家に現れ、そして客員剣士補佐となった素性が分からないソーディアンを持った元護衛剣士だ。何か隠し事をしているし、ヒューゴに紹介されて来たという時点で、彼女を信頼することは無いだろうと考えていたが。


「僕は……」
「……あ、ロイが呼んでます。行ってみましょう」
「あぁ」


リオンはひとつの決意と共にシャルティエを鞘に収めて、ユウナの部屋へと向かった。

「入るぞ」

リオンが部屋に入ると、そこにはまだ眠っているユウナと机の上に置かれているロイがあった。特に目を覚ました様子でもないので、何故呼んだのだろうかと思い、ロイに尋ねると気になる事があったから、だったらしい。


「どうしたんですか?」
「ユウナの様子がおかしいんだよ……」


ロイの言葉に、リオンはユウナの元へ行く。ユウナの顔は苦しそうで、何かにうなされているようだった。
悪い夢でも見ているのだろうか。シャルティエが名前を呼びかけるものの、返ってきたのは、ごめんなさいという言葉。


「ごめん、なさ……い……」
「っ……」


相当嫌な夢でも見ているのか、彼女は静かに涙を流し、動揺した。彼女の身に何が起こったのか、予想も付かない。

「……なぁ、リオン」

ロイは自分のマスターが何故こんなに謝って、泣いているのか分かっているから、リオンに伝えたくて。

「コイツ……昔の事で良い思い出ないんだ。けど、それを何とか変えようと思ってこんな所にまで飛び込んできた。好きじゃない相手にも頭を下げてな。ユウナが自分のことを言わないで苛立つのはわかるけどよ……ユウナから言うまで我慢してやってくれねぇか?」

好きじゃない相手――あぁ、それこそが自分の父、ヒューゴ・ジルクリストなのだろう。実業家としてはやり手であるが、自分の子供まで切り捨てて道具として扱うようなあまりに冷淡で冷酷な男だ。その男を慕っているともなればリオンにとっては信頼し難い相手であるが。
彼女が昔のことで何らかの罪悪感を抱き、こんなにも涙を流して謝っている事がロイの言葉でも十分に理解できた。

「……分かった」

リオンはユウナの涙を手で拭い、もう片方の手でユウナの手を握る。するとユウナも安心したのか、また眠りだした。

――深い深い、海の底に沈んでいるような感覚だった。しかし、漸く身動きの取れるようになった自分は、射した光を感じ取って手を伸ばす。水面へと這い上がる。
暫くして、重たい瞼をそっと開けた。
自分は、そう。リオンを庇って、締め付けられて気絶してしまった。また、リオンに迷惑をかけてしまったのだ。見限られても、幻滅されてもおかしくはない。
体を少し起こして、ベットの横を見るとそこに居たのは、とても安心した顔をしているリオンとその傍らにはシャルティエとロイが居た。


「リオン……!?」
「起きたか……?」
「お前眠りすぎなんだよ……」
「心配しましたよ!」


毒づくロイも安心した表情で、シャルティエも思わず声を上げる。ユウナは右手が何かに掴まれている、そうリオンの手につかまれている事を感じて戸惑う。


「リオンはお前が気絶してから運んで、ここに居てくれたんだよ。全く……二回目じゃねぇか」
「め、迷惑かけてすみませんでした……!その、任務に支障を……」
「何でお前が謝るんだ。すまない、ユウナ……」


リオンの謝る姿にまた更に慌てる。こんな風に素直に謝るリオンなんて、今まで見たことが無い。
一体何があったのだろうかと困惑してロイとシャルティエを見つめるが、彼らは無粋な茶々を入れることは無かった。


「え、……リ、リオン!?」
「ユウナ」


名前を呼ばれてリオンを見ると、真っ直ぐな目をしたリオンがいて。まるで何かを決意したような、そんな目だった。
相手が隠している秘密に対して苛立ちを覚えていたが――秘密を抱えているのは彼女だけではない。自分だって、そうだと気付いたのだ。
リオン・マグナスという名を使うと決めた時、家族という枠を捨てて生きると決めた。姉も、母も、――父も居ないようなものだ。信じられるのは己の腕と、愛剣、そして唯一愛情を注いでくれたマリアンだけだった。


「……リオン・マグナスという名で生きると決めた僕だが、僕の名を伝えておこう。エミリオ、それが僕の名だ」
「エミリオ……?それって」
「坊ちゃんの本名ですよ。リオン・マグナスは客員剣士になる際にご自分で決めた名前です」


確かに名字も含めてヒューゴとは異なるけれど息子だという事実に疑問を覚えていたが、リオン・マグナスという名前自体が偽名だったことを知らなかったからこそ驚きを隠せなかった。
しかし、偽名で生きると決めていたのなら――きっとその本名は軽い気持ちで打ち明けられるようなものではなく、大切なものに違いない。
どうして、出会ってからまだ二か月程しか経っていない自分にそんなに大切なものを教えてくれるのだろうかと困惑する。だって、彼には迷惑しかかけていないのだから。

「でもどうして、そんな、大切なものを……」

あぁ、確かに。
エミリオ・カトレットという名前を知る者は、ほんの一握りしかいない。それは普段は気丈に、そして凛と振舞うリオンの内側に隠された少年の心そのものだったからだ。

昔から自分を知る者以外の、新しく出会った人にこの名前を教えるなど、確かに気の迷いかもしれない。彼女とは出会ってまだ二か月――あまりに短い時間と言えるだろう。
だが、剣一本で己の信念を貫こうとしている、本来は純朴だろうこの少女が自分と重なって見えたことは確かだし、共に居て不快ではなかった。
そう感じるようになったのは勿論、シャルティエとロイの存在も大きいだろうが、年頃の少年のように会話できる日々というのは――悪くはなかったのだ。


「エミリオ……?」
「そうだ」


きっとそれは、彼にとって大切な響きであることは分かっていた。だからこそ、純粋に嬉しかったユウナは、漸く本来の彼女らしい素直な笑顔を浮かべる。


「よろしく、エミリオ。……私も、けじめが付いたら。そしたらちゃんと話すから」
「……あぁ」


客員剣士補佐として立派に独り立ちし、バレンタイン家にも顔向けできるような人間になれたのなら。そしたら聞いてほしいのだ。オベロン社の支社という大切な職務を任されていたのに、それ以外の道を知りたいからこそ、愚かにも手離そうとした少女の話を。

――僕の大切な人になっていただなんて、認めたくなかった。
でも、もう認めなければいけないほどに、気づかないうちに想いは膨らんでいたのだと、二年後の自分ならば理解できたのだった。
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