水月泡沫
- ナノ -

21

それは楽しい、楽しい、悪夢の始まり。
避けたくても、避けれないもの。

休暇を貰ったこの三日間。普段ならばダリルシェイドから出て何処か別の国に行っていたかもしれない。
この休暇を有意義に使って故郷であるファンダリアへ帰りたかったものだったが、そうもいかないような気がしてならず、結局は街からも出ることは無く、外出といっても街を歩くだけだった。

「ロイ……やっぱり暇だね……」

特にすることは無い上に、警戒しておかなければならない。あの男、冷たい瞳を持ち何を企ているのか全く持って読めない男ヒューゴ。この妙な空気とヒューゴの姿が見えない、そして休暇に解雇。
何かが起ころうとしているのは分かるがそれが何なのかは分からない。分からないからこそ恐ろしく、ここまで警戒する必要があるのか疑問になってくる。


「怪しいとは思ったけど、やっぱり考え過ぎだったのかな……」
「……いや。絶対俺を常に持ってろ。俺も嫌な予感がするんだ」
「……なんか、ロイってば何時も以上に気にしてない?どうしたの?」
「あいつが言ってた悪夢ってやつが何時か分からない以上……」


そこまで言うとは、としてロイは黙り込んだ。喋りすぎてしまったと内心後悔して。


「あいつ……?悪夢って何?ねぇ、ロイ」
「何でもねぇ……」


これを言ってしまったら自分は彼女の盾として剣として、力になることが出来ない。

自分は何のためにこの時代に、ソーディアンとして居る?
昔、そうあれは、天地戦争時代に会った奴のために。それだけのために自分はこうして、してはいけない禁忌を犯して来ているというのに、伝えたいことを伝えられずに黙ったまま、注意を促す事しか出来ないなんて。
何せ"今"彼女が今後何が起こるか知ってしまったら、罪悪感に潰されて後悔し続けることを知っているからだ。何故自分がこの時代に来たのかは――知らせないままにしなければならないのだ。


「最近おかしいよ……何でそんなに……」
「……、俺から言えるのはあの男から注意しとけってだけだ……」
「……」


――残るは二日。
もう既に賽は投げられているのだから、決して逃れられない。男は一人部屋で静かに笑い、纏う空気はまがまがしく。
全ての準備は整った。
さぁ、楽しい悪夢の始まりはもうすぐだ。
精々、残りの二日を楽しんで、その幸せを絶望の色に塗り替えてやる。


暖かな日が差し込む今日。することも無いのでマリアンと共に前に教わったプリンでも作ることにする。これは彼の大好物。幼き頃から好きだと言っている甘党の彼には持って来いのものだ。


「ユウナって本当に手際がいいのね」
「そんなことはないよ」


彼女の優しい褒め言葉に少々照れながらも着々と準備を進めていく。
キッチンには最初は多くあった材料も今はもう殆ど混ぜられていて残っていない。リオンもその匂いに釣られてやって来たのか部屋へと入ってくる。


「ユウナ……、マリアン……?何を」
「あ、まだ出来てないんだけどプリン作ったの」
「ユウナが作ったのか?……ありがたく頂くよ」


彼の返事に作ったかいがあってよかったと心から思う。それと同時に心底自分は彼の事が好きなのだなと自覚してまた恥ずかしくなる。


「ユウナも休暇が終わったらまた任務でしょう?ゆっくりお茶が出来るのは明日までね」
「明日まで……」


今思えば特に何がある訳でもない、息抜きの出来る穏やかな休暇だった。やはり普段冷淡な人の気遣いに過敏に警戒心を抱いていただけなのだろうか。王命とも言っていたし、神の眼の奪還の功績を称えて、故郷に里帰りをする期間を作ってくれたのだろう。
しかし、ロイの言葉が頭に引っかかる。何までの時間?多分、彼が言っていた悪夢のことだろう。

背筋が一瞬凍った。何に怯えている?悪夢、とは何なのだろうか。誰にとっての悪夢なのだろうか。あいつとは、誰なのだろうか。
――己が駒に過ぎないことを、自覚していない奴は、幸せだな。
グレバムが零した言葉がやはり引っ掛かる。もはや何処から何処までが繋がっているのか分からない、何を気をつければいいのか分からない。


「ユウナ?」
「あ、ちょっと考え事してた……ごめん。何?」
「もうそろそろ出来た頃よ」


プリンを出して、ティーカップにお茶を注ぐ。こんな日常が何時までも続くのだろうか、話している途中もそんな悪い考えがついて離れなかった。


――夜、もう辺りは既に暗く、町全体静まり返っている。
ユウナは未だに眠くならないのでベットの上で読書をしていると、扉が数回叩かれる。返事をすると入ってきたのはある程度予想もしていたリオンだった。


「どうしたの、リオン。こんな時間に……」
「……いや、お前が昼間から思いつめていた気がしてな」


やはり彼の洞察力は侮れない。自分の心境に気づいて気を使ってくれる事は嬉しいけれどもこの不安は何から来るのかいまいち自分でもよく分かっていない。彼にこんな不安をいってもいいのか心配にもなる。

「お前が言いたくないならそれで構わない。けど、僕に出来る事なら頼ってくれ……ユウナが一人で思いつめる姿はもう見たくない」

ファンダリアで見せた彼女の涙。思いつめて思いつめて限界まで来てその心の緊張が解けた時に流した初めての涙。
そうなるまで自分に言ってくれなかったことに、そんな不甲斐ない自分に情けなく思って。今度こそは彼女を守ろうと、彼女に頼られる存在となるために、そう決意したのだから。


「何でも言って欲しい……」
「……ありがとう。ロイが最近何処か余所余所しいんだ。何か言おうとして途中で止めたり……」


今頃シャルティエとリオンの部屋で話しているであろう愛剣の態度についての悩みだ。


「あいつは……馬鹿な所も多いが、何かをはぐらかすような奴じゃない。ましてやユウナにだ。……何か言ってはいけないことがあるんだろう。シャルが千年前をあまり言いたがらない様にな」
「それにしては、ヒューゴに気をつけるようにって煩く言ってきて……確かに分かるけどね」
「僕もそれには賛成だ……あいつは何を考えているか分からないような奴だ」
「うん……やっぱり、悩んでる時って誰かに相談した方がずっと楽なんだね」
「当たり前だ馬鹿者」


リオンはユウナの背中に腕を廻して抱きしめて、囁くように、自分の決意を彼女に伝える。


「ユウナ。僕はお前に何かあった時は全てをかけてもお前を守ると誓う」
「……ありがとう。私も、リオンに着いていくから」


本当に真っ直ぐに愛情を見せてくれる少年に、自分がいかに恵まれているのかを実感するのだ。その機会自体を作ったのはヒューゴなのだから、あまり疑いすぎるというのもよくないのだろう。
リオンがユウナに肩を乗せて、その距離が近づいて来たのを感じ取り、気恥ずかしさを覚えながらも瞳を閉じて顔を近づける。
軽く唇が触れ合い、お互い恥ずかしそうに目を見合わせて小さく笑った。

――残るは一日。もう、幸せなどは見えなくなるのだから、それまでの間に。


休暇最後の日、これで休みも終わりかと考えると気が重く、同時に安心感もあった。
空はもう暗く、月も出てきた今まで特に何も無い。ロイの心配も自分の不安もただの思い過ごしか、そう思っていた。廊下に出ていたところを帰ってきたリオンに呼び止められて振り返る。


「何?」
「ヒューゴからの伝令で王から急用があるらしく至急来てくれとのことだ」
「王が今から?……分かった。私一人で?」


こんな時間に何の用事があるというのだ、と感じるもののヒューゴからの伝令で、それを命じたのが王からとなれば断る権利など無い。しかし、王から自分だけが呼ばれるというのも妙な話だ。何せ自分は客員剣士補佐であり、リオンの補佐である。
何かの特務があるとしても、リオンに話が行くはずだろう。だが、飛行竜の護衛の時も一人での任務を命じられたことを考えると、もうそろそろ独り立ちをしなければならないのだろうか。


「あぁ、何の急用でユウナだけを呼ぶかは知らないが気をつけろよ」
「うん、ありがとう。行って来ます」
「あぁ」


ユウナを見送った後自分もこの後ヒューゴに部屋に来る様に言われていた事を思い出し、嫌々ながらもシャルティエの柄に触れて緊張を解しながらヒューゴの部屋へ向かった。
笑ってこう挨拶を交わすのも。これで最後だったなんてことは皮肉にも知らずに。次に刃を向け合うなど、誰がわかったのだろうか。

――城へ向かうとそこはもう既に暗く、灯りもあまり付いていなかった。
それでも門の前には兵が二人ほどいる。門の前を通ろうとすると、暗闇でユウナの顔が分からなかったのか兵に止められた。


「私はユウナです。通していただけませんか?」
「失礼しました!ユウナ様でしたか!しかし何故このような時間に……?」
「王から命が無かった?急用で呼ばれたみたいなんだけど……」
「……そんな命はありませんでしたが……」
「それにもう王は自室へ戻ったようです。何かの誤報では……」


そんなわけが無い、と声を上げるが二人の兵士はそんなもの無かったと言うだけだ。情報が食い違っているのだろうかと疑問符を浮かべつつ、どうしたものかと困惑しているユウナに、ロイはその会話に恐る恐る尋ねた。


「おい……ユウナ。その伝令は誰から受け取ったんだ……?」
「え……?リオンから……じゃない。ヒューゴ……ヒューゴだ……!」


警戒していた人物の名前が挙がり、ロイも眼を見開いて怒鳴った。ヒューゴから伝令が来たと言う話を聞いた時、ロイを部屋に置いていたのだ。誤報とは思えないような用意周到さに、何かが起ころうとしているのではないかと予感するのは違わないだろう。


「くっそ!ユウナ、これは罠だ!ちっ……とっとと屋敷に戻るぞ!」
「まさかヒューゴが何か……?っ、早く戻らないと!」


回れ右をして街を走りぬける。今日は満月、嫌に明るい月夜だ。
――胸騒ぎがする。その不安がどうかただの思い過ごしであって欲しいと願いながら息を切らして走り、屋敷へと向かった。


何が起こっているというんだ。
昨日まで一緒に話していたりしていた彼女が、縛られているだなんて。自分の体はこの男、ヒューゴの攻撃によって壁に叩きつけられて、動くだけでも全身が悲鳴を上げるかのように痛い。
猿轡を噛まされ、ロープで腕を縛られて自由に動けぬマリアンの横で怪しく笑ったのは執事であるレンブラントだった。
僕には、どんな選択肢が残っていると言うのだ。守りたいものを守れないだなんて、こんなのじゃ僕は。


「ふん……そろそろあの娘が戻ってくる頃だな……」


ヒューゴの言葉に驚いてリオンは顔を上げる。あの娘と言うのは、ユウナのことだ。


「あれも利用価値があるからな……当初の予定通り、駒として使ってやろう」
「ヒューゴ、貴様……!」


彼女を駒に何かさせない。彼女を利用して神の眼を盗むなど絶対にさせるものかと、強い目で睨んだ。
それでは彼女にも悪事に加担したという汚名を着せることになることをリオンも理解していたからだ。彼らが神の眼を盗んで一体何をしようとしているのかは分からない。だが、グレバムが神の眼を盗んだこととは明らかに違う、もっと取り返しのつかないことをしようとしていることだけは分かるのだ。
マリアンが捕まっている状況で、自分ににはもう引き返すことは出来ない。協力しなければ彼女の命が無いというなら、例えこれから行うことが悪事であろうと、そんなものに彼女を巻き込んで堪るものか。

「逆らってもいいのか、リオンよ。こちらには人質も居るのだ……どうしてもユウナを駒として使われたくないのなら」


何故、こんな悪夢が始まってしまったのだろうか。


「お前がユウナを殺せ」


それは彼女をこの悪夢に巻き込まないための唯一の方法であり、これこそ悪夢と言わんばかりの最悪な方法であった。


――城から急いで戻って来たユウナは、ヒューゴ邸に戻って来て扉を開けた。そこにはメイドも誰も居なく、静まり返っていた。変に静まり返りすぎているのだ。
家を出る前とは明らかに異なる雰囲気に、胸騒ぎが止まらず、耳の奥で鼓動が反響する。
その時、奥にある扉が開いて人が出てきた。一体何が起ころうとしているのかと辺りを見渡し、リオンの部屋へと向かおうとしたその時。

「リオン……!」

出てきたのは彼の姿で、安心を覚える。ヒューゴの罠かとも思ったが、彼の姿があるのなら何事も無いだろう。


「リオン、あれ誤報だったみたい。だから……」
「ユウナ」


名前を呼ばれて彼を見る。その瞳にはいつも以上に深い悲しみが刻まれていて、何も言えなくなってしまった。何故、彼がこんな表情をしているのだろうか。
こんなにも思い詰めた顔をしたリオンをこれまで見たことがあっただろうか。彼は責任を抱え込んでしまう所はあるし、苦悩してきた姿を見たことは何度だってある。けれど、こんなにも苦しそうな彼を、自分は知らない。


「リオン……?」
「このまま、何も言わずにこの街から出て行ってくれ……」
「え……?」
「……、僕はお前を巻き込みたくない……」


せめて君だけでも、せめて。
僕では君を殺すなんて事出来ないから。――二つ守り切ることは出来ず、マリアンを救うにはそれしか方法は無い言われたのに?
僕は彼女を守ると決めたのに。――たとえどんな事があろうとも。


「僕はお前を守りたいんだ……」
「エミリオ……?また……!また一人で全部背負う気なんでしょ……!?」
「ユウナ」
「私にも頼って欲しいんだよ……!何があったの……?もしかして、ヒューゴが……」


無言でその先を遮るかのようにリオンはシャルティエの切っ先をユウナに向けた。彼が自分に剣を向ける拒絶。そして何も言わずに街を出て行って欲しいという切実な願い。
それは、彼が既に何らかの思惑に囚われ、自分を巻き込まないように庇っているのだと気付かない訳もなかった。自分を頼ってくれていた筈の彼が何かを隠そうとしているだなんて、恐らくこれから何かとんでもないことが起きようとしているのだろう。
それでも、応えて欲しかった。彼の身に何があったのか、自分には話して欲しかったし、何か重荷があるのならそれを半分背負わせて欲しかった。


「リオン……?」
「何やってんだよリオン!おい、シャルティエ!」
「……」


何も言わぬ、目の前に居る少年の相棒である剣に必死に声を掛けるものの何も返ってこない。ユウナはただ、切っ先を自分に向けられているその事実を信じられずに立ち尽くしたままだった。


「最後だ……何も言わずにこの街から出て行ってくれ……!」
「そんなこと……出来る訳ない……!」


リオンの剣幕に、ユウナは震える手でロイを掴み、構える。
リオンの決意が固く、決してこれは脅しではないことが彼の傍に居たからこそ分かったからだ。
しかし心が不安定である彼女に今、戦えるとは思えないとリオンには分かっていた。そんな彼女にリオンは悲しそうに視線を落として、何かを呟いた後ユウナに素早く近づいた。


「っ……!」
「魔人闇っ……!」


――リオンの攻撃を受けたのは、二年共に居て初めてのことだった。
凄まじい闇の力で体が押されて、壁に勢いよくぶつかる。衝撃はすさまじく、咄嗟に剣で防御しようとしていたのにも関わらず、反動で手に握っていたロイを落としてしまう。


「っ!あっ……!」
「ユウナ!」


必死に自分のマスターの名を呼ぶものの、彼女の手が辛うじて動くのみで体を起き上がらせることが出来ない。更に段々と瞼も落ちてきて、視界が暗くなってきた。

「い、かない、で……!」

どうして貴方は何時も何時も。そうやって身に余るものを背負い込もうとしてしまうのだろうか。どうして、肝心な所は頼っては紅のか。
ひゅうひゅうとなる喉で必死に叫ぶものの、リオンはユウナの脇を通り過ぎて外へ出るために扉を開こうとする。
手を伸ばして彼の宙に漂うマントを掴もうとするものの、腕が上がらない。涙が頬を伝って床へと落ちる。


「エミリオ……!行かな、いでっ……!」


視界は完全にブラックアウトし、そのまま床に倒れこんでしまった。
彼の最後に見せた顔はどんな顔だったか――それは悲しそうな顔で、悔しそうに唇を噛み締めて目を伏せていた。

リオンはユウナへの思いを断ち切るかのように扉を閉めて、ずるずるとそのまま力なく地面に座り込んだ。ユウナを傷付けた時の、手の感触が消えないのだ。何て恐ろしいことをしたのだろうかと、手の震えが止まらない。

「すまない……、ユウナ……っ」

どうしてこんな事になってしまったのだろうか。何故彼女とこんな悲しい別れをしなければならなかったのだろうか。


「坊ちゃん……」
「僕はユウナを守りたかった。けれど……!」


こんなのは、守ったなんて言わない。ユウナを愛しているという感情に間違いはない。だが、自分と同時に弱みを握られてしまったソーディアンマスターである彼女が自分と一緒に来てしまっては駄目なのだ。
だが、彼女をこんなにも傷つけて、泣かせてしまった。あんなにも自分の名を呼んで、一緒に戦ってくれるといってくれたのに。

「僕は最低な男だな……」

決して流すまいと思っていた筈の涙が溢れて止まらなかった。雫は地面へと落ちて、色を変えた。
もしも彼女に一緒に来て欲しいと言っていたらどうなっただろうか。――きっと、彼女もまたヒューゴの悪事に利用されて汚名を受け、そしてグレバムのように使い捨てられるのだろう。
そんな名誉も命も全て奪われるようなことに彼女を巻き込むことなんてリオンは出来なかった。だが、彼女は説得しても納得はしなかっただろう。マリアンのことを聞いたら余計に自分も共に付いて行くと言ったに違いない。

彼女を自らの手で痛めつけるようなことをしなくてもよかったのではないか――そんな後悔も沸いて来る。愛した少女を、自分が傷付けたのだ。
だが、ユウナが無傷で逃げたことを知ると、ヒューゴは間違いなくマリアンを殺すだろう。
彼女が暫く動けない状態であることを知れば、その甘さを嘲笑われるかもしれないが、マリアンの命は取られないかもしれないし、ユウナが脅されて利用されることも暫くは無いだろう。そんなのは一時しのぎであることなんて、リオンには分かっていた筈なのに。
愛する者の為に生きる彼には、どちらも自分の判断で殺す結果になることだけは出来なかったのだ。


「きっと違いますよ……坊ちゃん……これはユウナを守るためだったんですから……」


もはや、彼にもこの判断が正しいのかもう分からなかった。
何故、こうなってしまったのだろうか。何故、刃を向け合わなければいけなかったのだろうか。
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