Violetta
- ナノ -
何時か何があったら帰れるかもしれないと毎日のように思っていたのは初めだけだった。
仕事に邁進する時は疲れたと思うけれど、一緒にただいまと鳴いてくれるチルットが居る。アルクジラも出迎えてくれる。
流石にこの世界の常識だとか知識が増えてきて、自然と溶け込めるようになってきたとしても、グルーシャ君やアオキさん、それからオモダカさんとのやり取りは代わることはない。
一面の雪のように白化してまっさらになったと思っていた縁は折り重なり、束ねられて、輝く。

そうしてこの世界に来てから、もう一年があっという間に経った頃。
流石に当初の『いつか帰れるかもしれない』なんて夢を、連日のように見ることはなくなった。
当たり前のようになってきた『ただいま』を今日もライトを付けた家に帰って声に出す。

「あっ、グルーシャ君からメッセージきてる」

グルーシャ君がどうやらアカデミーで開かれるバトル大会に出るらしく「見に来る?」という連絡が入った。

「!アルクジラ、グルーシャ君がバトルするんだって。見に行こう!」

始まりこそはトレーナーであることもジムリーダーであることも知らず、たまたま助けてくれた青年として縁を結んだが。
今となってはトレーナーとしてもグルーシャ君のファンと言えた。

「……見に来る?ってわざわざ声をかけてくれるの、嬉しいなあ……」

好きだと随分前に思ったけど、多分私はちゃんと、グルーシャ君のことが好きだ。
成り行きで放っておいたら死んでしまいそうな──いや、間違いなくグルーシャ君に会わなかったらそもそも人に会うことも無く、別の世界に来たと気づくこともなく死んでいたはずの人間を今もこうして気にかけてくれる人。
でも、自分はこの世界の人でもなくて。
更には何時か元の世界に戻ってしまうかもしれない可能性がある。
そこまで考えた時にふと自分の思考の違和感に気付かされる。
戻ってしまう、と考えてることに驚いた。

「私、このパルデアも……好きになってたんだ」
「チル?」
「チルットも、グルーシャ君がトレーナーだけどアルクジラも居てくれるもんね」

最初は幾らフィクションの世界という人にとっては夢のような状況だとしても、私にとっては喪失感の方が大きかったマイナスな感情から始まっていた。
帰りたくて堪らなかった感情が徐々に変化を見せ始めていた中で、一番心に引っかかっているのは、グルーシャ君が一度だけ言ってくれた『居なくならないで欲しい』という言葉だ。
深い意味はないのだろうけれど、その言葉とあの時のグルーシャ君の表情が今も脳裏に焼き付いていた。
惜しんでくれる人が居るというのは、幸福な事だ。


バトル大会が開催されるのは日曜日。
その前日からチャンプルタウンと少し離れたテーブルシティへの行き帰りを考えて、ビジネスホテルに泊まっていた。
このパルデアの中心都市と呼ばれているテーブルシティの観光を楽しむ目的で、一日前乗りだ。
大会に参加するトレーナーも、中には前乗りをしている人も居るようで、グルーシャ君も『終わり次第前日にいくつもり』と言っていた。

「チャンプルタウンのあの感じも自分が住んでた所に近くて落ち着くけど……テーブルシティは私にとっては観光地な景色だなあ」

大きな広場に公園、様々なお店が建ち並ぶ賑わった街並み。
長い長い階段の先にはアカデミーがあり、アカデミーに所属している生徒達が多く見られる。

「見てチルットもアルクジラも。サンドイッチ屋さんがあんなにある!」
「チル……!」
「ふふ、食べたい?部活帰りとかに食べるあのバリエーション豊富なサンドイッチを思い出すんだよね……」

学校帰りとかお昼にサンドイッチを頬張る行為には親近感がわくが、このパルデア地方で見られるサンドイッチは、エヴァにとっては『オシャレなカフェやパン屋さんで売っているサンドイッチ』だ。
主食の違いというものなのだろう。

ウインドウショッピングを楽しみ、チルットとアルクジラと食べる分のサンドイッチを頼んで、東の地区にあるというポケモン達の憩いの場にもなっている広場へ足を運ぶ。
隅っこの方のベンチに座り、二体と一緒に昼ご飯のサンドイッチを頬張りながら日向ぼっこを楽しむ。

「温かくて眠くなってくるね……ふあ……」
「チルゥ……」

秋晴れの寒い風の吹かないこの日。陽射しに照らされて温まり、単純な眠気とは別に、抗いがたい眠気が襲ってくる。
気付けば意識が遠のき、眠りとは違った感覚が体と意識を支配する。

ただ寝ているのとは異なるこの奇妙な感覚を一度だけ体験したことがある。
寝不足の状態でふらふらと路地裏に向かって呼ばれる声のまま歩いて行き、この世界に呼ばれた時のような感覚だ。
しかし、何時もの睡眠時の時に見るような夢ではなく、現実だという実感だけが不思議とあった。

しかし、決定的にその時とは違ったのだ。

──エヴァ、君はもう帰れなくなっちゃったね。

この世界に来る直前に聞こえた声と似ていた。
そして、元の世界の"私の身体"が亡くなったという実感だけが強くあった。
視界が真っ暗になって、指先の感覚がなくなって。
冷たさだけが芯まで伝わっていく怖さ。
それを自覚して逃げたいと強く思ったその瞬間。瞼は開いて、眩い光が差し込んでくる。

「ぁ……」

目が覚めても、そこはパルデア地方。テーブルシティだ。

今になってその感覚を覚えるのは、今こうして私が別の人の人生を歩み始めているように、自分の身体も誰かによって使われていて、その人生さえも終えたのだという可能性だ。
それは、推測の域に過ぎないが。

ただ事実として残るのは『私はもう二度と元の世界に戻ることは出来ないのだ』という決定打だった。

「……ここで生きていくのが嫌じゃなかったはずなのに」

もう大分受け入れ始めていたし、ここに来られたなら戻ることだって出来ると楽観視はしていなかった。
この世界で新しい縁だって出来たし、元に戻れなくても納得の出来るような生き方を始めていたつもりだった。

今まで我慢して立ち上がって歩いていかないといけないと自己暗示をかけていたけれど、塞き止めていたものが溢れるようにぼたぼたと涙が零れ始める。
──私、生まれた場所にもう二度と帰れないんだ。
ぽたぽたと。
涙が膝の上で寝ていたチルットの雲のような羽に落ちて吸い込まれていく。

「チ、チル……?」
「ごめんね、起こしちゃって……ごめん……」

何かあったのだろうかと心配して見上げてくるチルットの頭を撫でて、袖で涙を拭おうとするのだが溢れて止まらなかった。
横ですやすやと寝ていたアルクジラが慌てたようにどこかへ行ったことに気付かず、顔を見られないように手で覆って前屈みになる。

確かにつまらない毎日が続いてるな、だとか。
仕事から帰ってきて疲れて寝て、また仕事に行くのを繰り返してるのって本当にいいのかな、だとか。
そんなことは考えていたけれど、だからと言って全てを手放したいと強く願った訳では無い。
どうして私が選ばれてしまったんだろう。どうして、元に戻るという希望も完全に絶たれてしまうんだろう。
誰に聞いたってその答えは帰ってこない。

──隅っこの方のベンチに座っていたとはいえ、公園で一人の女性が泣いてるなんて悪目立ちする。
そうは分かっていても涙が止まらなくて、大人になればなるほど、不思議と心に受けた傷が鈍くのしかかる。
そうして何分その状態で蹲っていたのか「エヴァ!?」という焦った声が真っ暗になった視界をこじ開ける。

「ぇ……ぐ、グルーシャ君……!?」

今聞こえてきたら都合が悪い人の声が聞こえて、びくりと肩が跳ねる。
どうして、今彼がここに居るのだろう。
まずい、こんなに泣いている所を見られたくないのに。
そう思っても、涙が勝手に引っ込んでくれるなんてことはなく。
アルクジラが急いでトレーナーである彼を見付けて連れてきてしまったのだ。

──グルーシャはグルーシャで、タクシーの乗り場にまさか自分のアルクジラが慌てた様子で出待ちしているとは思わず。
何かを察して急いで来て今に至る。彼にこんなにぐずぐずに泣いてる姿を見せられないのに。

「ご、ごめん、きにしなくて、いいから……」
「そんなわけないでしょ。……何があったのさ。誤魔化さなくていいから」

強がってみようとするけれど、隣に座ったグルーシャ君は、目を見て静かに問いかけてくる。
真っ直ぐな視線に射抜かれて、目を逸らせなくなる。
ぽつりぽつりと彼に今起きたことをゆっくりと話し始める。
涙混じりの声で、時々啜り泣いてしまうのが気恥ずかしくなるけれど、彼は親身になって話を聞いてくれた。

「……私、本当にもう、帰れなくなったって今"判って"……あはは、ここで頑張るって言ったのに、いざ……それを……突きつけられると……」

ああだめだ、涙がまた零れる。
グルーシャ君を困らせたくは無いのに。
何時か帰れる日が来るかもしれないと零しても困らせて。もう二度と帰れないと分かっても困らせて。
何時もグルーシャ君を自分の感情で困惑させてばかりだ。

静かに話を聞いていた彼は「エヴァ」と声をかけてくれる。
何時も口元まで覆って表情が見えづらい彼が、マフラーを下ろしていた。
『エヴァ』という単語を紡ぐ口の動きがゆっくりと映り、目に焼き付く。
彼は、自分の名前を呼んでくれている時、何時もこうだったんだと脳裏でぼんやりと考えていた。

「それまで積み上げてきたものが一瞬で無くなる怖さをぼくも、エヴァ程では無いけど解ってるつもりだ」

完全に理解してあげられる訳ではないけれど、その痛みや傷の深さは自分の視界を奪いかねないものであることを知っている。
痛みを共感してあげることは出来なくとも、立ち止まった所から再びゆっくりと前に進み始めることは可能だと知っている。

「……この世界での帰る場所なら、ぼくが用意出来るから」

彼女の瞳は涙で覆われて、光に反射してきらりと輝く。

──『元の世界に何時か帰れるかもしれない』という最後に残っていた希望も刈り取られて。
可哀想で。
でも、ぼくは君にとって悪い人だね、エヴァ。

その希望が無くなって、新しいものを与えられることを喜んでいるんだから。
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