Violetta
- ナノ -
自分は何時、この世界から元の世界に戻れるんだろう。
そんなことを、考えなくなった訳ではない。
勿論この世界にもだいぶ慣れてきて、同僚も知人も、仲いいポケモンだって出来た。
この世界で生きて行かなくちゃいけないという決意だって、弱かったわけではない。
けれど、ベランダから夜空を見上げながら一人でふと考えてしまう時がある。

私、いつ戻るんだろう、って。


バスケットに入れたままがいいだとか。タマゴと一緒に歩かなくちゃいけないなんてことを知らず、グルーシャ君にタマゴを受け取ってからもう二週間が経っていた。
最初に受け取った頃よりも、時々動くような気がして、毎日アルクジラとタマゴの様子を眺めてはそわそわする毎日だ。
──こういう体験をすると、失うばかりではなくて、新しい場所だからこそ何か新しいものを得られるということを知る。

動きが大きくなってきたのもあり、残業をせずにすぐに帰宅する。そわそわと落ち着かない様子で家事をして、ゆっくり腰を落ち着けられるようになった時間。
その瞬間は訪れた。
ぴしりと音が鳴って、アルクジラも期待ではしゃぐ。慌ててカメラを構えて、その瞬間を撮影して。
まんまるとしたつぶらな瞳と、目が合った。

「わ……!う、生まれた……!」
「チル……?」

チルタリスによく似ているけれど、もうふた周り小さくて、同じくふわふわとした羽を持つ鳥のようなポケモン。
確かチルットと、グルーシャ君は言っていただろうか。
まだ生まれたてで上手く飛べないのか、膝に乗ってきたチルットは見上げてきて笑ったような顔をする。

「か、かわいいー……っ」

ただ可愛がるだけではなくて、自分の世界で動物を飼う人のような気持ちで、ちゃんと育てて養わなければいけないという認識はあるけれど。
それ以上に今はただただ、自分のことを親だと思って引っ付いてくる小さな温もりに破顔する。

『グルーシャ君に貰ったタマゴがかえって、チルット産まれたよ!すごく可愛いの!』というメッセージと写真を彼に送る。
メッセージを送った一時間後。『休日に様子を見に行くよ』という返事が戻ってきて、反射的に喜ぶ私が居た。

「いけないいけない……こんなにグルーシャ君をチャンプルタウンに来させてるの、よくないのに。この間、職場でグルーシャ君の話したら『グルーシャ様と知り合いなの!?』って卒倒されたばっかりだし」

グルーシャ君に関する話と、彼に託してもらっているアルクジラのおかげで、ここの世界について理解しきっていない中でも話題に困ることはあまりなかった。
「あまり細かな戦略とか分かりきってないんだけど試合見るの好きでよくナッペ山に行く」とかの話をすれば「休日何してるの?」という質問にも答えられる。
しかし、グルーシャ君という有名人に知らなかったとはいえ気安いことを戒める。
──私の世界では、きっとテレビで見るようなスポーツ選手を一般女性が何度も呼び立ててしまっているようなものだ。多分。

世間的な彼の凄さも分かり切っていなかったんだから無知とは恐ろしいものだ。
最近では職場の人にパルデアでは知らない人は居ないらしい、ネット配信で有名人のナンジャモのバズってる配信を教わっている。
彼女もジムリーダーのようだが、配信しながらバトルをする彼女は非常に目立つ。
挑戦者の強さだとかを冷静に分析できるほど分かっていないので、ナンジャモという名前のジムリーダーが同じジムリーダーのグルーシャ君と比べてどうなのかは分からないけれど。
あんなにも生き生きと自由に、派手に戦っていた彼女よりグルーシャ君は強いらしい。
いよいよ最近、どうしてグルーシャ君と自分が知り合いなのか不思議になってきたけれど、彼が居なければ自分はこの世界に来た瞬間に凍死していたのだから。
会っていなかったら死に直結していて、笑えない。

「私の命の恩人が私に託してくれたの。チルット、これからよろしくね」
「チルッ」

ふわふわの羽をぱたぱたさせて返事をしてくれたチルットの頭をそっと撫でる。
チルタリスの時も思っていたけれど、撫でるとぴこぴこと揺れるアホ毛が可愛い。

その日の週末、本来ならばオフの筈のグルーシャ君と予定を合わせる。
毎度チャンプルタウンに来てもらうのも申し訳なくて、今回の待ち合わせ場所はフリッジタウンだ。
彼のアルクジラも本来は雪山に居るポケモンなのだから、チャンプルタウンよりもフリッジタウンやナッペ山の方が気候が合う。
そらとぶタクシーを使ってフリッジタウンへと向かっている間にちらちらと降り始めた雪に、アルクジラがはしゃいでいるのを見ると、何時もその可愛らしさに気持ちが和む。

(チャンプルタウンは私の住んでた地域と遠すぎない景色だけど……フリッジタウンは、全然違うなあ。外国みたい)

沢山のロウソクが揺らめく雪深く、山に合わせて段差がある町。
こおりポケモンを使うグルーシャ君がこの町に居てもあまり違和感がない。今日の待ち合わせ場所は、フリッジタウンで有名だという隠れ家のようなカフェバーだ。

「ごめん、遅くなった」

先に席に着いてホットコーヒーを飲んでまったりと待っていると、口元まで隠しているマフラーを整えて、グルーシャ君は店内に入って来た。
目の前で「お待たせ。ぼくもコーヒーにしようかな」と呟きながら席に座るグルーシャ君を見て、ふと当たり前のことに気付かされる。
『あれ、この人有名人なのに普通にこうして会ってるんだなあ』って。
それを自覚したからといって、グルーシャ君とのやり取りも、態度も何も変わることは無いのだけど。
普通に平凡に生きてきた自分にとっては、今の現実がおとぎ話のシンデレラのように感じる。
──12時になったら魔法が解けるなんてことは、今の所なかったのだけど。

「エヴァの隣に居るそのチルット……」
「そうそう、グルーシャ君見てこの子!あれ?隠れちゃった……」
「そのチルット、おくびょうなのかてれやなのかもね。ポケモンにもそれぞれ性格があるんだよ」
「そうなんだ……人と同じなんだね。チルット大丈夫だよーこの人がチルットを私に預けてくれた、チルタリスのトレーナーさんだから」

大丈夫、となるべく優しい声で呼びかけると、チルットは「本当に?」とでも言っているかのように見上げてきて。
私が頷いたのを確認して、顔を出してテーブルに飛び上がる。
グルーシャ君に撫でられて緊張が解けたのか、羽を折り畳んでリラックスをし始めた姿にほっと一安心だ。

「よかった、グルーシャ君にも懐いてくれて」
「ポケモンの世話で分からないことあったら連絡くれていいから。アオキさんも居るけど……ぼくの方が聞きやすいだろうし」
「あはは……アオキさんもきっと聞いたら意外と普通に答えてくれるけど、業務なら。って感じで受けてくれるの見ると怯んじゃうかも」

彼がリーグの偉い人に今の自分の困っている状況を説明してくれた後に、アオキさんは定期的に確認をしに来てくれるようになった。
焼きおにぎりを勧めてくれたり、取っ付きづらい人に見えて意外と他愛もない話をしやすい不思議な人だ。
しかし実際、夢に向かってきらきらと走るこの世界の人よりも、自分が生きてきた会社等で見かける人に近かったから、勝手にアオキさんに対して親近感が湧いている。

「ポケモンのことで分からないことがあってもグルーシャ君が答えてくれるのなら、こんなに心強いことないよ」
「大げさだよ。チルットは気性も穏やかだし、そんなに手を焼くってこともないと思う」
「任せてもらった以上、最後まで、面倒を見るから!」

最後。
その言葉を特に意識して使った訳ではないけれど、グルーシャ君の目が一瞬開かれたことでハッと気づかされる。

──私は、このチルットのことを。
それだけじゃなくて色んなこの世界での縁において、何時までを最後だと思っているんだろう。
私が死ぬまで?それともこの世界から居なくなるその日まで?
無意識にその思考が、どこかであったからこの言葉が反射的に出てきてしまったんだろう。

「ごめん、深い意味ではないんだけど……」
「……ねぇエヴァ」
「は、はい!」
「勝手なこと言うんだけどさ」

これだけ親切にしてくれて、親しくしてくれて。
アルクジラだけではなく、チルットまで託してくれたのに、無意識に発言したとはいえ元の世界を帰る時を匂わせてしまうなんてグルーシャ君を怒らせてしまっただろうかと背筋が伸びる。
静かな、抑揚を抑えたグルーシャ君の喋り方が、私の方が年上なのに子供を叱る親のようだと怯えながら彼の顔を覗き見て。
今度は自分が目を丸くする番だった。


「エヴァは、居なくならないで欲しい」


──咄嗟に反応できなかった。

声が出てこなかった。
子供を叱る親どころか、見放されるのを怖がる子供のような、そんな瞳にようにみえた。

彼にとっては突然現れて、そして突然巻き込んできた不思議な人間だ。
もうあっという間に三カ月が経ったけれど、その短い付き合いの中でこうも惜しんでくれるとは思っていなかった。
……きっと私はまだどこかで、自分はこの世界にとっての異物で。
自分との縁は彼らにとって他の人と等しく感じてくれているものだと、信じ切れていなかったのかもしれない。

「……なんかごめん。サムいこと言ったけど、でも本当にそう思ってる」
「こちらこそ……グルーシャ君に気を使わせちゃって、ごめんね」
「……まあ、ちょっとでも引っかかってくれるようになったなら、いいかな」
「え?」

何故だか、グルーシャ君は少し嬉しそうだった。


──どこかに出かけて遊んだり、ウィンドウショッピングをしていた訳でもないのに、あっという間に三時間が経過していた。
何時だってグルーシャ君との時間は時が経つのが早く感じる。
陽が落ちるのが早い雪山は段々と気温が下がってきて、店を出た瞬間に拭いた風であったまっていたはずの身体が急速に冷やされて震えあがる。

「ううう寒い……チャンプルタウンとそこまでは離れてるわけじゃないのに、体感5度くらい違う気がする……」
「送ってくよ。慣れた家までの道って言っても暗くなってくるし」
「えっ、だってチャンプルタウンって遠くなるよね……?いいよいいよ、タクシーもあるから!」

グルーシャ君の家がどこにあるかは聞いたことがないけれど、ナッペ山でジムリーダーをしているのなら、このナッペ山に近い街を拠点としている筈だ。
わざわざただ変えるだけの道のりでチャンプルタウンにまで来てもらう訳にはいかないと、チルットを抱きかかえながら首を横に振ったのだが。

「別に、そんなの気にしなくていいし。ぼくも"最後"まで見送ってくだけだし」
「……」

──ああ、私グルーシャ君のことが、好きかもしれない。
今反射的にそう思った。

氷のような涼やかな表情が多いグルーシャ君がふと柔らかく微笑んで、最後まで送ると言った言葉の真意は私には分からない。
でも、何事もないように見送ろうとしてくれて目の前を歩く彼に、今ふと自然に「好きだな」と思ってしまったのだ。

そして同時にこの感情に、即座に蓋をする。

──だって、私が元の世界に帰れることが無いとはいえなくて。
もしもうこのままこの世界で生きていきたいと断言出来るようになったって。
突然、また消えることがあるかもしれない。
別に叶えたい恋ではないとしても、右も左も分からなかった私を彼は助けてくれて、その恩に仇を返すみたいな思い上がりではないかって。
親切にされて、好きになるなんて、無責任すぎる。

「エヴァ?何してるの、タクシー呼ぶけど」
「あ……は、はい!」

──帰りたくない理由を増やしてしまうのは良いことなのか、悪いことなのか。
この時の私には、答えることなんてできなかった。
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