Violetta
- ナノ -
貴方はいい子ね、エヴァ。
エヴァさんっていつも完璧で凄いね。羨ましい。

そんな言葉を受けて育った人間がどうなるかは、人それぞれだろう。
その言葉自体は褒められているのだという意味では嬉しいけれど。
その言葉を受けて抱くのは優越感ではなくて、例えるならば、崖淵に常に立たされているような気分だった。
私は"そうでなくてはいけない"だとか、"そうでなかったらがっかりされる"だとか。
決して見栄を張ろうとした訳では無いけれど、努力し続けて、綺羅星のような才の塊に少しでも手が届く自分であろうと磨いて積み上げてきたものは簡単に崩れない。

──しかし、そんな生き方に少しだけ休憩が欲しかったのも事実で。
外部研修という職場の制度を利用してアカデミーに入学した私は、本当の天才を見た。


「エヴァさん、こんばんは〜」

下校しようとした私に声をかけてくれるのは、去年まで担任だった先生、生物学のジニア先生だ。
間延びした穏やかな喋り方が特徴的で、ペンタゴンの形をした黒縁のメガネと無造作に髪が跳ねている、身嗜みは先生というよりも研究者の方が似合う人。
私よりも少し年上だと聞いたけれど、話しかけやすい印象がある人だ。

「おはようございます、ジニア先生」
「エヴァさん、この間の中間試験も点数良過ぎて色んな先生がびっくりしてましたよ〜生物学も満点とってくれたし、図鑑も使いやすいってコメントしてくれて嬉しかったです」
「ジニア先生が作ったという図鑑、見ていて楽しいですし……こんなに凄いものを開発できる先生のこと、本当に尊敬してますよ」
「ええ?そんなに褒められると、照れますねえ。でも、改善して欲しい所があったら言ってくださいね。がんばってアップデートしますので!」

のんびりと穏やかな性格で、抜けているように見えるジニア先生だが、この人は天才だと素直に尊敬出来る人だった。
このパルデアに居るトレーナーが誰しも持っている図鑑を開発してテラスタルの情報や、ポケモンが大量発生しているという情報もリアルタイムで反映してくれる優れものだ。
統計をとっているにしても、天気予報のようにその日その時間、その地域の予測をパルデア全体に行う設定を一人で作りあげたなんて信じられなかった。

「図鑑で名前検索が出来ない所だけは、素材を集めたい時に地域を確認する際に少し戸惑ったりしますが……」
「……エヴァさん」
「な、生意気なことをすみません。聞き流してもらって大丈夫ですから……」
「いえいえ〜むしろ、そういう着眼点があるのかあって勉強になります。どうしても僕が使わない機能とかは仕様が甘くなりがちなので……。エヴァさん、流石ですねえ!教師として、すごい生徒だなあって感心しちゃいます」

すごい生徒、という響きに反射的に顔が曇ってしまったのか、ジニア先生は眼鏡の奥の目を丸くして、それからにこりと微笑んだ。

「ちょっと普段どんな感じで僕が研究とか開発をしてるか、少し見て行きませんかあ」
「え……いいんですか?エンジニアの方の仕事の様子とか、社会人になってからも見る機会なかったので、楽しみです」
「ぷち職業紹介みたいな感じですねえ!」

IT関係やシステム部門は同じ会社に所属していてもその仕事をしている人達と縁が全く無かった。
普段どんな風に作業をしているんだろうと好奇心から来る疑問を抱いたこともあったから、そのエンジニアの中でも特に優秀なジニア先生の作業風景を少しでも見られるのは面白そうだ。

帰るのをやめて、ジニア先生の後をついて生物室へと足を運ぶ。
彼は普段から職員室ではなく生物室に居る人で、機材も生物室の奥の部屋にまとまっていて、校長室のようにまるでラボのようだ。
ただ、校長室と違ってメモ等が貼ってあったり、書類も束になって無造作に置かれていたりして、綺麗に整頓されている部屋とは言えなかった。
彼が普段からポケットにノートを入れたりしているように、アイデアや改善したい所など、気付いたことはメモに書き留めて居る人なのだろう。

「コーヒー出しますよお。あ、さすがにビーカーとかでは出さないので……マグカップくらいはありますよ」
「ふふ、ビーカーって言葉が出てくるなんて思いませんでした!」
「あ、でももう夜でした。すみません気遣いが足らなくて……僕が夜も作業する際にコーヒーを飲んだりするからうっかり」
「あの、本当にお気づかいなく、ジニア先生」

夜遅くまで研究だとか開発をすることもあるのに、教師という業務までしている先生のキャパシティに感嘆の溜息を零す。
生物室で寝泊まりするようなこともあるのだろうか、先生の研究室のようになっている準備室には目覚まし時計まで置かれていた。
その時計が置いてある横のモニターには、棒線グラフや散布図、それからこのパルデア地方のマップが並んでいる画面が映し出されている。

「これってもしかして図鑑に関するデータ?とかですか?」
「ええ、そうなんですよお。こうやって皆さんが集めてくれたデータを集計して、外れ値がないか、もしくは異常値がないかだとか……そういうのをチェックしていくんです。バイアスがかかってないかだとか、そういうのも……」
「?せ、専門的過ぎてジニア先生が何を言っているんだか……分からなくてごめんなさい」

生き生きと専門的な内容を語るジニア先生の話がすっと理解出来る訳でもなく、疑問符が沢山浮かぶ。
分からなかったけれど、パルデアで図鑑を使っている人の数のデータを彼が一人でチェックしながらアップデートをしているのだと思うと、目の前の人の天才ぶりに驚かされる。
勿論、天才という言葉だけで片付けるのはその人に失礼であることはわかっている。
しかし、努力だけでは手が届きそうに無いほどの輝く才を前にすると、凡人は目が眩む。
しかし、フィールドが違い過ぎて羨むのではなく、純粋な尊敬の気持ちだ。

「エヴァさんにそうやって驚いたりしてもらうと、なんだか新鮮ですねえ」
「……私、先生達やクラスメイトが思ってる程、なんでも出来るわけじゃないですよ」

反射的に出てしまった、この人は完璧だと思われることへの鬱屈とした感情。
寂しさや憤りだけではなく、本当はそうではないと訴える勇気もなく、周囲の声に応えようと癖でしてしまう自分の変わらない生き方への不甲斐なさ。
別にジニア先生が悪い訳では無いのに、否定を口にせずには居られなかった大人気なさ。

ごめんなさい──と口にしようとした時。
ジニア先生は何処まで汲み取ってくれたのだろうか、優しい口調で宥めるように、期待するように声をかけてくれたのだ。

「勿論、エヴァさんはきっと得意なことを伸ばす以外にも、まだ自分にない新たな可能性に向かって歩くためにこうしてアカデミーに来てるんでしょうから。だから、焦らず見付けていきましょうねえ」
「──」

じわりと、涙が込み上げそうになった。
更に自分を磨く自己研鑽、ではなく。
自分に無いものだとか、そういった可能性を見つけて行こうと声をかけてくれる人が居たという事実が染み込んで、浸透していく。
目線を合わせて腰を落としてにこやかに微笑んでくれる穏やかな瞳と、優しいテノールの声。

「あ、りがとうございます。また……お話聞かせてくださいジニア先生」

──この人がいるアカデミーなら、私は変われるのかもしれない。
これまでのように自ら照らすのではなく、目の前の道が照らされたような、そんな気がした。
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