日向雨
- ナノ -

ほうせき

この世界が危険に満ちているなんてことは分かっていた筈なのに。
鼻を掠める血の香りと、襲われたその瞬間が頭に焼き付いて離れない。

世界は残酷で、美しく。
そして無条理に奪っていく。
何を喪おうと、何を奪われようと。時は巡り続ける。
人の身では抗えない始まりと、終わり。
それがあるからこそ、人は生きているのだろう。


黄昏色に染まり、膚を撫でる風に冷気が感じられるようになってきた時間帯。
治療を終えたルネはギンガ団本部を出て、大きく息を吸いこむ。
あぁ、ちゃんと生きているのだと。鼓動を確認するように胸に手を当てて、自分の身体を支えてくれているゾロアークを撫でる。

「どうしよっか、ゾロアーク。シマボシさんが今日は空き家を使っていいって言ってくれたけど……」

ギンガ団とコンゴウ団。それからシンジュ団。
それぞれの派閥は、普段あまり協力関係を築いている訳ではなく、距離を置いている。
父が所属をしていたイチョウ商会に幼少期から知ってもらっている関係で比較的他の団にも顔を見せやすかったが。
人に警戒心を持ちやすいゾロアークが、コンゴウ団の団員以外の人が沢山いる環境で落ち着いて眠れるだろうかと心配になる。

──ヨネの家で寝泊まりを暫くさせてもらって、アヤシシさまの背に乗って翌日には集落に帰るという手もあるけれど。

今日一日をどうしようか悩んでいた時。
きっと、今日一番聞きたかった声が耳に届いた。

「ルネ!」
「セキさん……!?」

熱に浮かされたりすると人肌が恋しくなったり、甘えたくなるように。
怪我をして気が滅入ったせいで、セキの声が聞きたいなんて願望から幻聴まで聞こえてしまったのだろうかと焦り、周囲を見渡すけれど。
蒼い羽織を風に靡かせ、アヤシシの背から飛び降りてコトブキムラへと入ってくる長の姿があった。

──ヨネが来てくれると思っていたけれど。
まさか長であるはずのセキさん自ら来てくれるなんて。

とくとくと鼓動する音が自分の耳に届き、そんな自分を恥じらいながら、セキの元へ駆け寄ろうとするけれど、上手く足を運べなかった。
シマボシからヨネへ伝達をしたということは耳にしていたが、話を聞いたヨネがすぐにコンゴウ団の集落へと向かってくれたのだろうと察したルネは安堵の表情を見せる。

「こんな所まで来てくれてありがとう、セキさん」
「ヨネがコンゴウ団の集落まで来たもんだから、驚いたぜ……。命に別状はなくて安心したが、怪我はどうだ?……歩くの辛そうだな」

ルネの脹脛に巻かれている木綿状の布を確認したセキは目を細め、大きく息を吐いた。
集落を出た際の「行ってきます」という言葉が最期の言葉にならなくて良かったと心底思うのだ。
それも誰か、別の人間を救って命を落とすなんて。
どうして付いて行かなかったんだろうかという後悔が一生付いて回っただろう。

セキは背を曲げて屈み、ゾロアークに体重を預けて歩いていたルネの身体を背負って持ち上げた。
大人が街中で背負われるなんて。
好意を抱いている人の背に乗るなんて。
羞恥心のあまり、顔が火照る。ルネの白い肌は、分かりやすい程に色づいていたが、背負っているセキの金色の目にはその表情は映らなかった。

「セキさん、重たいから……!」
「ゾロアークも薬を使ったとはいえ、大怪我したんだろ。大人しくオレに背負われとけって。あぁ、そういえば薬も調達しとかないとな。大事に備えて薬は備蓄してあるとはいえ、足らなくなったら困るからな」
「そんな、高価な薬は……」
「こんなことで遠慮すんなっての。……男ならともかく、傷が残ったらどうするんだ」

薬を買おうとすることに躊躇するルネに、セキは溜息を吐いて視線を後ろに背負っているルネへと流す。
コンゴウ団全体の買い物はそつなくこなすのに、自分に使うと思う出費は遠慮するなんて。
謙虚で思慮深いのはルネの美徳ではあるが過小評価は良くないと常々青年が感じていることだった。

「あはは……嫁入り前なのにってこと?確かに、傷跡が深い女っていうのは……」
「オレは気にしねぇけどな」
「え?」

セキがぽろっと零した本音。
今の言葉こそ、聞き間違えだろうか。
確認しようにもするこが怖くて。
唇を震わせて声を発することが出来ないでいたルネに落ちただろう違和感にセキは敢えて何も答えず。
ギンガ団本部の横に店構えをしているイチョウ商会に顔をのぞかせた。

「よう、ギンナン。人に効く薬って取り扱ってたりするか?」
「どーも。入荷してますよ。……ルネ?その脚、怪我をしたのか」
「こ、こんにちは、ギンナンさん。大きなポケモンに襲われまして……ゾロアークに怪我させたばかりじゃなく、私も逃げられなくって」

セキの背から顔を覗かせた知り合いの姿に、ギンナンは目を丸くする。
イチョウ商会を束ねている、ルネの父と親交のあった人物。
今では所属は異なるが、ルネがコンゴウ団の代表としてイチョウ商会とやり取りを行っているのは、その縁があるからだった。
父に手を繋がれて、商人の真似をするようにリュックを背負って歩いていた幼少期から知ってくれている親戚の人のような感覚だった。

ギンナンはセキが依頼した量の薬を用意して値段を提示したのだが、その金額に違和感を抱いたのかルネは顔を覗かせて「え?」と声を上げる。

「……流石にオレにも分かるが、少し安くないか?」
「ルネとは顔見知りなので。……親父さんの話を知ってる身としては縄張りをまとめてるポケモンに襲われて怪我なんて聞いたら心配にもなる。うちも損してる訳じゃないからこれで受け取ってくれないと」
「ギンナンさん……ありがとうございます」

年齢は少し離れていたが、父と商売仲間だったというギンナンの保護者のような言葉は、胸にしみわたり、温かく溶けていく。
心配してくれる人が居るというのは財産だ。

「しかし、コンゴウ団の長が迎えに来るとはな。……あの時、コンゴウ団に託して良かったと思う」
「そう言って貰えんなら何よりだ」

──もし、自分がイチョウ商会に居たい、とあの時訴えていたらどうなっていたんだろうか。
しかし、体温を感じながらルネは海のような瞳を閉じる。この選択で、間違いなかったのだと。

薬を受け取ってギンナンと別れたセキは、人に囲まれながら覇気があまりないゾロアークに気付いてじっと見つめる。
ギンナンとのやり取りでゾロアとして保護された時のことを思い出し、今回の守り切れなかった責務を感じているのだと直ぐに判った。

「ゾロアーク、そんな落ち込むな。お前はよくやったよ。お陰でルネは生きてる」
「……!」

わしゃわしゃとゾロアークの首を覆う毛を撫でたセキに、何時もなら警戒するゾロアークが目を細めて大人しく撫でられていることにルネは瞬く。
セキさんに対しても、何時もなら本気ではないとはいえ威嚇をするのに、と。

「寧ろ、オレがその時その場に居なかったっていうのが何より不甲斐ない話だが……」
「悲鳴が聞こえていつものルートを外れて。調査隊の人が悪い訳ではないけど、その……」
「ポケモンが怖い反面、誰かが危険な目にあってると見捨てられないんだよな、ルネは」
「……!」

――本当にどうして、この人は。
責めるのでもなくて、怒るのでもなくて。私という人をきっと私以上に理解してくれているのだろう。
海のように広い心と器量で。何処までも頼りになる皆の長。
一人一人のことを見てくれていて、その背中に付いて行きたいと思いたくなるような道標。
同じ人間の中でも一際煌々と輝いて、人を惹きつけて止まない宝石のような人。
だから、皆がついて行きたいと思うのだろうし、誰も彼を縛り付けてはいけないと思うのに。

「今回の件を受けてだが、今後ルネの仕事にはオレも同伴するつもりだ」
「!?セキさんはリーダーとしての仕事があるから、そんなのだめ」
「リーダーとして各地のキャプテンの状況をこまめに確認するのは必要だろ?そのタイミングに合わせて物資を運ぶようにしたらいい」
「で、でも、それは……」

間髪入れずにセキの口から出た提案に、ルネの中で稲妻のように衝撃が落ちる。
セキさんが同伴するようになる。その言葉と事実を反芻して。噛み砕ききれずに熱ばかりが篭っていく。
この人の行動を制限してしまうような迷惑を掛けてはいけないという葛藤に答えられずにルネは閉口する。
だが、セキにとってはその反応も想定内だった。
そういう奥ゆかしく遠慮がちな部分が、心配で。

──誰かに奪われて、磨かれてしまわないかと不安になるのだと。

「オレがルネになるべくなら同伴したい。そう言っても駄目か?」

──本当に良く、判られてる。
私の葛藤を。浅ましい欲を無かったことにしようとする狡さと遠慮を。
断る理由をセキさん自ら潰してくれるのだから。