Queen of bibi
- ナノ -

赤い風船が弾ける時


思ったことは沢山あった筈だったのに、ライブを終えた彼を前にすると、言葉は弾けるように頭の中で消えていってしまった。良いライブだった、最高のパフォーマンスだった、格好よかった――そんな陳腐でありきたりな言葉じゃなくてもっと言いたいことはあった筈なのに。ライブを終えたばかりで汗を拭きながら自分に気付いて笑顔を見せる彼と、まともに目線が合わせられなかった。そしてあまりにありきたりな言葉をかけることしか出来なかった自分を、反省していた。

――司くん、格好良かったよ。

もっと、言えることはあった筈なのに。
しかし、その言葉こそ司が聞きたかった純粋な感想だったのだとは、名前自身も知る由もない。

司にお願いをされて持って来た浴衣を手に、女子用に一応用意されていた控室に入って、浴衣を着付けていた。帯の締め方はおばあちゃんに教わって来ていたものの、人にやってもらう程の出来てでは無いけれど不格好ではないだろう。鏡を見返して、自分の格好を再確認する。艶やかな花柄の浴衣に、明るい色の帯が映える。
着飾った自分はプロデューサーではなく、ごく平凡な一人の女子だった。当たり前のことだが、夢ノ咲学園に来てからは友人や仲間と居る時、あくまで演出家の一人、プロデューサーの一人と無意識に位置付けをしていたから、顔を知っている人の前で素になるのは新鮮だった。

「お祭り、私も久し振りだけど案内できるかなぁ」

少なくとも祭に来るのは二年ぶりだ。初めて祭りを堪能する司を楽しませることは出来るのか、一応花火大会が終わって盛り上がりも落ち着いてきている中だと少々不安だった。
花火大会が終わると、全ての店が閉まる訳ではないが活気と言う点では流石に花火大会前とは異なる。やはり帰り始めている人の流れがある中、今から祭を巡ろうとする人は物好きに違いないだろう。

一応、現地解散ということもあって特にKnightsのメンバーはばらばらに帰宅している。凛月は真緒と共に帰るし、何処か幸せそうな、しかしその中にも苦しさを滲ませる顔をした泉は満足げに早々に帰宅の準備を進めていた。司も本来ならば、使用人が車で迎えに来るはずなのだが、祭を楽しむ為に残る時間を作ったのだ。

夏らしい、風鈴をイメージした装飾の付いた簪で髪をまとめ上げて、手には似つかわしくないボストンバックがあるが、行きよりも大分すかすかしているのは彼らの衣装が入っていないからだろう。
持ち帰ると言ったのだが、着たものを洗濯するのは自分達でするから、と彼らが個人個人で持ち帰ったのだ。洗濯機で洗っても大丈夫かどうか正直自信は無いが、有難い申し出に頷いた。

名前が控え室を出て待合室に向かうと、私服に着替えた司の姿があった。司は浴衣を着て出て来た人の姿に気付いてそちらに視線を向けたが、浴衣姿の名前を目に留めて息を呑んだ。言葉が、出て来なかった。


「お待たせ、司くん。ごめんね、準備に手間取っちゃって。早くしないとお祭りも終わっちゃうのに……」
「……」
「司くん?」
「いえ、……その、綺麗ですよ。とても」
「あ、ありがとう」


何時もの司なら、思ったことを直ぐに口にした。それが例え自覚のない口説き文句だとしても、本人にとっては純粋な本心であって、意味については深く考えることがないのが多かった。それが司の少々鈍感とはいえ紳士らしいと言われる所以ではあったのだが、恋心を自覚している上で褒め言葉を言うとなると、無性に照れてしまうのだ。自分らしくもない。

好きな先輩ではなく、目の前に居るのは好きな女性だった。涼やかで、淑やかだが浴衣特有の色香もあり、思わず見惚れてしまう。
普段あまり見せることのない項や、浴衣の襟が抜けている感じに魅かれるのだ。触れたい――そう本能で思った時には手を伸ばしかけていた。
男性にしては細長い指先が名前の頬に触れそうになった時、司ははっと我に返って髪留めの飾りを触った。しかし突然手が伸ばされたことに動揺した名前は、目を丸くして瞬いていた。


「イメージは風鈴、ですか?綺麗ですね」
「……あ、ありがとう……」
「案内、今日はよろしくお願いしますね。はしゃいでしまうかもしれませんが、何せ初めてな分、大目に見て下さい」
「……ふふ、そんなの気にしなくていいのに。私だってはしゃぐかもしれないし」


何とか誤魔化せたと安堵し、いつも通り好奇心に胸を弾ませて笑顔に花を咲かせると、名前も釣られて笑みを零した。街の祭りに出掛けようとすると、司は名前が肩にかけているボストンバックを手に取って「これ位は私が持ちますから」とにこやかに笑うのだ。
年下の、それも先程長時間のライブを行った司に持たせるのは悪いと狼狽えたのだが、司はそれでは私の面目が立たないですと主張し、名前は申し訳なく思いながらも彼に感謝をした。

人々が駅に流れ始めているのもあって、屋台は店によってはもう閉まっている所もある。しかし、地元の人が集まっているらしい屋台もあり、賑わっていない訳ではなかった。花火大会が行われていた時のじとりとした熱気は落ち着いて、少し涼しい位の気温だった。


「流石に、屋台でも焼きそば屋さんとかフランクフルトみたいなものを売ってる所はもう鉄板を冷まし始めてるね」
「そうですね……でも、見る限り綿あめや水飴といったものは残っているみたいですね!一度食べてみたかったんです!」
「司くん、結構お菓子好きだよね。さっきも金平糖貰ってたらしいし」
「えぇ!家ではなかなか食べられませんし。あ、勿論名前さんが作って来て下さるお菓子が一番好きですよ」


屋台で見付けた綿あめを作る機械に興味津々な様子の司が食べたそうにしていたその綿あめとリンゴ飴を買おうと名前は財布を取り出そうとしたのだが、ボストンバックは司が持っている。しかし、名前が自分の財布を探そうとしていることに気付くと、司は「私が買いますから」と断りを入れてお札を店主に渡す。
一つずつ買い、名前に綿あめを差し出した。後輩に奢ってもらうというのは何だか申し訳なかったけれど、司は自分の我侭に付き合ってもらっているから、と聞かなかった。それならば厚意に甘えてしまおうと、名前は礼を述べて綿あめに噛り付き、司はリンゴ飴を頬張った。


「美味しいーこれ食べるとお祭りに来たなぁって感じするよね」
「私は初めてですが、このお祭りでしかなかなか見ることのない物を食べるのは高揚しますね。美味しいです……!」


お祭りの雰囲気を感じて一体となって楽しめている気分になるのが分かる気がすると思いながら司は頷き、舌鼓を打つ。
顔を輝かせている司に、名前は自分が食べていた綿あめを見詰め、司に差し出した。


「名前さん?」
「折角だから食べてもらいたいなぁと思って。あっ!気になるならちぎって食べてもらって……」
「いえ、頂きます」


顔を傾けた司は、差し出されていた綿あめにそのまま噛り付いた。自分から差し出したのだが、まさかそのまま食べるとは思っていなかったから口の端を舐める司の姿にかあっと顔を赤く染める。不意打ちを食らった気分で、彼に見られないように顔を逸らす。
無邪気な彼の様子にやはり深く考え過ぎだと息を吐いてぱたぱたと手で仰ぐが、名前の横顔を横目で見ながら少々照れ臭そうに、嬉しそうに微笑む司が居たのは、隣で歩いていた筈の名前にも分からなかった。

下駄を履いて浴衣を着ている名前の歩幅は何時もよりも小さく、ゆっくりとした足取りだったが司はそれに合わせて歩いていた。そして食べている時は手が塞がっていたから意識をしなかったが、近い距離なのに手が触れそうで触れないのがもどかしい。


「お祭りの定番と言えばっていう射的は流石に無いみたいだけど、金魚すくいはあそこだけやってるよ」
「金魚すくいですか、聞いたことはあります。行きましょう!」
「えっ、」


急に触れた熱に驚いて手元を見ると、それまで繋がれていなかった手が繋がれていた。司の手は自分よりも大きく、自分の手が覆われている。彼にとっては無意識のことなのだろうかと困惑しながらも、彼に手を引かれるがままに付いて行く。
それでも時折振り返って歩くのが速くは無いですかと声を掛けてくれるのが紳士的な彼らしく、その気遣いが嬉しかったけれど胸の鼓動は早くなり、伝わっていないかと心配にもなる。

提灯の明かりが点いている場所に向かって歩くと、数人が居るだけだがまだ営業をしているヨーヨー釣りと金魚すくいが隣接している屋台があった。
目的地に着いた所で自然と互いに手を離す。司としては手を繋いでいる口実が無くなったし、名前としてはやはり他の人が居る中で繋いだままというのは羞恥心を覚えるからだった。離れたからこそ、ぼんやりと意外と小さな手だったとその感触を思い出すのだが、名前に「司くん」と声をかけられて我に返る。

そして人生初めての金魚すくいを楽しむために、名前は司に持って貰っていたバックを受け取り、ポイを手に取って興味深そうに眺める司の隣にしゃがみこむ。紅く鮮やかな金魚が泳ぐたびに波紋が広がり、視覚的にもまだ蒸し暑い夏の中でも清涼感を与えてくれる。


「わっ、結構難しいですね……!?」
「金魚って掬われた瞬間逃げようとするから頑張ってね!」


司は金魚を掬おうとするが、予想以上に激しく動く金魚は水を含んだ薄い紙の上から逃れていく。それを追い掛けようとして水ごと掬おうとしたのだが、水を含み過ぎたのと、重みが加わったことで紙は破れてしまった。
司は残念そうに肩を落とすが、奮闘している姿を見ながら名前も自分がやっているような気分になって一緒に楽しんでいた。顔を見合わせて笑い、見ているだけではつまらないだろうからと提案をする。


「名前さんもどうですか?」
「多分、金魚を家に持って帰ると猫に食べられる可能性もあるんだよね」
「え、」
「うん……偶に魚見ると物欲しそうにするし」


金魚鉢で金魚なんて飼ってしまったら、気付いたら数匹減っているなんて事態になり兼ねないと苦笑する。しかし、ふと隣の屋台で行っているヨーヨー釣りに視線を移し、名前は司に声を掛ける。
こちらの方が比較的難易度は低いし、持ち帰り易く、お祭りに行ったという手土産にもなる。風船だから時間が経てばしぼんでしまうけれど数日は、色鮮やかな模様が付いたお祭り独特の屋台を楽しんだという思い出作りにはぴったりだろう。

渡された釣り糸というものは、ねじった紙の先に丸めた輪ゴムを引っ掛ける為に付いている金具だ。こちらの方が強度がありそうだと感心しながら、司は根元の方を持って、一番近くに漂って来た赤い水風船を引っ掛ける。その風船の中に入っている水もそれ程無く、軽々と持ち上げて風船を釣り上げた。


「やりました!名前さんは取れましたか?」
「今取ろうとしてたのが予想以上に重くて嫌な予感したから違うのにしようと思って……司くんが取ったその赤い風船可愛いね。私もそれにしようかな」
「でしたら、この辺りはどうですか?」
「よしっ!偶にはいい所見せないと」


浴衣の裾を押さえて、真ん中の方に漂っている司が取った赤い風船と同じものを輪ゴムに引っ掛けて釣り上げる。水面から持ち上がった所で慌ててもう片方の手でそれを取ると、一度目の風船の時に大分ダメージを受けていた紙糸が丁度、溶けてぷつんと切れた。


「良かった……危なかったー……」
「名前さんとお揃いですね!」
「あ、そういえば、そうだね」


司の取った風船が鮮やかで、人が持っているとより綺麗に見えたから同じ物を取ってしまったが、それは彼が持っているものとお揃いになるということを完全に失念していた。自分の手に収まる赤い風船を眺めながら熱い溜息を吐いた。
彼に言われてから初めて意識をしたけれど、少しいいかもなんて思ってしまった自分が、よく分からなかった。旅行などで友達とお揃いの物を記念として買うそれとは全く違うような気がしたから、尚更胸が温かくなるような感覚と燻りが理解出来なかったのだ。

時間も経って夜が深くなり、花火の煙も漸く流れ出して月明りも零れだした頃、流石に屋台も閉まり始めて、司と名前は駅に向かって歩いていた。再び手を繋ぐことは無かったけれど歩調は同じで、二人の指には同じ色の赤い風船の付いた輪ゴムがはめられていて、時々それを手で弾ませては笑いが零れる。

司は電車で帰る訳ではないけれど、一人では危ないと考えてせめて駅までは送って行きたいと考えていた。寧ろ車で送っていく事を提案したのだが、流石にそこまで迷惑をかける訳にはいかないと断られていた。
普段の登下校でさえ遠慮されるのを考えると少し予想出来たことではあるが、少々心配な点だけを抜かせば、こうして駅までの道のりを歩くことで二人で居られる時間が長くなったのは良かったのかもしれない。


「色々あって途中心配もしたけど、楽しかったなぁ。同伴させてもらってよかった」
「私達のライブだけではなく花火もあの席からは見られたでしょうから。私達も見えたことには見えたんですが、何せ後ろで打ちあがっていますので振り付けで上を向いた時にちらりと見えた位ですね。音も聞こえましたがイヤホンを付けていましたし」
「私もあんまり見てないんだよね……どんな形があったか、少ししか覚えてないかも」
「?名前さんの席からはかなり見えたと思いますが……」


それはライブにばかり集中していたということを表していて、司は成程と一人頷く。あれは、気のせいではなかったのだと。


「ライブの途中、目が合って嬉しかったです。とはいっても私は真ん中で踊っていましたし気付いて頂けましたか?」
「あ……」


――やはり、気のせいではなかったのだ。
彼は意図的に自分を見ていたのだと分かると、むず痒い気分になる。彼がプロデューサーである自分に感謝をしつつ敬意を示してくれているのは伝わる。だからこそアイドルらしいファンサービスも特別してくれたのだろうかと疑問を覚えたのだが。司はふと真剣な表情に戻ると、ぽつりと呟いた。

「あの時の私は舞台に立つidolということを忘れていました。そういう所が、未熟者なのかもしれないですが」

アイドルであることを忘れて、ファンサービスである筈のウィンクを自分にしてくれたということだろうか――つまりあれはアイドルとしてではない朱桜司本人が、無意識にしてくれたということで。

「夏休みを共に過ごせただけではなく、衣装を作ってもらった上に、本来同伴しなくてもいいのにここまで付いて来てくださってお祭りまで案内してもらえるなんて……私にとって夢のような時間です」

夜空を背にふっと表情を崩して微笑む司は年下にはとても見えなかった。よく知っている筈なのに、彼のことを四月から見てきたつもりだが、それは今まで見たことのない顔で、知らない男性のようだった。
心音がまた煩く跳ねだして、鼓動を押さえるように胸に手を持っていく。司にとっても先程のスターマインが夢のような時間だとしても、自分にとっても夢のような時間だった。


「名前さん、この司の我侭を聞いて下さってありがとうございました」


司は名前のその手を取って、ライブ以上に今日一番夢のような時間をくれたことへの礼を述べる。こんなにも幸せな気分を覚えられたのだ。例え名前が自分を後輩として見ているとしても、恋愛の対象ではないとしても、少しでも自分の行動に照れてくれた顔を見られただけで、今日は満足だった。
それはそれでもっとを望みたくなるけれど、今はこの指先から伝わる温もりと柔らかな感触だけで我慢だ。

――あぁ、そっか。

名前の中で或る一つの点と点が繋がった。
どうして彼に対してこんなにも一挙一動するようになってしまったのだろうかと疑問を覚えて、今までの自分らしくない感情の揺れ動きに困惑していた。

しかし遂に司に対する感情を、自覚してしまったのだ。
自分は既に、彼を後輩として、他のアイドル達と同じプロデュースをする人間として見ていなかったことを。