ヴァニラの純正
- ナノ -

ピーターパンの招待

とくとくと高鳴る鼓動は、簡単に人の心を乱してしまう。
熱気に当てられただけで、きっと湧き上がったこの感情は錯覚でしかないと言い聞かせたって。
オルハの顔は熱く熱を灯ったまま、ダンデの試合風景が脳裏に焼き付いてた。
眩しいその瞳。鮮烈な強者としての実力。誰よりも試合を楽しんでいるその横顔。

貴方は間違いなくガラルの人達にとっての憧れの人で、夢を体現する一等星の象徴。
きっと、それだけだったら私は今も何となくテレビ越しにその試合を眺めて『"チャンピオン"は凄い』と言っていたのだろうと分かっていた。
確かに誰もか憧れるチャンピオンである貴方だけど、ダンデという一人の青年の顔を知ってしまっている。

「ダンデ君は、凄いよ……」

帰ってソファの上でクッションを抱きしめながら、テレビでビデオに撮っていたダンデの試合を見直していたオルハはそんな風に呟いて、クッションに頭を埋める。
『ダンデ君、おめでとう!今日の試合本当に楽しかったよ。誘ってくれてありがとう。ダンデ君の試合は見ていて心が躍る感じがするの。また、見たいな』
そんな、精一杯の虚勢を張って、メッセージを返すのだ。
慰めるように頬を舐めてくれるガーディの背中を撫でて、オルハは熱を覚ますのだった。


「……そうか、オルハを誘ってみて良かったな」
「ばぎゅあ!」
「はは、オルハは本当に丁寧だよな。"また見たい"か」


インタビュー等を受け終わり、シュートスタジアムの控室でスマホロトムに入っていたメッセージを確認していたダンデは頭を掻いた。
その頬が珍しく普通の青年らしく赤くなっていることに気付いて、リザードンは目を細めて笑う。
彼女が初めて試合を生で見に来ているということを多少意識して、士気は何時もよりも高かったことは自覚している。

そう、キバナの言う通りなのだ。男として格好いい所を見せたいという感情なのだろう。
ポケモンバトルに向き合っている時は勿論"目の前の相手に勝利したい"という感情以外はそぎ落とされる。
だが、もしその戦っている姿を見ているその人が、格好いいと思って憧れてくれるのなら。今こうして胸の奥が熱くなる感覚がきっとそうなのだろう。

「何度だって……見せるのにな」

この先も、ずっと。
無敵で無敗のチャンピオンであることを自負してはいるが、何時か自分もチャレンジャーに敗れる時が遠からず必ず来る。
その時はこの王冠も、マントも。
取り外してただのトレーナーの一人に戻る未来があるだろうけれども。その先も――彼女には見てもらいたいと願ってしまうのだ。
誰かに恋をするというのはこんな感覚なのかと誰よりも遅れて経験していた。

照れ臭そうに頬を掻いたダンデは、オルハの連絡先を画面に映し出して、通話ボタンを押した。
彼女と通話する内容なんて当時は仕事の打ち合わせに関することだけだったのに。今ではすっかり変わったものだ。
何回かコールが鳴ると繋がった音がして、耳に「もしもし?」と穏やかな声が届く。


「メッセージありがとうな、オルハ」
「わっ、ダンデ君!?今大丈夫なの」
「あぁ、今終わって帰る所だからな。今日は来てくれてサンキューだぜ」


ダンデから掛かってきた電話に慌てたオルハはわたわたとスマホロトムを手に取り、何故かソファの上で正座しながら通話を始める。


「こちらこそ、行く機会をくれてありがとう。テレビ越しと生じゃ全然違うね」
「確かにあの臨場感と熱気は会場特有のものだからな」
「ダンデ君の試合、本当に凄くて……」


――本当に、格好よくて。
ただの憧れだけの感情ではないと気付いてしまった私は、身の程知らずで。
純粋に楽しんでもらいたいと呼んでくれたダンデ君の厚意を裏切るようで。


「……なぁ、オルハ。今から君の家の方に行っても大丈夫か?」
「……、えっ」
「直接会ってお礼が言いたくてな!」


ダンデの突然の申し出に、オルハはぱちぱちと瞬いて自分の格好を見る。部屋着に戻っていて、完全にリラックスした状態だ。
それに、ダンデが誘ってくれて行かせてもらったのに彼の足を運ばせる訳にはいかないと慌てかけたが、ダンデは「俺はまだホテルにも帰ってないから帰り道なんだぜ」と笑って、気にするなと声をかける。
あまりにも純粋な厚意に拒絶するのも申し訳なくなり、オルハは自宅の位置を何となく口頭で伝えてマップを画像で渡すと言って通話は切れてしまったのだが。

「……、ダンデ君、迷わないかな」

彼の重度の迷子癖を考えると、教えても辿り着かないのではないかと思いながらも、一応私服にまた着替えてしまっている辺り、会いたいと思っている自分が居るのかもしれないが。

オルハはアパルトメントの2階の窓からぼんやりと外を眺める。幾ら観光客が多いシュートシティとは言っても、住宅街の方は人も疎らになる。
今更ながら、家の近くに来てもらうよりも、チャンピオンだから目立つとはいえ、分かり易い目印がある近くで集合した方がよかったのではないかとも思いつつ、高鳴る胸の鼓動にオルハは気恥ずかしそうに顔を覆う。
会えるまでの時間をこんなにも楽しみにしている時点で――会場で気付いてしまった感情は嘘ではないと証明しているようなものなのに。

暫くすると、アパルトメントの前の通りを走って来る非常に目立つ人影に「あっ」と声を上げた。
リザードンも居るから非常に目立つけれど、夕食を取っている人も多い時間帯ということもあり、他の人は歩いていなかった。


「オルハ!」
「ほ、本当に来た……!迷わなかった?」
「スタジアム職員に真っ直ぐ行って、ポストが見えてきたらその道を曲がった先だと簡単に教えて貰ったからな。あとはリザードンが案内してくれたが」


ダンデは顔を上げて、二階のベランダから自分の姿を発見したオルハに挨拶を交わす。
リザードンも嬉しそうに小さく吠えて、くしゃりと笑った。
この人は、先ほどまでガラル中の人達が注目して見ていた人なのだと思うと、不思議な感覚だった。
そして、広告担当としてダンデの担当をもう四年任せられている身とは言っても、どうして自分はこんな風に普通に話せているのだろうかと今更ながら疑問を覚えてしまう。


「楽しんでくれたみたいで良かったぜ。誘ってみて良かったな」
「うう、ん。また行きたいな。流石に職権乱用するのも良くないから、チケット頑張って取るね」


――それは一般のファンの一人であるのだという自分への言い聞かせだ。

鋭い訳ではないダンデとは言えども、オルハが敢えて取ろうとしたその距離感を感じ取ったのだろう。
一瞬目を伏せたが、力強い光を灯した瞳でオルハを真っ直ぐと見上げて、手を伸ばす。


「今日俺の試合を見に来てくれたお礼と普段お世話になっているお礼も兼ねて、少しいい景色を見てもらいたいんだが、いいか?」


ダンデはリザードンの背に乗り、オルハが覗き込んでいる二階まで飛び上がる。そしてダンデが伸ばしてくる手に、オルハは目を瞬かせた。

(これは、夢なのかな)

ベランダの柵を越えて外に出るなんて。一体なんのおとぎ話なんだろう。
ピーターパンに誘われて、ネバーランドへと向かう少女のようで。もうそんな歳でも無いなんて分かっているのに。
ダンデの少年のような純粋な好奇心と、夢への行動力。ただ、根本的に彼は何処までも器の大きい大人として出来た人間だ。
そんな二つの顔を持つダンデという青年に自分もまた惹かれているのだろう。

ガーディに留守番を頼み、躊躇いながらも手を伸ばすと、逞しい腕で身体を持ち上げられてベランダの中に翼を畳んで降りてきたリザードンの背に乗せられる。
リザードンが大きく地面を蹴って飛び上がって翼を羽ばたかせると、2階にあったはずのアパートの自室は見る見るうちに小さくなっていく。

「わあ……!」

シュートシティの煌びやかなネオン、観覧車のライト、スタジアムのライトが暗い空を明るく照らしている光景は美しかった。
自分の住んでいる街を俯瞰して見たことなんて一度も無かった。
せいぜい乗ったことがあるとしてもアーマーガアタクシー位だが、早々に街は後方になって景色を楽しむ間もなく雪山を超えていくからだ。
ポケモンに乗って空を飛ぶ感覚に落ちたらどうしようなんて少しの恐怖心はあったが、ダンデが「慣れていないなら掴まってくれ」と声を掛けてくれて、オルハは申し訳なく思いながらも彼の背中に掴まる。

――誰もが憧れるガラルチャンピオン。友人ではあるけれど、こんな贅沢な体験をさせてもらっていいんだろうか。
何だか罰が当たりそうだと思うと、少しだけ手が震える。


「なぁ、オルハ。……俺の試合を見に来たいっていうなら」


ダンデは振り返って、笑う。
きっとこんな表情を見せたのは君が初めてだろうと思いながら。


「何時だって、何度だって用意するさ」


――ねぇ、ダンデ君。貴方は優し過ぎるよ。