ヴァニラの純正
- ナノ -

着色を待った春

「オルハさん明日チャンピオンの試合見に行くんですか!いいなぁ」
「ふふ、私もすごく楽しみで。担当だったけど今まで行かなかったっていうのもね」


そんな金曜の行後の会話を思い出しながら、オルハは子供のようにわくわくとして心を抑えきれない様子で外出の準備を行っていた。
チャンピオンダンデの試合は、それだけ多くの人を惹きつける魅力と熱があったのだ。
今まで何度か行けるチャンスがあったものの、仕事を優先していくことが出来なかったオルハにとって、画面越しではなく初めて生で見られる彼の試合なのだ。
ダンデの試合はそもそもチケットが取れないことで有名だ。それだけ彼の試合を一目でもいいから生で見たいと思う者も多い。
それを考えるとどうしても関係者席とはいえ、ポケモンバトルを見るのは好きだが、詳しい訳ではない自分が行くのは憚られたという理由で足を運ぶことが出来なかったのも大きな要因だ。


「サイトウ選手とのエキシビションマッチかぁ。この子も、オニオン君もだけど、こんなに若いのに凄いなぁ」


今日の試合の情報を見ながら、足元に居るガーディを抱き上げる。
チャンピオンの試合がある時は、何時も朝からシュートシティ全体が熱狂に包まれている。
何せ、ガラルチャンピオンの強さはガラル中だけではなく、国外にも知れ渡っている。観光として他の地方から来る人々も多いのだ。
試合がある日ダンデは一体どのような気持ちで向き合っているのかは、素人には分かりかねる。
明日の試合に向けて集中力を高めているだろうから、声をかけたら迷惑だろうかと悩んだ末に、オルハは昨日メッセージを打っていた。

『ダンデ君、明日の試合、ダンデ君らしい楽しい試合を楽しみにしてるね。返信は不要です。』

そのメッセージに返信は無かったけれど、ダンデがしっかりとそのメッセージを見た上で、嬉しそうに微笑んでいたのだが。
――それを当然オルハが知る訳もない。



「本当に凄く人が居る……!すごいね、ガーディ!」
「ワフッ」


観光で有名なシュートシティは常に多くの人で賑わっているけれど、試合がある日の盛り上がりはまた異なる。そんな街に暮らしてもう暫く経つが、その空気感が非常に好きだった。
シュートスタジアムに足を踏み入れると、スタジアム周辺は屋台が沢山出ており、チャンピオンのグッズ等実に多くの物が売っている。
老若男女問わずに買っていく様子を見ながら、部門が違うとはいえ、広告とは別にグッズ展開も凄いと感心しながらスタジアム内に入って行く。
こんなにも大きなスタジアムのチケットが即日完売だったことは、それだけダンデがこのガラルにおいて圧倒的な人気を誇っている証拠だった。

チケットに書いてある番号の席へと向かい、緊張した面持ちでオルハは席に着いた。
別に自分がバトルをするわけではないというのに、どうしてこんなにも緊張しているのだろうかと恥ずかしくなる。

「知ってはいたけど……本当に、ダンデ君って凄いなぁ」

そんな人と友人であるという事実がむず痒くもあり、誇らしくもある。
そして、この人のこの最高の舞台を色んな人に知らせてプロモーションをするための仕事が出来ているのか思うと、嬉しくあるのだ。

ざわざわと騒がしかったスタジアムにアナウンスが入り、観客は固唾を呑んで選手の入場を待つ。
両手を握り締めて、挑戦者であるサイトウ選手がフィールドに入って来るのを見守る。

「チャンピオンダンデに挑むのは、ラテラルジムのジムリーダー、サイトウだ!」

彼女の姿が見えると、観客は立ち上がって拍手をする。
無敵で無敗のダンデをサイトウが破ってほしいと思う者や、ずっと勝ち続けて欲しいと願うものなど。
このスタジアムに居るファンたちの想いはそれぞれだ。
それでも、お互いがすべてを出し切る試合を純粋に見たいという想いがそこにはあった。

そして、反対側から現れた人物に、オルハは息を呑む。
スポンサーのロゴが沢山入ったマントを翻して現れたのは、九年間誰にも敗れずにチャンピオンの座を守り抜いているガラルチャンピオン・ダンデの姿だ。
その金色の瞳に覗く子供のような好奇心と共存する、静かに燃え上がる闘志。
会場中に手を振ってパフォーマンスをするダンデは純粋に格好いいという感想が浮かぶのだ。大人も子供も、皆が彼に注目している。


「チャンピオン、ダンデの入場だ――!」


歓声が沸き上がり、皆がダンデを迎え入れる。
その様子を呆然と眺めながら、オルハも拍手をしていた。よく知っている筈の人なのに。よくこの試合をテレビで見て来た筈なのに。
全く見たことのない世界に迷い込んだような感覚だった。
どれだけダンデという一人のトレーナーが、多くの人々の夢という象徴になっているかを実感せずにはいられないのだ。

「待たせたな、皆。さぁ、楽しい試合をしようじゃないか!」

フィールドに立ったダンデはマントを外し、彼の無二のパートナーであるリザードンをモンスターボールからフィールドに出す。
チャレンジャーという立場であるサイトウが出したパートナーはカイリキーだ。
ひこうタイプのポケモンには不利ではあるが、彼女たちの練度は非常に高く、相性の悪いポケモンで挑んでくるチャレンジャーの数々を返り討ちにしてきたようなジムリーダーだ。

カイリキーとリザードンのバトルが始まり、フィールドでは洗練された技の出し合いとなる。
リザードンが空中戦を展開する中、カイリキーはリザードンの素早い動きを見極めて、拳で動きを止める。
不利とは言えども、リザードンにダメージを与えていくサイトウの指示に、観客は沸き立つ。
ダメージを受け流すように宙で身を捻ったリザードンは、ちらりとダンデを一瞬見て頷いた。リザードンと

「さぁ、チャンピオンタイムだ!」

ダンデがその決め台詞を言ったと同時に、観客はダンデに注目する。
リザードンは羽ばたき、カイリキーのパンチを手で受け止めたと同時に、口を開けて焔の塊を吐き出した。
カイリキーは間一髪で飛び下がって避けたが、リザードンは旋回をしてカイリキーの足元を尻尾で払った。

「そこだリザードン、かえんほうしゃだ!」

体勢を崩したサイトウのカイリキーにリザードンのかえんほうしゃが炸裂する。
受け身も取れずにかえんほうしゃが直撃し、サイトウは「カイリキー!」と声を張り上げて叫んだのだが、堪えて持ち堪えようとしたカイリキーはふっと意識が途切れて、身体はゆっくりと落ちていく。

『勝者、チャンピオンダンデ――!』という審判の声と共に、スタジアムごと揺らすような歓声が沸き上がる。

ダンデは相手を讃えてサイトウと握手を交わし、観客に向けてリザードンポーズを見せる。それだけで観客はさらに沸き立つのだ。
フィールドに向かって手を振りながら退場しようとするダンデを見て、オルハは立ち上がれなかった。

何て、凄い人なんだろう。
何て、眩しい人なんだろう。


「あ――」


別に自分と目が合ったわけではない。
彼は観客一人一人を見ている訳ではなく、スタジアム全体を見ていただけだから、目が合ったように感じるのは錯覚以外の何物でもない。
ダンデという男は常に自分のパートナーと相手しか見ていない。相手に全力で向き合うという王者としての、トレーナーとしての敬意。
しかし、勝利を喜ぶ彼の表情は何となく、テレビで何時も見ている姿とは異なっているような気がしてならなかった。

どうしよう。

どくどくと高鳴る鼓動にオルハは口元を覆う。
この感情はきっと。憧れでも、尊敬でもないもっと別のものだ。


「ガウッ」
「ガーディ、私、どうしよう……」


膝の上に乗って心配そうに見上げるガーディに、オルハは顔を俯かせながらガーディの背中をそっと撫でる。
俯いたその顔は赤く染まっていた。
熱狂の渦の中、別の熱が灯る気配を感じながら、試合の光景を目に焼き付けるのだった。