ヴァニラの純正
- ナノ -

恋と上澄み

――昨日のオルハとの出来事を思い返しながら、ナックルシティへと戻って来てトレーニングをしていたダンデは、休憩をするために休憩室に足を運んだ。
偶然同じ施設を使っていたキバナは汗を拭いながら、休憩しているダンデに手をひらひらと振った。

ライバルという関係の二人だが、何も親しくない訳ではない。
むしろ、友人だと言える間柄だろうと互いに思っている所はあった。強者同士にしか理解できない領域というものがあるように。
初めは今度行われる大会の話をしていたが、段々と話は別の話題へと逸れていく。
ダンデが「今少し悩んでいることがあるんだが」と切り出した瞬間、キバナは目を丸くしてその話に食いつく。

常に迷いの無さそうな、目標を次から次へと立てて一直線に走っていくような男が悩んでいることはなんだろうと。


「……なあキバナ、どうしてもオレの試合を見に来て欲しい人が居るんだが、どう言えば来てくれるようになると思う?」
「ガラルの人間が憧れるチャンピオンのダンデがそんな風に言うなんて珍しいな。弟とかか?」
「いや、オレの担当をしてくれているリーグの広報なんだが……」


ダンデが零した予想外の人間に、キバナはがくっと肩を落とした。
リーグ広報でダンデの担当をしているならせめて見に来るくらいはしないか、というキバナの純粋な問いに対して、ダンデは首を横に振りながら「どうやらオレが勝った直後のプロモーションを打ち出したり、同僚のフォロー等もしているらしくてその仕事を手伝っていると、彼女は試合の日もオフィスから出られないことも多いらしくてな」と返す。
そんな状況があるのなら仕方がないのではないか――と言葉に出しかけたキバナだったが、今のダンデの言葉にある一点だけ引っ掛かった所があって、首を捻る。
てっきりダンデの広報担当なんて自分と同じ男性が担当していると思い込んでいたが、女性なのか、と。


「ダンデの担当は女子なのか」
「ん?あぁ、オルハっていってな。四年オレの担当をしてくれてるんだぜ」
「何だそれ、まるでポケモンに対して全神経が集中してるオマエが男として格好いい所を見せたいみたいな――」
「……」


キバナの言葉に、ダンデは目を丸くしたまま微動だにしなかった。

「えっ」

――まさか、本当にそうなのか。
ポケモンに関わることにしか関心も気力も注がれていないのではないかという、ダンデが。

まさか"恋"をしているのかとキバナは口にしかけたが、ダンデは「エンターテイナーである以上、格好よく決めるなんてことは常に意識しているぜ」と笑った。
響いていない所を見ると、ダンデに恋の話をするのはやはり早かったかとキバナは笑った。
表情だけではダンデが動揺している様子が分からない以上、それ以上掘り下げるのも無駄かとキバナは話をそれ以上広げなかったのだが。

飲み物を取りに行く為に少し席を外したダンデは、閉まった扉に寄りかかり、静かな廊下で息を一つ吐く。
その顔は、奥歯を噛みしめるようで。

ぐっと口元を隠すように拭ったのだ。



「ダンデ君。聞いてますか?」
「あ、あぁ。勿論だぜ」
「やっぱり多忙だから疲れてない……?チャンピオンだから負担は凄いだろうし、今も一応仕事の打ち合わせだし……」
「オルハに気を遣わせてしまって悪いな。……こんな不甲斐ない姿でフィールドに立つわけにはいかないな」


オルハと打ち合わせを行う日、明らかに少しぼうっとしている様子のダンデにオルハは心配になった。
チャンピオンであるダンデは常に多忙ではあるが、それでも何事にも全力で取り組むダンデの集中力が少し切れているなんて、相当疲れているのではないかと考えるのも当然だろう。
それに、彼にとっては肩を張ることは無いにしてもこの打ち合わせも仕事の一つだ。

仕事とはいえ、負担になってしまっていることを申し訳なく思いつつ、『チャンピオンとしての姿を皆に見せる以上、常にエンターテイナーでなければ』とダンデは笑った。
そんなダンデのオルハは感心すると同時に、別の意味で少しだけ心配になったのだ。

「人に言われなくてももう知っているとは思いますが……ダンデ君は、本当に沢山の人を幸せにしているんですよ」

予期せぬオルハの言葉に、ダンデは言葉を詰まらせた。


本当に、そうだろうか。

ダンデは自分ではそう言うことは出来なかった。
多くの子供や同じトレーナーの目標や憧れになっているのはそうだろう。
だが、同時に彼らの"チャンピオンになりたい"という夢を摘み取って来たのは自分だ。圧倒的な実力を前に、ライバルのキバナでさえ負かし続けてきたのだ。
ガラル中のトレーナーが強くなることを夢にして、目標として君臨し続けても、同時に彼らを絶望もさせて来たのかもしれない。
何度も、何度も何度も。もう数えきれない程何度も、九年もの長い間。

だが、無垢にそんな綺麗ごとを語るほど、オルハは人の心に鈍感ではなかった。
ダンデのことを尊敬しながらも、彼を神格化はしていなかった。
それは仕事上の付き合いで知り合ったとはいえ、ダンデが少年から青年と呼べる歳に変わった頃からの付き合いであったから彼を一人の人として見ていたからだろう。


「勿論、憧れるトレーナーも居れば、妬むトレーナーも居ると思うし、私にはその方たちの気持ちを本当に理解してあげられることは出来ないけど」


同じ土俵にそもそもたっていないのだから、彼らの心を汲み取って語るなんて、そもそもおこがましくて。
己の実力がすべて結果に跳ね返って来る勝負の世界で生きている人達とは違い、どこまでも素朴な人間だ。


「でも、その上で言います。ダンデ君は誰よりも人に夢や憧れを与えて、ガラル中に誰よりも人に楽しい夢を与えているって」
「……」


そこには世辞も謙遜も、綺麗ごともなかった。オルハという人間がダンデを見て、抱いた思いだった。
君という存在が居てくれてよかったと。本能的にそう思わずには居られなかった。
そしてキバナの言葉をぼんやりと思い出すのだ。『男として格好いい所を見せたい』。
あぁ、それはきっとこの九年にして初めての感情なのだろう。

この女性に、特別に幸せを与えられることが出来たら――そんな風に考える自分を客観視して、ダンデはこの感情の名前に気が付く。

それは名づけるのなら、初恋というものだったのだろう。