ヴァニラの純正
- ナノ -

採光の日々

最近、時々考えてしまうことがある。
もしも自分があの時に、ダンデ君の担当になっていなかったら今頃彼はきっと、テレビ越しに見るスターで、遠い遠い象徴のような人になっていたのだろうと。
未だに彼にとって友人という立場であるに対して、時々非現実的なことのように感じることはあるけれど。
それでもこんな風にやり取りをして、チャンピオンとしてではなく、ダンデという青年としての一面を見られているのは間違いなく担当になった縁があったからだと考えると、"偶々ダンデと同じ年齢位で抜擢された"という幸運に感謝せずにはいられない。
別に当時、まだ少女と呼べる年齢だった自分には全くキャリアなんて無かった。
本当に、偶然話し易いだろうという理由で椅子を用意されただけの、重責と共にチャンピオンのプロモーションを任されたという運のいい少女だったのだ。

(当時のもし違う上司だったらそういう判断はしなかったかもしれないし、今を思うと感謝が尽きないよね……)

オルハは当時の自分がポケモンリーグのシュートシティ支部のプロモーションを仕事にして働き始めた頃の写真を飾ってあるコルクボードをぼんやりと眺めてふっと微笑む。
昔の写真を見ていることに気付いたガーディが不思議そうに首を傾げて顔を上げたことに気付き、彼の温かな頭をそっと撫でた。
ポケモンバトルに凄く詳しかったわけではないけれど観戦は好きだった自分が、"興味のない人にもどうしたら魅力や熱意を伝えられるだろう"と考えて仕事にのめり込んでいった。

――今日まで、仕事の半分くらいはダンデ君と二人三脚のような感じで。



「ふふ、だから、私は今の仕事が当時よりももっと好きなんだろうなぁ」

責任は確かに大きかったけれど、それ以上のやり甲斐と熱量がそこにはあったのだ。
今回の十周年こそはダンデ本人の申し出によって担当できることになったが、これに区切りがつけばきっと、次の担当者が決まるのだろう。
それまでの間は全力で。ガラルの最強のチャンピオン・ダンデをガラル中、そして他の地方にも伝えられるように懸命に後押しをしていくつもりだった。
オフィスで働くオルハは案を資料にまとめていきながら、大変なことは多いけれど、それ以上に何かをポロモーションするという広告の仕事が好きなのだろうと実感する。


「オルハさん、十周年のプロモーション進んでいますか?」
「うん、一応ね。ダンデ君の要望は聞いたけど、ローズ委員長とかオリーヴさんの意見も取り入れつつだから、今案を何個か絞ってる所」
「すごいなぁ。よくそんなガラル中の人が注目するチャンピオンのプロモーションとか長い間出来てるなって思うんですよ」
「え?」


苦い顔をして首を横に振った仕事の良く出来る気立てのいい後輩からの言葉尻から「俺には無理です」と言いたそうな気配を感じて、オルハは首を傾げる。
彼ならそういった大きな案件も臆さず出来そうだし、責任感も強いのに。


「だって、チャンピオンですよ?特にダンデさんとなると、何ていうか、向こうが大き過ぎてその勢いだとか雰囲気に飲まれそうで」
「えぇ?意外……そんなこと気にしないと思ってた。それに、ダンデ君良い人だよ?親身に聞いてくれるし。ちょっと何でも依頼オーケーしそうな所は私が心配になるけど」
「そんな風にチャンピオンと砕けてるって所が凄いんですよ。聞いてると仕事相手って雰囲気と違うというか」
「それは……確かにそうかな?」


数年間は相手が同世代とは言えども、相手がチャンピオンということに気を遣って緊張をしていた。だが、今では個別に連絡を取り合うこともあることを考えると、確かに彼の言う通り"砕けた仲"という部類になるのだろう。
この仕事の後に、現にダンデと会う約束をしている以上、その事を今更否定はしなかった。
どうして金曜日にシュートスタジアムへの集合なのだろうかだとか。
飲みに行くという場所にしては不思議だと思いつつも、ダンデの迷子癖を考えるとこの街で一番行き慣れているだろう場所なら彼も迷うことは無いのだろうとオルハは理解していた。
大通りを進み、遠くからでも見えるはずのシュートスタジアムでも迷うことはあるらしいという話は聞いたことがあったからだ。
しかし少しだけ、何時もよりも心なしかお洒落をして。

ぼうっとしてしまう自分自身を律するように、コーヒーをタンブラーに淹れに行く。
鼻を掠めるコーヒー独特の芳醇な香りはリラックスすると共に、スイッチを切り替えてくれる起爆剤のようだ。デスクワークをしている時間帯は余程忙しくなければどうしても眠気は過るもので。
ぐびっと勢いよく喉に流し込んだオルハは、気合を入れる為にオフィスに戻る前に頬をぱんと叩く。

「よし……!」

この後頑張るための自分なりの切り替え方。
だったはずなのだが、頭に何かが過って、何が引っ掛かっているのだろうかと首を傾げる。今の気合の入れ方――最近、どこかで見たような。

悶々と考えながら廊下を歩いてデスクに戻ろうとしていたオルハは、その答えに気付いた瞬間に頬を染めて口をぱくぱくと開いた。
無意識のうちに何て恥ずかしい真似をしていたのだろうと気付いてしまったからだ。
この間、初めて生で見たダンデの試合で、彼がボールを投げる前に気合を入れる為に頬を叩いていたのだ。大一番の真剣な試合の時に出る彼の癖なんだとは何となく認識していたが、一方的に好きな人の癖が移っていたなんて恥ずかしいにも程がある。

「じ、自覚する前に何回か人前で無意識にやってないよね……?」

尊敬から変わったこの恋心は、誰にも明かさないつもりなのに。
自分からぼろを出しかねない詰めの甘さにがっくりと肩を落とすのだ。


――時刻は18時半。定時を超えた時間になり、オルハは申し訳なさそうにダンデに「今からシュートスタジアムに向かいます!」とばたばたロッカーで準備をして、連絡を入れる。
オフィスを出る時に通知恩と共に「急がなくていいぜ」なんて返って来るものだから申し訳なさのあまりに、ヒールではあるけれど、心なしか小走りになる。
何せ、ダンデが常に自由な時間があまり無い位には忙しい人であることなんて、勿論オルハも知っていた。忙しい時間の合間を縫って、恐らくシュートシティに来てくれている筈なのに。
ヒールということもあって、早歩き位の速さでしか走れていないせいか、前を走るガーディが先を行っては立ち止まってオルハが追い付くのを待っていてくれている。

オフィスを出る前は夕暮れから夜に差し掛かった色合いだった空は、すっかり星々が瞬く空に変わっている。
まるでリザードンの背中に乗せさせてもらったあの日のような空だった。ネオンが星のように様々な色に輝く光景を眺めた夢のようなお伽話の絵本の1ページのような日。
オルハはそのページを綺麗に、額縁に入れて胸の内に飾っていた。叶える為の恋なのではなく、想うだけで満足という恋。

(ダンデ君が困った顔をするのが分かってるから……それを見るのが怖いっていうのもあるけど)

シュートスタジアムが見えてきたけれど、試合がないせいもあってか明かりこそは点いているようだが、スタジアム周辺に人気は無かった。
この場所を指定してきた辺り、分かり易い場所に居るのだろうかと思って辺りを見渡してみるけれど、ダンデの姿も、ダンデ以上に夜の景色には目立つリザードンの炎の光も見つからなかった。
スタジアム入り口に入って行くガーディの後を追って、オルハもスタジアムの中に入ったけれど、やはり周辺以上に人はいない。


「流石に今日のシュートスタジアムは何も試合がないから人が居ない、ね」
「どうされましたか?」
「あっ、あの、今日ダンデ君……チャンピオンってこのスタジアムに来ていませんか?」
「チャンピオンにご用事でしたか!バトルフィールドの方に居るから、自分を訪ねて来る方は案内して欲しいと言われていたんですよ」


受付に事前にダンデは声をかけていたのだろう。
しかし、絶対に迷わない待ち合わせ場所にするためにシュートスタジアムを選んだと言う訳ではないのだろうかという疑問が残るが。
スタジアムを使って模擬試合を行ったり、トレーニングをするのはジムリーダーも日常茶飯事のことであるという話は何かのインタビューで聞いたことがあるから、ダンデもチャンピオンという立場である以上、トレーニングを行うものなのだろう。
スタジアムに直接観客としてきたのは担当と言えどもこの間が初めてだったけれど、"ダンデを訪ねてくる人は案内して欲しい"という案内があったおかげで、歩いていても不振に思われずにバトルフィールドまでの道を教えてもらえた。
普段は関係者以外は入れない筈のスタジアム内部の選手用の控室を通る申し訳なさに、地面を歩いていたガーディを思わず抱き締めてしまう。

「ダンデ君達って……知ってたけど、ポケモントレーナー、なんだなぁ……」

人が居ない廊下だけれど、緊張感を感じる。勝負の世界で生きる彼らにとって、勝つか負けるかが全てで。
大勢の観客の前に出て行くまでのこの道のりを考えると、想像するだけでもプレッシャーの大きさが並大抵の物ではない。
その頂点に立つ、ありとあらゆるトレーナーにとっての目標になっているダンデが背負う重責は一般人には想像し難い。期待も、重圧も、嫉妬も。全てを背負ってなお彼は笑ってバトルフィールドに立つのだ。
オルハは以前、ダンデに言った言葉を思い出したが、今もその気持ちは変わらなかった。

――ダンデ君は誰よりも人に夢や憧れを与えて、ガラル中に誰よりも人に楽しい夢を与えている。
その事実に、変わりはないのだと。


普段職員と出場するトレーナーしか利用しない控室をびくびくしながら通り抜けて、フィールドへと出ると、スポットライトは付いている明るいバトルフィールドの中に、彼の姿はあった。
控室チャンピオンのマントを靡かせて、バトルをする時に輝かせるその瞳を相棒に向けて、リザードンに技の指示を行っていると言う訳ではなく。
ぼんやりと空を見上げながら、センターラインに彼は居たのだ。自分がもう直ぐ行くと言っていたから、トレーニングを中断して待ってくれていたのだろうかと冷や汗が流れる。
罪悪感に顔を引きつらせているオルハとは対照的に、普段ならば降り立てることもないバトルフィールドに興奮しているのか、オルハの腕をすり抜けて、フィールドを駆けまわっている。


「はは、ガーディもやっぱりフィールドには気分も高揚するか。ここまで来させて悪かったな、オルハ」
「こんばんは、お待たせダンデ君。……もしかして、トレーニングの邪魔だったかな」
「いや、そういう訳じゃないから気にしないでくれ。流石に何時間か前にトレーニングは終えてるさ」
「終業時間まで待ってくれてごめんね……」


何処までも謙虚に申し訳なさそうに謝るオルハに、気を遣い過ぎだから気にする必要などないのだと、ダンデは朗らかな笑顔でオルハを慰める。


――何せ今日、このシュートスタジアムのバトルフィールドに呼んだのは自分の為以外に他ならなかった。
この場所で自分は九年前に先代であるチャンピオンのマスタードに勝ち、最年少の年齢でガラルチャンピオンとなった。いわば、今のガラルチャンピオン・ダンデが始まった場所だ。
しかし、自分の英雄としての道が始まった場所だから彼女に告白をするならここ以外にあり得ないと思ったわけではないのだ。

(始まった場所でもあるし……俺がいつか、俺の夢でもある育ったガラルのトレーナーに負けて、チャンピオンの冠を下ろす時が来るなら、同じようにこの場所だからな)

チャンピオンという肩書が無くなったとしても。
隣に居て欲しいと願わずにはいられない君だからこそ。ダンデは今日この場所に、オルハを呼び出したのだ。


「君を今日呼んだのには理由があるんだ」


ポケモントレーナーとしての夢に一直線で、言い方を変えるのならそれに対して全ての興味関心が向いていたダンデという男が五年という月日を経て漸く自覚出来た初恋。
バトルフィールドに立って試合を前にする時は緊張以上に、その高揚感と、繰り広げられるだろう熱戦を想像して楽しみだと逸る感情が収まらない。
しかし、自覚している以上に鼓動が速くなっている。彼女に自分の好意を伝えるということに、緊張しているのだ。

自分のことながら、他人事のように『普通の人と同じ感覚があったのか』と自覚する。
それだけ、燃えるような、しかし澄んだ水のような恋心だったのだ。


「オルハ、君が好きだ」
「……、え……」


何と言って告白しようか。そんなことを考えはしたけれど、ダンデが導き出した答えは実にシンプルだった。
口に出して、また再確認をする。彼女のことが好きなのだと。


「君がよかったら……俺と。付き合って欲しい」


――今。私は夢を見ているのだろうか。

あの日の、絵本の一ページのような出来事の続きを見たくないと願っていた訳ではない。
それでも、それはあり得ない事なのだからと、自分の心のギャラリーの一部として、絵画のように飾って終わろうとしていたのだ。

ダンデ君が伸ばしてくれる手は、あの日のように大きくて。真っ直ぐと自分に向けられていて。
震える手を重ねると、温かな体温が伝わる。
「あ、の」と振り絞った声は情けない位に震えて、声を出した瞬間に塞き止めていた涙がほろほろと目尻から零れて流れていく。
突然泣き出すなんて、ダンデ君を困らせてしまうだけなのにと分かっていても、戸惑いと嬉しいという感情が掻き混ぜられて、潤んだ瞳からは、流れ落ちていく。

ごめんなさい、嫌じゃないの。本当は嬉しいのに。
大人なのにみっともなく人前で泣いて、声を震わせるなんて。
けれど、ダンデ君はその大きな手でそっと手を優しく握ってくれる。こんなに温かくて眩しい人の隣に私が居ることを、赦してくれるんだろうか。

バトルフィールドを駆けまわっていたガーディも自分が泣いている様子に気が付いて、彼女の足元にそっと寄り添うように優しく顔を擦り付けてくれる。
それは慰めるようにではなく、何となく「安心して、頑張って」と励ましてくれているようだった。

「ダンデ君、私と……お付き合い、してください」

振り絞るように、涙を拭って、はにかむような笑顔で伝えたオルハの答えは、ダンデの感情を揺さぶった。
断られる可能性だってかなりあった。自分はあまりにも有名人だった。それが故に、価値観が違うから一緒には居られないと言われてもおかしくはなかった。
あくまでも仕事上の付き合いであり、ただの友人だから、恋人としての関係は望んでないだとか。そんな答えが返って来る可能性も勿論考えていた。

だから、今まで見て来た中で、一番綺麗な笑顔を見られたことがどうしようもなく嬉しくなってしまう。
彼女の手をぐっと引いて、腰を掴んでオルハの身体を持ち上げた。


「よかった……!」
「わぁ!?」
「わ、悪い。その、かなり嬉しくて」


頬を赤く染めて照れる青年らしい等身大のダンデの姿がそこにあった。
今まで見ることが出来なかったダンデの表情に、オルハもまた、頬を染めて愛おしさを噛みしめる。
スポットライトを浴びて、歓声を浴びて。チャンピオンとして名を馳せているダンデ君は太陽のような象徴ではなくて、一人の人なのだと。

持ち上げていた身体をそっと落としてすとんと地面に降り立ったオルハに、ダンデは外していた帽子を被ったうえで改めて自分の想いを伝える。


「俺は無敵のチャンピオンであり続けるつもりだが。もしも……俺が、チャンピオンでなくなる時が来ても。オルハには一緒にその先の俺も見ていて欲しい」
「……うん。勿論だよ、ダンデ君」


チャンピオンでなければ彼とは出会えなかった。
しかし、その称号がなくとも。真っ直ぐと直向に自分の夢に全力で突き進む彼の姿が、好きで堪らなかった。
それがオルハが伝えることを諦めていた答え。
絵本は、切り取ったたった一ぺージの思い出だけで成り立つのではなく。最後の結末やその先を綴って、"本"となりえるのだろう。