ヴァニラの純正
- ナノ -

青天の慈顔

ダンデがチャンピオンに就任してから10周年。そのプロモーションはガラル内だけではなく、他の地方にまで広がり、チャンピオン・ダンデの強さと名前を各地に轟かせた。
そのプロモーションに携わっている人間の名前が一人一人出る訳ではない。名前も知られることはない、表に出ない人々。
しかしダンデ自身が、自分をよく理解している人が悩みながらも用意してくれたことを良く知っている。

輝かしい一面だけではないチャンピオンという称号。自分が勝ち続けるということはそれだけの敗者が存在しており、彼らの目標となって重圧や責任を負い続ける。
勝負を楽しみながらも、余裕を持つことは出来ない。言い方を変えるのならば、玉座に座る男に、常に銃口が突き付けられている状況。自分の実力にあぐらをかいて慢心出来るわけもない。
リラックスして試合を楽しんでいるように見えて、誰よりもその緊張感を常に絶やさなかったのがガラルで最強と謳われたダンデだった。


それを彼女は良く理解してくれていた。
そして、悔しさを滲ませながらも。拳を握り締めながらも。晴れ晴れとスポットライトを浴びる熱狂の中、帽子を空に向かって投げてチャンピオンではなくなるその時まで――見てくれたのだ。

キッチンから香るのは煮込まれたコンソメスープ。
その匂いにそろそろ朝食の時間かと反応して嬉しそうなガーディと、ガーディの遊び相手になっている殿堂入りを何度も果たしている歴戦のポケモンであるリザードン。
リビングからぼんやりとキッチンを見ながら、当たり前になったその光景を眺めて、男は『家』という安らぐ場所が今ここにあることをふと実感する。
その後ろ姿は、手馴れた様子でご飯を作っていくが、一緒に暮らし始めた当初は料理本を読み込んでいたのを思い出す。


「美味しそうな匂いだな」
「あ、そっちの方にまで匂いが届いた?ちょっと待ってね」


初恋した相手であるオルハと、現在では一緒になって暮らしている。
とは言っても、チャンピオンだった頃は帰れる日も限られていたが、今では家でゆっくり出来る時間も増えている。

そもそも、ダンデが十年前にチャンピオンになって暫くは、帰る場所を設けなかった。そんな余裕もなければ、安心して羽を休めて気を緩めるわけにはいかなかった。
だが、今では。


「手際よく料理を作ってくれるのを見られるようになったなと思ったんだ」
「わー!それは言わないでダンデ君……!」
「はは、あれだけ仕事が出来るから何でも出来ると思ってたのが懐かしいな」
「……家では糸が切れちゃうというかね?自炊全くしない訳じゃないけど自分が食べる分だし、って手を抜いてたというかインスタントな物に頼ってた所があるのは……事実だけど……」


付き合っていなかった頃、彼女がお昼にはファストフードやかき込めるカレーを取ることもよくあると言っていたことを思い出す。
一人暮らしが長かったこともあり、基本的な家事はお手の物ではあるらしいが、料理は程々に手を抜いていたようだった。
料理の味を堪能すると言うよりも、忙しい中でかきこめるのを優先としていたダンデとしては幻滅したなんてことはなく、寧ろ共感出来たのだが、オルハは「頑張らせて欲しい」と、料理本を片手に作り始めた。
その努力している姿を知っているからこそ、感謝が尽きない。

器に温めたパンと作りたてのコンソメスープに色とりどりに盛り付けられたサラダ、それからターンオーバーの目玉焼き。
食事を誰かと楽しむなんて感覚を忙殺される日々で忘れてしまっていたが。それも今では昔の話だ。


「でも、ダンデ君、これから忙しくなるんでしょ?帰って来られない日もあるだろうけど、ちゃんとご飯は食べてね?」
「ローズタワーも同じシュートシティにあるから流石に帰れない日が続くなんてことは無いと思いたいんだけどな」
「目標決めた途端、突き進んで行っちゃうから……ホップ君もそれだけちょっと心配してたよ?活き活きしてるのには安心してたけど」
「はは、ホップに心配される日がこうやってくるなんてな。だが、色んなトレーナーとバトル出来るかと思うと楽しみなんだ」


きらきらと好奇心に満ちた笑顔は、出会ってから今までで一番、純粋に輝いているように見えた。
観戦はするものの、根本的にポケモンバトルをよく分かっていないオルハはオルハなりに、ダンデをよく見ていた。
挑戦者という立場になったことで今まで以上に貪欲に、ガラル中のトレーナーが強くなるようにという夢に邁進している。
今まで以上に自由に、新しい可能性に手を広げられるのだ。



「でも、ダンデ君、良かったね」
「え?」
「忙しかったチャンピオンの時期が終わって暫くは家に居る時間も長くて何だかやる事が分からなくて悩んでるように見えたから、今のダンデ君は本当にダンデ君らしいし」


オルハの言葉にダンデは目を瞬かせ、後ろで話を聞いていたらしいリザードンは長い首を縦に振って頷く。
最高のパートナーであるリザードンもそれを心配してくれていたようで、オルハは「そうだよねー」と声をかける。


「……ははっ」
「ダンデ君?」
「いや、オルハが嫁になってくれて良かったと思ってな……」
「ほ、褒めても何も出ないってば……!」


籍を入れたのはチャンピオンリーグが終わり、委員長達の問題も落ち着いてからの事だったが、一応伝えたのは今の所身近な人だけだった。
勿論、初恋を自覚する切っ掛けをくれたキバナにもそれは真っ先に伝えたのだが。
俺の奥さんが可愛い、と以前キバナに相談した所、じとっとした眼差しで「お前天然か?わざとな惚気じゃなくてマジで言ってるんだよな?」と返されていた。

「俺が言いたいから言ってるだけなんだが……オーナーになってからはより一層そう思ってるぜ?」

立ち上がったダンデはキッチンに居るオルハに歩み寄り、愛情を照れ隠しする訳でもなく抱き締めた。あと少し、お皿に盛り付けるだけで準備が終わる状態だったけれど、オルハはダンデに体重を預けて愛おしさを噛み締める。
鍛えられた逞しい腕に包まれる感覚は何時だって落ち着くのだ。

今はもうオルハもチャンピオンの担当ではないし、ダンデもまたチャンピオンではない。
しかし、その縁があったからこそ今があり、その縁がなくなったとしても人として愛したのだ。
その縁が恋人になり、そして家族になり。

(俺が誰かに恋をする日が、来ること自体を考えていなかったな)

同じくらいの目線にまで背中を曲げて。触れる位の口付けを交わし、顔を離して熱い息を吐く。
今では夫婦としての熱く絡むような愛情表現も自然とするようになったが、口付けでも恥ずかしがっていた当初が懐かしいと思いながら、ダンデはオルハの長い髪をすくう。
香りが鼻をかすめるが、同じシャンプーを使っているからか、匂いが似ているような気がした。


「今日は時間があるから、たまにはナックルシティの方まで行ってみるか。あー……道案内はリザードンとオルハに任せるが」
「うん、そうしてくれると安心するかな!それにしても……おとぎ話で終わらなかったなぁ」
「おとぎ話?」
「ううん、こっちの話」


ーー夜に部屋のベランダから連れ出してもらって夜の空をリザードンの背に乗って羽ばたいたあの日をまるでフィクションである絵本の1ページのような夢の時間だったと思っていたけれど。
長く長く続いていく物語の一部だったのだ。


「ダンデ君の夢を、私も一緒に見られるのは、凄く幸せなんだよね」
「……、そうか。それなら、俺のもう一つの夢も叶えられてるんだな」
「もう一つの夢?」
「あぁ、オルハを幸せにしたいっていうただの普通の男としての夢さ」


人々にとって輝き続ける太陽という象徴ではなく、地に足を付けた一人の男として、一人の女性を幸福にするという、ほんのささやかな夢を。
バトルタワーのオーナーとして新しい道を歩み、ダンデという男はガラルの英雄で在り続けながらも、叶え続けていこうと澄み渡った空のような笑顔を浮かべるのだ。