Masquerade
- ナノ -

時を刻む針は拒みたがる

「……はぁ、ただいま、レイ」
リドウの元を訪れた後、そのリストを洗い出して取り合えずは目ぼしい所を自らの足で回っていたユリウスは、疲れた様子で帰宅した。
捜査に疲れた、というよりも、なるべくなら会いたくない相手に会ったことで疲れたと表現した方が正しいだろう。

――俺が彼女を利用している?

確かに、彼女の親切心に甘えて、付け入るように彼女の周囲の環境を変えていっている点と、ルドガーへの兄としての親愛をそれがあっての俺だと受け入れた上で一線を引いている点に関しては彼女の優しさや良心を利用している。
それは間違いない。
だが、レイを都合のいい人間として扱っている訳ではないのだ。
そうでもなかったら、仕事の枠を超えた時点で適度な距離を取る筈だ。自分は、そういう人間だと自覚していた。
中折れハットを外し、コートをハンガーに掛けたユリウスは「おかえりなさい、ユリウスさん」と言いながらキッチンから玄関まで小走りで出て来たレイに表情を緩める。
リドウに会っていた分、彼女に出迎えてもらった安心感が何時もよりあった。
ふと、ふわりとユリウスの鼻をかすめるのはトマトを煮込んでいるような、そんな香りだ。好物のトマト料理を用意して待っていてくれたのだろう。
「今日はどんなトマト料理なんだ?」
「ふふ、匂いで分かってしまうんですね。今日は、買い物に付き合ってくれたルドガーがユリウスさんに作ってあげて欲しいとレシピをくれたので、挑戦してみたんです」
「ルドガーが……それをレイが作るんだ、美味しいに決まっている」
「……褒め上手、なんですから」
本当なら、そのレシピはルドガーが作ることで、ユリウスにとって一番美味しいものになったに違いない。
それは遠慮なのではなく、本気でそう思っているからこその思考だった。誰も、ルドガーの代わりになることは出来ない。
そんな当然のことを当然のように受け止めているからこその考え方に違いなかった。
けれど、美味しいと言ってもらえるのはやはり嬉しいという本音は隠せない。
レイはキッチンに戻り、途中で留めていた作業を再開する。
私なりに、彼がほっと一息を付けるような場所を、時間を提供できるのなら。これほど嬉しいことは無いと実感しながら、レイは手早くフライパンで炒めて料理を作るのだった。
ユリウスが待っているテーブルに、出来立ての魚にトマトソースをかけたプレートを並べて、二人は「いただきます」と声を揃えた。
分量もルドガーが書いてくれていたから、その味はどちらかというとレイの料理というよりもルドガーの料理だった。
「ルドガーのレシピ、本当に美味しいなぁ……それでも、完璧には再現できてないんですけどね」
「そんなに謙遜することは無いさ。ルドガーとレイの料理を食べられる環境にずっとあったからこそ、外食をする必要もないんだ。まったく、贅沢だよな」
「私もこんなに上達したのは二人のお陰ですよ。ルドガーには料理のことを色々教わってますし、美味しいと言ってもらえることでもっと作ろうという想いにもなりますから」
だって、どんなに仕事で忙しくとも、ユリウスはルドガーが居ないこの事務所に、夕食を楽しみに帰って来てくれるのだから。
それが例えユリウスが意図的に居場所に出来る理由としてくれているのだとしても。そんな厚意に甘えてしまってもいいだろうかと思っている狡さは許されたかったのだった。

食後の語らいもほどほどに、ユリウスの仕事を邪魔してはいけないと考えていたレイは早々に「おやすみなさい、ユリウスさん」と声をかけて二階へ上がっていった。
そんなレイを見送り、その後姿が見えなくなったと同時に、ユリウスは浅く溜息を吐く。

「知り合いとはいえ、男の家に泊まることになっていることに何かを思ってくれたら……なんて都合よく考えていたが、そう甘い話ではないな」

彼女が自分を妙に意識して緊張している所を見たい――なんて本音も実はあった。
そうやって彼女から自分に対する何らかの隙を見せてくれたら、口実が出来ると考えている時点で身の安全を守る為、という善意の行動からはかけ離れている。
ユリウスは頭をリセットしようと首を鳴らし、夜にも拘わらず、コーヒーを飲みながら昼にリドウからもらった資料をぱらぱらと捲り始めた。

――プロファイル分析は明確に。
先ず一つ目、犯人は霧の日という特別な日に犯行を行っている。そして、それは人目に付かないという理由、そして霧の日という曖昧で不明瞭にする概念に固執している。
二つ目、被害者に子供は居ない。皆、成人女性と成人男性だ。そして犯行手段は実に様々で、その切り傷から見られるには執着というよりも論理に則った上で、こうしたらどうなるかという臨床実験を自分の興味のままに楽しんでいる傾向がみられる。
三つ目、死体遺棄は決して行わない。そのまま、放置している。
四つ目、これが決定的だ。捜査に関心を寄せ、犯行後に現場を訪れている。

つまりここから導き出されるのは反社会的なパーソナリティーを持ち合わせているのではなく、無秩序でもない。
秩序型であり、事件が街中に広がることを楽しんでいる節がある。自己顕示欲がある。無秩序でこの性質があるのならば、自分を印象付けたいという社会的弱者である可能性が高いが、今回の場合はプライドが高く、それなりに地位がある人間が行っているという仮説が立てられる。
事前に男に狙いを付けてマスクに仕込んでいる辺り、かなり用意周到で慎重さがある。

「しかもこの男はよく酒場に通っては朝まで泥酔していたという情報がある。風邪気味の状態で飲んだとあれば、意識が混濁していたとあれば」

事前に目を付けていて男に朝盛ったことが考えられる。つまり、一般的な会社員の勤務時間前だ。
ユリウスはぱらぱらと分厚過ぎる資料を捲って、ここ数か月以内に病院を辞めて、研究に移った人間、或いはとある病院と密接な関係にある研究所に所属する人間を先ずは洗い出す。
そして次にすべきことは、その人間と関りがあるだろうと当たりを付けた病院内の、外科医を除く人間の洗い出し。

「……リドウの用意した物も、偶には役立つ」

本人には絶対に言いはしないが、それだけこのリストは個人情報として優れていた。
かなり犯人の輪郭は見えてきている。大体の病院の特定も間もなく終わるだろう。そうなれば実際に病院の日程の情報を、警察から取って来てもらえば照合できる。
なかなか頭が切れる犯人だったが、唯一の誤算は香りが完全に消える前に自分が現場に居合わせたことだ。時間が経てば消えてしまう証拠を掴まれたことに、気付いていなかったことだ。
ユリウスはマグカップに残っていたコーヒーを飲み干し、洗いにシンクへと向かう。普段任せてしまっているから、キッチンに入るのも久々なような気がした。
「この案件が終わったら、料理は出来ないが、俺もレイが好きなフルーツでも買って……」

――この案件が終わったら?
自らの呟きに、ユリウスは目を開いた。
事件が解決するということは、その犯人に狙われる危険性がなくなる。それはつまり、彼女がこの家に暮らす日々が終わるということだ。
あぁ、そうか。この日々はずっと続く訳ではないのだ。ユリウスは天井を仰ぎ、瞳を閉じる。
二階で眠っているだろう君は「やっと自分の家に戻れる」と思うんだろうか。もう痛むことはないと思っていた胸がちくりと、針で刺されたような気がした。

- 8 -

prev | next