Masquerade
- ナノ -

踏み出す先は不鮮明

男は近頃当然のようになっていた生活を呆然とその瞳に映し続けた。
玄関から訪れるのではなく、普段自分が居住スペースとしていた二階から降りてくる。
この時には既に私服に着替えられており、時折眠たげな眼をこすりながら顔を洗い、ポストを確認するとキッチンへと向かって、手早く朝食を作り始める。
しかし、孤立して一連の行動をしている訳ではない。彼女は同居している男の存在を常に意識し、声をかける。
「おはようございます、ユリウスさん」だとか「今日はどんなものがいいですか?」だとか「眠たそうですね。昨日は遅かったんですか?ハーブティ、淹れますね」だとか。
脅迫状めいたものが届いた時点で笑っていられる状況ではないというのに、その日々に自然と笑みが零れるのだ。
「?どうしたんですか、ユリウスさん」
「いや……今日は、コーヒーが身に染みるな」
ぼうっと部屋を眺めていたユリウスの様子に、レイは不思議そうに彼の顔を覗き込む。
彼はコーヒーを淹れたマグカップから口を離して咄嗟にあくまで自然と、流れる水の様に誤魔化すのだが、そんなユリウスの異変をレイは気のせいかと処理しなかった。
「……あまり、無理はしないでくださいね」
「心配しなくとも無理はしていないさ。資料の読み漁りや聞き込みに向かうことはあるが、それこそ無理のない範囲だ。それに、もう間もなく真実を捉えるからな」
「……!未だに警察も一切手掛かりが掴めていないと新聞で出ているのに……ユリウスさんは、凄いですね」
犯人は未だに姿を現していないが、警察もまた一切犯人の手がかりをつかんでいないという見出しが連日新聞に載せられている。
住民たちからの警察への不満が高まっているようだが、彼は水面下で着実に、その尾を既に掴んでいるのだ。
探偵として警察からも最後の砦として頼られるユリウスのその力量に、レイはただただ驚くばかりだ。
彼が連日資料を読み、情報屋に顔を出し、そして警察に何かを頼みに行っていたようだが、それでも短期間で犯人像が一切掴めていなかった事件が分かるというものなのだろうかと一般的な感覚で思ってしまうのだ。
「……」
「……ユリウスさん?」
「いや……もしかしたらもう少しかかるだろうと思っていたんだが」
その言葉の意味は全く分からなかった。
早く解決できそうなことにほっとしているのだろうか。
それとも。
事件があっさりと終わるのが、惜しい?
そんなまさか。ユリウスに犯人との駆け引きをゲーム感覚で楽しむような所はない筈だ。
――いや、そもそも。彼は普段どんな気持ちで事件を解決しているのか、掴めたことは無いような気がする。
正義感の為に人々の生活に安心感を与える為に解決しているようではなさそうとは、何となくレイも感じ取っていた。
その手際の良さや、感情をあまり表に出さない部分が寧ろ淡々とこなしているようにさえ見える程だ。
この事件が解決するとしたら、彼はどのように感じるのだろうか?

感情がこの時ばかりは読み取り辛いユリウスの眼鏡の奥の瞳をぼんやりと見詰めて思慮にふけていたが、急にむずりと鼻を襲った痒さに鼻を抑える。
「はくしゅっ」
「風邪を引いたか?」
「い、いえ。でも、昨日は温かかったのに、急に寒くなったので寒暖差でくしゃみが出たのかもしれません」
「あぁ、ここ一か月程で風邪を引いている者が右肩上がりに急増しているらしいな。本当に、大丈夫か?」
「ふふ、大丈夫ですよ。あ、でも寒いのでユリウスさんもコートを着て行ってくださいね」
買い物はルドガーに時々付き合ってもらっているとはいえ、外に出ていない自分が風邪を引いている訳にも行かないと苦笑いをして、そそくさとハンガーラックにかけてある彼のコートを取りに向かう。

「行ってくる、レイ」

朝食を取り終えたユリウスはレイから受け取ったコートを羽織り、ハットをかぶって、傘を持たずに事務所を出る。
この日は早朝から、薄い霧がかかっていた。


――霧の日には未だに捕まっていない悪魔が出るとして、親子連れは夕刻を過ぎた時間帯からぐっと減る。
白いベールが遠くの景色を不鮮明にし、ガス灯がぼんやりとシルエットを浮かび上がらせている。だが、肝心なものは白い霧に包みこんでしまう。
その幻想的で、不安を膨張させる不鮮明さに高揚というものを覚えている男は、霧の日に執着を見せていた。
現実と幻想の境界線が曖昧になるような錯覚を覚えるこの瞬間の犯行は、現実から逸脱できる。
案の定邪魔が入ることもなく、この場所まで訪れることが出来た。
あの日、偶然見かけたこの都市で有名な名探偵も、被害者に関する聞き込みや、何故かスラムのような場所や都市の中でも治安が良いとは言えない場所で、そんな場所とは無縁だろうあの男が十代後半から二十代を中心に聞き込みをしていたことを噂で耳にしている。
的外れな聞き込みをしているうというものだと堪えるように笑い、リズムよくスキップをするような歩調で歩き、時計の時間を確認したのだが。

「……?」

いない。
標的が、いない。
もしや気が大きくなって、早過ぎただろうか。
何せ二週間ぶりの霧の日だ。逸る気持ちが抑えられなかった己を反省したのだが。
「ターゲットにしていた女がこの道を通らないことを不信に思っているようだな」
「……!」
男は、先ず情報として飛び込んで来たここに来るはずではなかった人間の声に目を開き、振り返ってその姿を確認して呆然とする。
――何故だ?証拠という証拠は残っていない。目撃証言もありはしない。だから、警察は自分を一切特定できなかったのだ。
現に、霧の日だからと朝から警察はかなりの人員を割いて見回りしているようだが、この周辺に警察の姿は一切見当たらない。
なのに、なぜこの男は。

「ユリウス・ウィル・クルスニク……!?一体何故……!」
「確かに頭の回る犯人だった。お前のお陰で俺は色々と都合の良い口実が出来た訳だが、……彼女の身の安全を脅かそうとしたことだけは、頂けないな」
反射的に、犯行に使おうとしていたナイフでユリウスに襲い掛かった男の腕は、空を切った。
咄嗟の判断での行動だったのにも関わらず、ユリウスはそれを避けていた。
知識と知恵を司る探偵が、まるで軍人の様に――いや、不良の様に。
ナイフの動きを避けて、あまつさえその腕を掴んで捻り上げ、足のつま先を鳩尾にめり込ませてくるなんて、誰が予想した?
腕を捩じられる痛み、火花が飛び散ったような鮮烈な腹部の痛みに手に握っていたナイフはぽろりと零れ、それがカランと音を立てて地面に落ちるまでに、もう一度脳が揺さぶられる。
再び、背中に重い蹴りが入ったかと思うと、壁に叩きつけられた刹那、脳震盪を起こしてぐらりと海底に沈没するような意識に引き摺られるままに、落ちたのだった。
ユリウスは男の腕を取り合えず用意していたロープで縛りあげ、路地を出た先の大通りを通りかかった警官を呼び止めて、軽く事情説明をすると、只事ではない状況だがあまりの突然すぎることにぽかんとしている警官の肩を叩き、そのまま立ち去ってしまった。


――まぁせめて。未だ誰かにお披露目していない謎解きをお前に教えてやろう。
先ずは、俺が捉えた犯人像だ。
犯人は社会的に地位があり、プライドの高い社会人であることはプロファイルして分かったことだ。
そしてその傷口から、ただ興味本位で残忍に、本能赴くままに行ったことでもないことは分かっていた。そうだ、医学的知識を持ち合わせていた。
例えばどこをどうすれば、死に至りやすいか。そういった所を狙っているのにも関わらず、傷口は荒い。抵抗されたというよりも、知識を持っている割にはお粗末だった。
クロロホルムを調達できたことに加えて、そこから俺は外科に対して興味関心がありながらもそうではない人間だと判断した。
例えば、外科は志したが研修医時代に諦めただとか。内科や精神科医だが、外科手術や臨床実験に漠然とした憧れと劣等感を抱いているだとか。
そして病院の勤務表を警察に調べさせて、犯行時間と照らし合わせてた訳だ。

だが、それだけで解決できたわけでもない。
そうだ、お前の寄こした情報だ。
新聞にこそは載っていなかったが、ここ数か月、奇行に走る若者が増えていたようだな。そしてこの一か月でまた更に増えたことはスラム街の聞き込みで裏付けしてある。
今流行っているという風邪。風邪薬には色々種類があるが、中には一度に多量接種をすれば高揚、幻覚、幻聴に襲われるものがある。
用法さえ間違えなければそんな症状は出ない分、違法ではないが、若者たちの間ではこの話が回っていたようだ。
タバコと同じで本物もこの時代、このご時世、規制されている訳ではないが、若者が手っ取り早く得るにはそれが都合がいいということだ。
その種類の風邪薬――それを一度に多めの量で処方していた医者とプロファイルで分かった人物像と照らし合わせた結果、一人が特定できたという訳だ。
そしてその医者の患者のリストも確認した結果、この人間が次に標的にされるだろうという相手を数人特定出来た。
そこで警官に事情を説明するのは後々にして、とりあえずはその人間を今日保護させ、俺は本人に顔を合わせて来たという訳だ。

「いやいや、これは御見それいった。流石は四番街の名探偵、ユリウス・ウィル・クルスニク」

探偵の推理の過程を聞いていた情報屋はぱちぱちと拍手をする。
情報屋という職業を生業にしている分、食えない、道化のような男だ。だが、その腕は確かだ。
だからこそ、ユリウスは警官から得られない情報源はこの男に尋ねることもあった。とはいえ、リドウ程ではないが法外な料金を要求してくるのがネックだ。
探偵と言えども、元の職業柄、クリーンな方法ばかりで調べないのがユリウスという探偵特有の特徴だ。
勿論、同時に起こっていたその風邪薬によってハイになっている若者の件が引っ掛かって、この情報屋に尋ねたのはユリウスだが、この男も理解した上でユリウスに青年達が何処の病院を拠点に風邪薬を入手しているのかピックアップしてきた辺り、やはり食えないものだ。
「……お前、この件をどこまで把握していたんだ?」
「さぁ?俺は売れる情報までしか知らないぜ」
「……良く言う」
まるでユリウスが担当していた事件に関しては何も知りませんとおどけるように肩を竦める情報屋に飽きれつつ、ユリウスは今回の事件を解決できた報酬だと、胸ポケットに入れていた小切手を取り出し、男に渡す。
これで十分だと頷いた男は、「今後もご贔屓に〜活躍期待してるぜ」と調子よく笑い、裏路地から霧が深い大通りへと紛れて消えていく。

「……、レイが好きなリンゴと、ブドウでも買って行こう」

事件が解決したという号外を知り、心配した顔で『大丈夫でしたかユリウスさん!?』と迎えてくれるだろう彼女を、少しでも安心させる為にも。
――あぁまったく。
家に帰るだけだというのに、俺が進む先の道は霧が深いものだ。


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